【天候】 晴れ 
【宿場】 (32)韮崎宿⇒(33)台ケ原宿
【行程】 
歩行距離=18.10㎞ 総距離=169.73㎞
韮崎・本町交差点⇒(4.15㎞)⇒桐沢橋東詰⇒(3.70㎞)⇒戸沢渡渉点⇒(4.18㎞)⇒武川村米の郷⇒(3.94㎞)⇒尾白川橋南詰⇒(2.13㎞)⇒台ケ原・つるや旅館前

【ルート図】
  ↓宿場(黒囲みが第12回旅の宿場)

第12回宿場
  ↓旧甲州道中の旅・進捗状況
  (12回=今回の旅区間・1回~11回=完歩区間)

第12回全体ルート
  ↓第12回の旅ルート
  (韮崎・本町交差点 ⇒ 台ケ原・つるや旅館前)

第12回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
昨年12月に第11回の旧甲州道中旅(酒折駅前交差点韮崎・本町交差点)を行ってから冬眠に入り、春爛漫となった時期に穴倉から出てきて旅に出ました。
3ケ月の冬眠は、先輩の街道ウォーカーから「甲州路の冬は寒いから暖かくなってから歩いた方が良いよ」という助言を頂き、素直に受け入れて決めたものです。
相方のMさんは私の冬眠の間に未踏破部分(日本橋から猿橋)を歩く予定だったのですが、寒さと一人旅の葛藤があり、4月に入って日本橋から桜上水駅まで踏破したそうです。
高尾・小仏バス停から藤野駅までは私も旅の資料を紛失したため歩く予定にしており、Mさんに
 「一緒に歩きましょう」と声を掛けています。
《日程変更》
第12日目の旧甲州道中旅の日程は、Mさんとかなり前に調整して決め宿泊する旅館も予約していたのですが、予定していた諏訪・御柱祭りの下社・木落としを見学することが出来ないことが3月下旬に判明し、急遽日程の再調整を行い今日の旅立ちになりました。
※1=当初計画
4月6日~4月7日に街道旅、4月8日に御柱祭の木落としを見学する予定でした。
ところが、木落とし見学は、
 ●有料観覧券を持っていないと会場までのシャトルバスに乗れない
 ●御柱の引き子も担当地域の住民で半纏を着ていないとダメ
 ●会場は観覧席以外では見学出来ない
など、目の前で見ることが出来なくなりました。
これは今回からの処置で、御柱祭りのHPにも観覧券のない場合のことについて記されていました。
※2=計画変更
御柱祭りが見れないのなら1日延期して4月7日~4月8日に再調整して宿泊予約した旅館に日程変更を連絡すると、「7日は団体客の予約が入っています」と云われ、Mさんの了承を得て8日の宿泊予約を行い、4月8日~4月9日で旅をすることになりました。
また、旅の日が雨天であってもそれぞれの予定が決まっているため、順延しないで決行することにしました。
《資料作成》
旅で使う地図および立ち寄る史跡などの場所を地図に書き記す作業は、あまり早く作ってしまうと記憶した史跡などの情報が薄れてしまうため、3月下旬に地図(80枚)を印刷し、本陣跡や道標などの史跡の場所を地図に書き記す作業を行いました。
ところが、他の情報も確認して史蹟等の補充を図る予定にしていたのですが、すっかり忘れてしまい旅に出る前日に1日かけて資料を整えました。
さて、今回は2日間で約37㎞歩く予定にしており、
 ①.標高で600m上る(韮崎・本町交差点の標高=360m、富士見の標高=960m)
 ②.2ケ所に動物除けの電撃ネットが設置されている
 ③.昼食の場所が見付かるか
など、足への負担以外に気を付けなければなりません。
《旅の準備》
今回の旅は、街道とJRが数㎞離れているため、旧甲州道中で初めて宿泊する旅になります。
そのため荷物は2日間背負って歩かなければならず、少しでも軽量化を図るため、
 ●靴下はインナーの薄地靴下のみ履き替え
 ●下着はパンツ以外は2日間着用
 ●シャツ、上着は2日間着用
することにし、日帰り山行用品、髭剃り、防寒着、地図(2日分)などをザックに入れ、旅の支度を整えました。
《Mさん》
Mさんの奥さんは旅に出発する3日前にインフルエンザB型を発症したと聞き、Mさんに「病人を残して旅に出るのは止めましょう」と申し上げ、前日の夕方までに連絡をお願いすると、「熱が下がってきたので行きます」と返事があり、今日の朝を迎えました。
Mさんに奥さんの容態を聞くと、「今朝、少し吐き気があったのですが、食べる支度だけして出てきました」と聞かされ、大人が判断したことなので何も云わずに旅に出ました。
旅の途中、何回もメール交換で病状の確認を行い、多少発熱が続いているようでしたが、快方に向かっているとのことでひと安心しました。
【移動】
目覚ましの音楽で目覚め、「今日から街道旅だ」と自分に云い聞かせながらベットを出て洗面、血圧・体重測定、両足のケアの後、旅支度を行い朝食を食べ、トイレを済ませてから街道旅のウォーキングシューズを履いて出発しました。
自転車に乗り朝の冷たい風に身を引き締めながらコンビニに着くと、Mさんがコンビニから出てくるところでした。
挨拶を交わし、歩きのMさんはそのまま駅に向かい、私は入れ替わりにコンビニで買い物を行い、自転車を駐輪場に置き、Mさんと一緒に最寄り駅に向いました。
06時33分、八王子駅発
座席に座り、早起きした寝不足を解消したり、歓談したりして過ごし、目的地の韮崎駅に到着しました。
立川駅から初めて普通列車で来た記念すべき日になりました。
08時28分、韮崎駅着
003 韮崎駅
駅のホームで衣服調整を行い、私はアウタージャケットとチョッキを脱ぎ、薄地のジャケットに着替え、改札を出てトイレに寄ってから今日の出発地に向かいました。
改札口を出て駅舎に沿って右に進み、車道に突き当たったら右折してJRのガードを潜り正面を見ると、関東三大観音像と云われている「平和観音像」が見えます。
004 平和観音像
関東三大観音像=高崎観音像、大船観音像
この道を約120m歩くと県道27号に突き当たるので、左角の韮崎漢方薬局に沿って左折します。

