【天候】薄曇り
【宿場】日本橋 ⇒ (01)内藤新宿 ⇒ (02)高井戸宿
【行程】歩行距離=18.31㎞ 総距離=18.31㎞  
基点・日本橋 ⇒ (3.77㎞) ⇒ 三宅坂交差点 ⇒ (4.33㎞) ⇒ 02新宿追分 ⇒ (3.61㎞) ⇒ 03笹塚一里塚 ⇒ (3.60㎞) ⇒ 04高井戸一里塚 ⇒ (3.00㎞) ⇒ 千歳烏山駅入口交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第1回旅の宿場)
第1回 宿場
 第1回の旅ルート
 
(日本橋・国道元標前 
⇒ 千歳烏山駅・駅入口交差点)
第1回 ルート
【序章】
今年の1月17日に京都・三条大橋に到着し、我が家にとって大イベントであった「旧東海道夫婦二人旅」が終結しました。
次は中山道にするか、甲州道中にするか迷いましたが、Yumiさんの意味認知症の進行状況とバス・トイレが同室にあるツインルームでないと宿泊が難しいことを考え、宿泊の回数が少ない旧甲州道中を歩くことにしました。
旧東海道夫婦二人旅の時もそうでしたが、事前に地図や史跡などの資料を整えて当日の朝を迎えるのですが、今回は朝4時頃に「今日は予定しているものがなく、天気も曇りで雨の心配がない」と頭に浮かんできたので、直ぐにベッドを出てパソコンを立ち上げ、第1回に歩く千代田区、新宿区、世田谷区の天気を確認すると曇り一時晴れで、雨の心配はないと判断し、直ぐに日本橋から千歳烏山までの街道地図を印刷し、準備していた史跡の場所を地図に書き込むなどして準備を整えました。
急に思いついて出発することになり