005 分岐(左折)
そして、約230m歩くと本町交差点がとなり、ここが今日の出発地(前回の到着地)です。

【=旅=】
08時40分、韮崎・本町交差点(出発地)
006 本町交差点(出発地)
本町交差点で出発式を行い、今日の旅に出発しました。
出発して約50m歩くと窟観音の石柱が左側の道路端に建っており、街道(黄色線が街道)を外れて見学に向かいました。
※窟観音分岐(右側)
007 窟観音入口(右折)
道を真っ直ぐ進むと左側に雲岸寺があり、右奥に窟観音が祀られていました。
※雲岸寺
008 雲岸寺・本堂
08時47分、窟観音
009 窟観音堂
窟観音は七里岩の南端、岩崖絶壁の中段に祀られており、洞窟に聖観世音菩薩、弘法大師御尊体、千体地蔵尊のほか数知れず石仏が安置されている。御堂の建築様式は室町時代のもので、岩壁に張り出した舞台作りの珍しい建造物です。
※観音像が祀られた洞窟の道(反対側に抜けられる)
010 観音堂石仏群
※弘法大師像
011 弘法大師座像
窟観音を見て再び街道に戻り約70m歩くと、左側ににらさき文化村があり、入口の植え込みに宝塚歌劇団創設者の小林一三翁生家跡と記した石柱が建っていました。
08時54分、小林一三翁生家跡(左側)
014 小林一三翁生家跡
小林一三翁生家跡碑の道路反対側の斜め前に豊島屋酒店がありましたが、時間が早く開店前だったので、立ち寄れませんでした。
08時55分、豊島屋酒店(右側)
015 豊島屋酒店
酒店から約180m歩くと右側に白髭神社があり立ち寄り、お賽銭をご奉納しYumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
08時58分、白髭神社(右側)
016 白髭神社
※金井志雪句碑(境内左側)
017 金井志雪の句碑
白髭神社を出て県道17号の七里岩ラインを道なりに約300m進むと、右側に青坂バス停があり、バス停の手前の道を少し戻るような感じで眺めると、左側に馬頭観音が建っていました。
09時04分、馬頭観音(左側)
018 馬頭観音
バス停の先に村松石材店があり、真後ろに七里岩の断崖が迫っています。
※七里岩(右側)
019 七里岩
道は村松石材店の約20m先で分岐し、七里岩ラインは右の青坂を上り、街道は左に進みます。
※分岐(左)
020 分岐(左)
分岐を左に約140m歩くと右側の石垣の上にお社が祀られている行人塚(行人正人)がありました(上野電子㈱の手前)。
09時08分、行人塚(右側)
021 行人塚
行人塚から約260m歩くとR20に左入りする道があり、その脇に水神宮碑が建っていました。
09時12分、水神宮碑(左側)
022 水神宮碑
水神宮は釜無川の氾濫に悩む村人が建立したものだそうです。
街道はこの先でR20に合流する一ツ谷交差点で、R20を進みます。
※分岐合流(R20)
023 一ツ谷交差点(右折)
交差点の先で後方に富士山が眺められ、一ツ谷交差点を渡ったところで左に入る道があり一ツ谷水源のところで満開の桜を入れた富士山を記録に残しました。
※富士山と桜(一ツ谷水源付近)
024 富士山と桜(一ツ谷水源)
写真を撮ったところからR20に戻り進行右側に渡って約140m進むと、左側にネッツトヨタ販売があり、その前の道下に十六石碑が建っていました。
09時20分、十六石碑(右側)
026 十六石碑
十六石は、武田信玄公が、まだ晴信といわれた頃、釜無川の水害から村を守る ため、治水工事を行い、その堤防の根固めに並べ据えた
巨大な石が十六石といわれていますが、近くには十六石を表わす石がないので、十六石の大きさは分かりません。
十六石碑から約400m歩くと一ツ谷公民館前信号があり、右側の一ツ谷公民館の庭に一ツ谷地蔵群がありました。
09時29分、一ツ谷地蔵群(右側)
027 一ツ谷地蔵群
中央三体の地蔵の右側にある庚申塔は1,793年、左側の馬頭観音は1,780年に建立されたようです。
一ツ谷公民館から約120m歩くと、右側に秋葉常夜燈が小さい祠と並んで建っていました。
09時31分、秋葉常夜燈(右側)
028 秋葉常夜燈
常夜燈から約80m歩くとセブンイレブンがありましたが、立ち寄ることなく先に進み、更に220m歩くと右側に滝田建材㈱韮崎生コン工場があり、工場敷地内の左側に3基の祠が祀あり、祠の中に球形道祖神が祀られていました。
09時35分、石祠・球形道祖神(右側)
029 球形道祖神
滝田建材㈱を出ると直ぐにR20から分岐する道があり、街道は分岐して右に進みます。
※分岐(右)
030 分岐(右)
分岐点に水難供養塔が建っていました。
09時37分、水難供養塔(分岐点)
031 水難供養塔
分岐の道を進むと右側に七里岩、左前方に目を移すと冠雪の鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)、右側に甲斐駒ケ岳を眺めることができました。
※鳳凰三山(白丸印)の眺め
033 鳳凰三山
分岐点から右側の七里岩や左側の鳳凰三山などの山々を眺めながら約850m歩くと、三本の用水路があり、勢いよく流れていました。
09時49分、三条の用水路(右側)
034 三条の用水
三条の用水路から約50m歩くと、白壁の蔵が立ち並んでいました。
※建ち並ぶ蔵
035 蔵の並び
三条の用水路から約250m歩くと、右側に30代続いているという宮方家があり、藁ぶき屋根の門が残っていました。
09時55分、藁ぶき屋根の門(右側)
036 30代続く旧家(宮方家)
宮方家から約70m歩くと、左側に神明宮が祀られていました。
09時57分、神明宮(左側)
037 水明宮
神明宮から約150m歩くと左側に火の見やぐらがあり、その向かい側に南無阿弥陀仏供養碑が建っていました。
この供養碑は石の上半分が赤味がかっているところから、この近辺では「赤地蔵」と呼ばれているそうです。
10時00分、南無阿弥陀仏供養碑(右側)
039 赤地蔵
供養碑から約240m歩くと七里岩の高いところが見え、資料によると白丸印付近に新府城があったと云われている場所のようです。
※新府城跡付近(白丸印)
040 新府城があった付近(七里岩の上)
赤地蔵から約430m歩くと、左側のR20道下に九頭竜大神碑及び石塔と道祖神が祀られていました。
10時07分、九頭竜大神碑(左側)
041 九頭竜大神碑
九頭竜大神碑や石塔群から街道は釜無川を渡るのですが、現在は渡し場がないのでR20に合流したところでUターンして桐沢橋を渡ります。
そして九頭竜大神碑から約160mガードフェンス沿いに歩くと、NTケーブルという会社の手前辺りでUターンし、R20を甲府方面に逆戻りします。
※分岐(合流・Uターン)
042 分岐(左折折り返し)
R20をUターンすると正面のエネオスGSの奥に、雪に覆われた富士山が見えました。
043 分岐手前からの富士山
Uターンして約350m歩くと左側にエネオスGSがあり、その先の桐沢橋東詰交差点を右折して桐沢橋を渡ります。
10時13分、桐沢橋東詰交差点(右折)
044 分岐(右折)
左前方に富士山を眺めながら桐沢橋を渡るとT字路となり、分岐を右折します。
※分岐(右折)
046 分岐(右折)
右折して約180m歩くと右側に平成21年7月31日で閉鎖された山梨県立韮崎射撃場跡があり、再開発事業が進められているので、数年先にはこの辺りの風景は一変しそうです。
  ※山梨県立韮崎射撃場跡(右側)
047 県立韮崎射撃場跡
韮崎射撃場跡から約350m歩くとガードがあり、ガードを潜った左側に石仏石塔群あり、この中の馬頭観音像は1848年建立だそうです。
10時24分、石仏石塔群(左側)
048 石仏石像群
歴史を感じる石塔がありましたが、雑草の中にほったらかしにされた状態でした。
石塔群から約80m歩くと、左側の高台に原山神社が見えましたが、登っていく元気がなかったので、記録だけ残して先に進みました。
  ※原山神社(左側)
049 原山神社
原山神社を見ながら約80m歩くと変則五差路となり、青哲町青木の標識に沿って右折します。
10時27分、分岐(変則五差路・右折)
050 分岐(右折)
分岐を過ぎると高川南沢川に架かる小桐橋を渡ります。
051 小桐橋
橋を渡りながら堤防の土手を見ると、染井吉野の桜が満開に咲き誇っていたので、お花見と休憩を兼ねて街道から外れて土手でひと休みしました。
10時28分~10時40分、休憩(右側)
052 高川南沢川堤
街道に戻り約45m歩くと、Y字路分岐となり、左側に進みました。
  ※分岐(Y字路=左)
053 分岐(左)
Y字路を約40m歩くと左側に、男女双体の道祖神が祀られていました。
10時42分、男女双体道祖神(左側)道祖神
054 清哲町・道祖神
男女双体道祖神から約20m歩くと、Y字路(下写真)があり左折しました。
 ※分岐(Y字路=左)
055 分岐(左)
左に進んだ道を約50m歩くとY字路があり、右に進みます。
  ※分岐(Y字路=右)
056 分岐(右)
Y字路を右に約110m進むと、正面に雨宮寺が見える徳島堰に突き当り、そのまま道なりに歩きました。
10時44分、分岐(合流)=徳島堰
057 分岐(合流)
徳島堰に合流してから約60m歩くと左側に雨宮寺があり、本堂の窓が武田菱になっているというので見学に立ち寄りました。
10時45分、雨宮寺(左側)
058 雨宮寺
  ※武田菱の窓
059 本堂の武田菱
徳島堰(とくしませぎ)は、山梨県韮崎市と南アルプス市を結ぶ農業用水路で延長は17kmあり、名前は堰を作った徳島左衛門俊正に由来している。
  
※徳島堰(左側)
060 徳島堰
雨宮寺から約230m歩くと、左側に鳥居が木柱の八幡神社が祀られていました。
10時50分、八幡神社(左側)
061 八幡神社(木製鳥居)
八幡神社は鳥居の処から奥の社殿を眺めただけで通り過ぎ、約90m歩くとY字分岐となり、徳島堰に沿って左に進みまし
た。
  
※分岐(左)
062 分岐(左)
  ※流量豊富な徳島堰(左側)
063 徳島堰
Y字路から徳島堰に沿って約300m歩くと、左側に障害介護犬協会があり外敵から守るためか、介助犬が逃げないようにするためか、フェンスが張り巡らされていました。
10時56分、山梨障害介助犬協会施設出入り口(左側)
064 電撃柵
協会の出入り口から約70m歩くと用水が交差しているところになり、道中は交差する徳島堰に沿って右折しました。
  ※分岐(右折)
065 分岐(右)
徳島堰に沿って約200m歩くとクランク形に曲がって県道12号に合流し、左折して唐沢橋を渡りました。
  ※分岐(左折)
066 分岐(左折)・唐沢橋
唐沢橋を渡った処から約240m歩くと、桜がj満開の宝蔵寺あり参道脇に多数の石仏が建てられていました。
11時04分、宝蔵寺(左側)
068 宝蔵寺入口
  ※参道沿いの石仏群
069 宝蔵寺参道の石仏群
寺院の参道および境内に植樹された桜は満開で、数台の車がお花見に停まっていました。
道中は寺院の前で分岐しており、真っ直ぐ進む新道(県道12号)を左進まず、寺院に沿うように左に進みました。
  ※分岐(左)
070 分岐(左折)
  ※宝蔵寺境内の桜
071 宝蔵寺の桜
宝蔵寺参道入口から徳島堰に沿って約240m歩くと、堰の降りる階段が設けられた場所があり、昔はここで洗ったりしていたのだろうと往時を想像しながら歩きました。
11時09分、昔の洗い場(左側)
072 旧洗い場
旧洗い場跡から約130m歩くと、右側に山形酒店がありましたが、看板が掲げられているだけで店舗は廃業しているようでした。
  ※山形酒店(右側)
073 旧山形商店
旧山形酒店から約40m歩くと、左側に「北西小スクールバス停」があり、バス停の先隣りに道祖神が祀られていました。
11時12分、道祖神(北西小スクールバス停前隣り)=左側
074 道祖神
バス停の約10m先の処で徳島堰が段差になって流れていました。
私は用水路がこのように段差になっているところはほとんど見たことがなかったので、記録に残していつまでも記憶しておきたいと思います。
  ※徳島堰の段差(左側)
075 段差の水路
段差のある徳島堰を見学し、約15m歩いた先の右側にクロマツ碑が建っていました。
11時14分、クロマツ碑(右側)
076 黒松碑
クロマツ碑から約300m歩くと左側に徳島堰を渡る道があり、その手前左側に水車式発電機が設置されていました。
11時19分、入戸野第一発電所(左側)
077 徳島堰入戸野第一発電所
発電所は振子式下掛水車で、8Kw発電していました。
077-1 名前
さらに第一発電所から約90m歩くと、左側に同じ形式水車の第二発電所が設置され稼働していました。
11時21分、入戸野第二発電所(左側)
078 第二発電所
第二発電所は9Kw発電していました。
078-1 名前
道中はこの先で分岐となり、左側を真っ直ぐに坂を登って進みます。
  
※分岐(左側を真っ直ぐ)
079 分岐(左)
分岐を左側を真っ直ぐに約130m進むと入戸野第三発電所が設置され、ここも発電していました。
11時24分、入戸野第三発電所(左側)
080 第三発電所
第三発電所は8Kw発電しており、第一発電所から第三発電所の3基で、25Kwを発電していました。
080-1 名前
第三発電所から約90m歩くと、戸沢橋を渡る手前に左折する道があり左折すると、約10mで右側に「円井逆断層」の案内標識が建っています。
なお、左折して戸沢川を渡るのですが、渡れない時は左折しないで直進し、戸沢橋を渡るなど約160m先を左折して迂回します。
11時25分、分岐(左折=戸沢橋手前)
081 分岐(左折)
道中は戸沢川に沿って進みます。
  
※分岐(直進)
083 分岐(右)
中は直進する分岐の先(約15m)で戸沢川を渡ります。
しかし昨日の雨天の影響で水嵩が上がり、Mさんも「これでは渡れない」と判断し県道12号まで戻ることにしました。
11時28分、戸沢川渡歩地点
084 渡歩地点
県道12号まで約170m戻り、左折して戸沢川に架かる戸沢橋を渡り、渡った先の左折する道を左折します。
  
※分岐(左折)
085 分岐(左折)
分岐を左折して約110m歩くと戸沢川渡歩地点があり、左側を眺めながら先に進みました。
086 分岐(右)
歩いている道は下円井旧道で、息が少し切れる程度の坂道を上り始めると、沿道には黄色が眩しい菜の花が咲いていました。
  
※沿道の菜の花
087 菜の花
旧道に沿って武家屋敷風の建物があり、石垣は武者返しに出来ていました。
  ※武者返し石垣(左側)
088 武者返しの石垣
また、旧道の坂を上って左側を見ると、立派な長屋門が残されていました。
11時37分、長屋門(左側)
089 長屋門
長屋門のある家を過ぎると土塀や石塀のある家が軒を連ねるようにあり、約190m歩くと右側の火の見やぐらの先に常夜燈があり、桝形道になっていました。
  ※白い土塀・常夜燈(右側)・桝形道(黄矢印)
090 桝形道(入口)
桝形道の出口右側になまこ壁と長屋門の旧家がありました。
  ※なまこ壁と長屋門(右側)
091 なまこ壁と長屋門
  
※分岐(桝形道出口付近)
092 桝形道(出口)
上の写真の分岐から約120m歩くと左側角にカーブミラーが設置されたT字路のようなところになり右折します。
11時43分、分岐(右折)
093 分岐(右折)
右折して約120m歩くと右側に下円井多目的集会施設、左側に資源物リサイクルセンターがあり、リサイクルセンターに沿って左にカーブして進みます。
  ※分岐(左側)
094 分岐(左)
カーブを曲がった辺りの右側に満開の菜の花の先に八ヶ岳連峰が眺められました。
  
※八ヶ岳連峰の眺め(右側)
095 菜の花・八ヶ岳
左側は徳島堰が流れており、川と交差するようにサイホン式になっていました。
  ※川を越えたところで再び水が上がってくる
096 徳島堰サイホン(出口側)
  ※この下で交差している
097 徳島堰サイホン(地下水路)
  
※徳島堰が川の下を潜る入口
098 徳島堰サイホン(入口側)
なかなかお眼に掛かれないサイホン式の水路から約350m歩くと、かかしの里となり、かかしのレプリカが建てられていました。
11時56分、かかしの里(右側)
099 かかしの里
  ※分岐(左側を直進)
100 分岐(左)
  
※七里岩の眺め(右手前方)
101 七里岩
分岐から約280m歩くと左側につぶら野会館があり、会館の前に「徳島堰由来」碑が建っていました。
12時01分、徳島堰由来碑(左側)
102 徳島堰解説標
由来碑から約100m歩くと寺沢橋があり、徳島堰のサイホンがありました。
  ※徳島堰サイホン(上昇側)
103 徳島堰サイホン(出口側)
  
※徳島堰サイホン(下降側)
104 徳島堰サイホン(入口側)
  ※寺沢橋(川は徳島堰の上を流れている)
105 寺沢橋
寺沢橋から約150m歩くと桜並木となっており、東京に続いてお花見を楽しむことができました。
桜並木は約170m続いており、満開の時期は過ぎていましたが、まだまだ綺麗な花を眺めることができました。
  
※桜並木
106 桜並木
桜並木が終わるところで道は、円野横断地下道を通ってR20を潜ります。
12時09分、分岐(右側=R20を潜る)
107 分岐(右)
  
※R20を潜ったところ
108 分岐(合流手前)
円野横断地下道を出た処から約140m歩くと変則十字路があり、ここで徳島堰を道路で渡り、十字路の左側の望月家、内藤建築の看板の間を進みます。
12時12分、分岐(左折)
109 分岐(左折)
左折して約230m歩くとカーブミラーの横に徳島堰を作った徳島翁道標が建っている細い十字路があり、昼食を食べに行くため道中を離れて左折しました。
  
※分岐(左折)
110 徳島翁碑道標
分岐から徳島翁と妻の墓がある妙浄寺を通り過ぎるなど、約170m歩くと左側のR20の沿道に大衆食堂「やま輝」があり、躊躇することなく入りました。
12時19分~12時58分、昼食(やま輝)
111 大衆食堂・やま輝
午前中の歩きで咽喉が乾いたので生ビールとまぐろづけ丼を注文し、至福のひと時を楽しみました。
昼食を終え、道中に戻り、到着地目指して午後の歩きを始めました。
徳島翁道標のあるところから約300m歩くと右側に内藤家があり、なまこ壁の長屋門が建っていました。
13時10分、内藤家=明治天皇休憩所(右側)
112 内藤家(明治天皇休憩所)
また、中の敷地に明治天皇が休憩で立ち寄られたとして跡碑が建っていました。
  
※明治天皇御休憩所跡(右側)
113 明治天皇休憩跡碑
内藤家から約180m歩くと上円井交差点があり、R20に合流し左に進みます。
13時15分、分岐・合流(R20)
114 上円井交差点(分岐合流)
R20に合流した処の左側に内藤ハウスがあり、その先の円野上バス停のところで半円を描くように旧道中は歩きます。
  ※分岐(R20の左側を半円状に歩く)
115 分岐(左)
左の公園の奥に旅の守護神である鹿嶋大神が祀られているというので、立ち寄りました。
13時18分、鹿嶋大神碑(左側)
116 鹿嶋大神碑
公園のところから約220m歩くと小武川橋が架かっていました。
  ※小武川橋
117 小武川橋
小武川橋を渡り始めると、日本橋から158㎞の距離標が建っていました。
13時22分、158㎞距離標(左側)
118 158㎞距離標
小武川橋を渡ると、韮崎市から北杜市に入る市境標識が建っていました。
13時22分、市境標識(韮崎市から北杜市)=左側
119 北杜市境標識
道中は市境標識を左に見ながら右折します。
  
※分岐(右折)
120 分岐(右折)
R20から分岐して約100m歩くと、右側にログハウス風の建物があり、道中は右に見ながら左カーブして進みます。
  ※ログハウス風建物(右側)
121 ログハウス風建物
ログハウス風建物から約450m歩くと、黒沢川橋が架かっていました。
13時26分、黒沢川橋
122 黒沢川橋
黒沢川橋から約50m歩くと分岐があり、左側に進みます。
  ※分岐(左側)
123 分岐(左)
分岐から約180m歩くと、右側に甲府から六里塚目の武川一里塚跡に碑が建っていました。
13時33分、武川一里塚跡(右側)
125 武川一里塚跡
道中は一里塚碑の先で再びR20に合流し、約270m歩いたところでR20から分岐します。
分岐の目印は、分岐点に白い建物で、武川町農産物直売センターがあり、センターの右側を進みます。
  
※分岐(右側)
126 分岐(右)
分岐から約220m歩くと分岐点に庚申塔が建っている変則T字路があり、左に進みます。
  ※分岐(左側)
127 分岐(左)・庚申塔
変則T字路分岐から約400m歩くと、左側の中野屋商店の斜め向かい側の右側のブロック塀脇に古い桜の木が植樹されていました。
13時45分、古い桜の木(右側)
128 桜の古木
古い桜の木から約230m歩くとR20に合流し、合流地点に設置されている牧原歩道橋を潜ったところで、R20から別れて右側に進みます。
  ※分岐・合流(右方向)
129 分岐(合流)
13時49分、分岐(牧原歩道橋下を右側)
130 分岐(右)
R20を分岐して県道612号を渡るなど約180m進むと道は突き当たるので、その手前で左折します。
  ※分岐(左折)
131 分岐(左折)
右側の小池家に沿って右折した道は、約70mでR20に合流し右折して進みます。
132 分岐(右折)
R20を約50m歩くと大武川に架かる大武川橋があり、歩道のある左側を歩いて渡ります。
13時50分、大武川橋
133 大武川橋
大武川橋を渡り、下三吹バス停のところを左折します。
  ※分岐(左折)
134 分岐(左折)
下三吹バス停の分岐を左折して約350m歩くと左側に火の見やぐらがあり、火の見やぐらのところを左に約20m入ったところに道祖神が祀られていました。
13時58分、道祖神(左側)
135 道祖神
火の見やぐらから約210m歩くと左側にカーブミラー、右側に消火栓が設置された十字路があり、右折します。
14時01分、分岐・十字路(右折)
136 分岐(右側)
分岐十字路を右折して約120m歩くと左斜め前方に、庚申塔などの石塔群が祀られた交差点があり、左折して萬休院に立ち寄ることにしました。
旧道中は交差点を直進します(黄矢印)

  ※分岐(左折)
137 石塔群
萬休院は約80m先の分岐を右側に進みます。
  
※分岐(右側)
138 分岐(右)
道は分岐してから上り坂となり、段々と傾斜がきつくなり、頂上付近に着いた時は息が切れていました。
  
※きつい上り坂
139 きつい上り坂
約250mのきつい上り坂を歩き、道なりに進むと左側に舞鶴松の面影が少し残る庭園がありました。
14時10分、萬休院の舞鶴松
140 萬休院の舞鶴松
  
※舞鶴松の解説
140-1 解説
  ※舞鶴松碑
141 舞鶴松碑
  ※椿の生け垣
143 椿の生垣
萬休院から約350m下ってくると、庚申塔などの石塔群のある交差点をそのまま真っ直ぐに歩いてきた旧道中に戻りました。
14時18分、旧道中に合流
145 分岐(合流)
旧道中に合流した地点の左側に、石塔群がありました。
  
※石塔群(左側)
146 甲子塔・石仏群
旧道中合流地点の石塔群から約230m歩くと、左側の民家の庭先に御影石の句碑が建っていました。
この句碑はここに住んでいる人が建てたように思います。
  
※御影石の句碑(左側)
147 御影石の句碑
御影石の句碑から約240mあるくと上三吹交差点となり、交差点をそのまま真っ直ぐに横切ります。
14時26分、分岐(直進=上三吹交差点)
148 上三吹交差点(分岐直進)
上三吹交差点から約500m歩くと、右側に神明社を祀った社が2つ建っていました。
14時34分、神明社(右側)
149 神明社
神明社の社から約100m歩くとパーゴラのベンチがあり、2本目の桜の木の根元に一里塚の跡があり、碑が建てられていました。
  ※パーゴラのベンチがある公園
150 休憩所
この場所は、釜無川(右側)と尾白川(左側)の2本の川が合流するところで、この先は釜無川として流れていきます。
  ※釜無川(右側)と尾白川(左側)の合流点
151 尾白川と釜無川が合流
14時43分、三吹一里塚碑・七里塚碑(右側)
152 七里・一里塚跡
ここは甲府から7番目の一里塚で七里塚とも云われている。
一里塚碑から約160m歩くと、R20に合流して右に進みます。
  
※分岐(合流)
153 分岐(合流)
R20を約70m歩くと尾白川に架かる尾白橋があり、歩道のある右側を歩き、橋を渡ったところで道路を横断して左側に移りました。
  ※尾白橋
154 尾白橋
尾白橋を渡った左側に古道入口碑が建っており、碑に沿って左折して別名「はらぢみち」を進みます。
14時48分、分岐(左折)
155 分岐(左折)
  
※古道入口碑
156 古道入口碑
古道入口から約140m歩くと三体の馬頭観音が祀られており、その内の2体の側面が道標になっていました。

14時49分、横山の道標(右側)
157 横山の道標
この道標は唯一、現存しているものだそうです。
  
※台ケ原宿古道①
158 無名の大石塔入口
  ※台ケ原宿古道②
159 分岐(右)
  
※台ケ原宿古道③
160 旧街道
古道を歩いてくると、砂利道から舗装路に替った右側に古道道標と石のベンチが、左側に曲足橋が架かっていました。
  
※台ケ原宿古道④
162 砂利道から舗装
14時57分、台ケ原宿古道碑(右側)
163 古道道標とベンチ
曲足橋から上りの国見坂を約140m歩くと、左側に庚申塔と馬頭観音群がありました。
15時00分、庚申塔・馬頭観音(左側)
164 庚申塔と馬頭観音
  ※庚申塔・馬頭観音の解説
164-1 解説
石塔群から約170m歩くとR20に合流する手前右側に。道祖神跡がありました。
15時02分、道祖神跡(右側)
165 道祖神跡
道祖神は村の境や辻などにあって悪疫を防ぎ、旅人の安全を守り、縁結びや子宝祈願の民間信仰の神様で、この場所には文化3年に建立した道祖神があったと記録に残されています。
道祖神跡の隣りに古道入口碑が建っていました。
  
※古道入口碑
166 古道入口碑
古道入口碑の直ぐ横が台ケ原下交差点で、斜めに横切り進みます。
15時03分、台ケ原下交差点
167 分岐(右)
台ケ原下交差点を渡ったところから約90m歩くと、左側に道祖神が祀られていました。
15時04分、道祖神(左側)
168 ⑰道祖神
道祖神から約110m歩くと、右側に白壁の旧家があり記録に残しました。
15時06分、白壁の旧家(右側)
169 白壁の旧家
15時07分、白州味噌・細田家(雲流松の家)=右側
170 白州味噌・細田家
15時08分、信濃屋(旧造り酒屋)=右側
171 信濃屋(旧造り酒屋)
信濃屋から約80m歩くと、右側に立場跡・共同井戸跡のパネルが建っていました。
15時11分、立場跡・共同井戸跡(右側)
173 立場跡・共同井戸跡
立場跡から空き地をはさんだ先に、白州手打ち蕎麦の店がありました。
  ※白州手打ち蕎麦・くぼ田(右側)
174 手打ち蕎麦・くぼ田
手打ち蕎麦店のくぼ田の先に県道606号の交差点があり、交差点を左折すると直ぐに台ケ原宿の絵図が掲げられていました。
15時13分、台ケ原宿絵図(左側)
172 台ケ原宿絵図
県道606号の交差点を渡った右側に、小松屋本陣跡があり、秋葉常夜燈が残されていました。
15時14分、小松屋本陣跡・秋葉常夜燈(右側)
175 小松屋本陣跡・秋葉常夜燈
小松屋本陣跡の真向いに、宮川家脇本陣跡がありました。
15時15分、宮川家脇本陣跡(左側)
176 脇本陣跡(宮川家)
本陣跡から約30m歩くと、台ケ原宿ふれあい休憩所がありました。
15時16分、ふれあい休憩所(右側)
177 ふれあい休憩所
ふれあい休憩所の後部に高札場跡・郷倉跡のパネルが建っていました。
15時16分、高札場跡・郷倉跡(右側)
178 高札場跡・郷倉跡
ふれあい休憩所から約50m歩くと、左側に問屋場跡がありました。
15時18分、問屋場跡(左側)
179 問屋場跡
問屋場跡の斜め前に造り酒屋の七賢があり、立ち寄りました。
15時18分~15時32分、七賢(右側)
180 七賢
  
※内部
181 七賢・内部
店内に入り見れるところを見学し、最後に試飲ができるところに立ち寄り、七賢など数種類のお酒を試飲させて頂きました。
お酒は口当たりが良く買いたかったのですが、歩くのに邪魔になるため、山荘に来た時にまた立ち寄りたいと思います。
七賢の隣りに明治天皇が立ち寄られた跡碑が建っていました。
15時32分、明治天皇菅原行在所跡(右側)
182 明治天皇行在所址
明治天皇碑の斜め前に信玄餅の元祖である金精軒があり、立ち寄りました。
15時32分~15時39分、金精軒(左側)
183 菓子処・金精軒
  ※どら焼き
184 購入したどら焼き
  ※生信玄餅
184-1 生信玄餅
金精軒の店に入る左側に、標高標識が掲げられていました。
  
※標高(584m)標識(左側)
185 標高標(584m)
金精軒から約150m歩くと、右側に田中神社があり、境内にお茶壺道中碑が建っていました。
15時43分、田中神社・社殿(右側)
186 田中神社 
  
※お茶壺道中碑(右側)
187 お茶壺道中碑
田中神社を出て道中を約50m歩くと、右側に旧松坂屋旅館(現在は廃業している)がありその前に台ケ原一里塚の石碑が建っていました。
15時47分、台ケ原一里塚跡(左側)
188 台ケ原一里塚碑
一里塚跡から約300m歩くと、今日の宿泊地であるつるや旅館に到着し、玄関前で到着式を行い今日の旅を終了しました。
15時52分、つるや旅館前着(到着地)


191 つるや旅館(到着地)
つるや旅館は、
元「諸国旅人御宿屋鶴屋」という旅籠です。
189 元旅籠津留や
現在の隣りの建物に、当時を偲ばせる講中の看板が3枚掲げられており、建物は改築されたようです。
私とMさんのカメラは、電池切れで到着の写真が撮れず、Mさんのカメラの充電を少し行ってから到着写真を撮ることにして旅館の中に入りました。
「こんにちは!!」と呼ぶと、玄関口にいた同宿の方が「出掛けているみたいで誰もいません」というので、玄関口で旅館の方が戻ってくるのを待つことになりました。
旅館の方は5分程で戻ってきて、同宿の方(男性2人)の後に部屋に案内されると、4人部屋で2人でゆっくり寛げる広さがありました。
直ぐにMさんのカメラの充電を行い、15分くらいで撮れる状態になったので、旅館前で到着式を改めて行い今日の旅を締めくくりました。
《幸運》
女将さんから「昨日は雨が降り続いた上、寒さが加わり、昨日来られた方は大変でした。歩いてここまで来られる予定でしたが、とても歩けないということになりタクシーを利用していましたよ。今日は天候に恵まれて良かったですね」と聞かされ、自然の流れの中で決まった日程ですが、Mさんともども幸運を喜び合いました。
《夕食》
部屋に戻り旅支度から旅館で用意されたゆかたに着替え、入浴できそうだと云われた17時30分になっても連絡がないので確認すると、「入れる」との返事がありMさんと今日の汗を流しに行きました。
浴室は4~5人が入れる広さがあり、同宿の方(男性2人)のうち1人と一緒になり、雑談しながら入浴しました。
同宿の方は、テレビや映画で小道具などを手掛けている高津装飾美術の方で、明日(9日)開催される「信玄公まつり」に参加する人達(北杜市の40人)の衣装着付けを行うために来たそうです。
汗を流してスッキリし、夕食の連絡を待ちました。
18時30分、夕食
部屋に「食事の用意が整いました」と連絡があり、食事する部屋に移動しました。
食事は間仕切りされた部屋で食べることになり、同宿の方とは別です。
瓶ビールを注文しMさんと乾杯となりましたが、ほとんど飲めないMさんはコップに少し注いで乾杯しました。
配膳された料理は豪華さは有りませんが、値段以上に感じるもてなしで、私は1本では足りず2本目を注文し咽喉を潤すとともに、旅の疲れを癒しました。
21時近くまでのんびりと食事とMさんと歓談の時間を楽しみ、部屋に戻りました。
明日は朝6時45分に朝食を食べ、7時30分に旅館を出発する予定で、明日の旅立ちの準備をして布団に入りました。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/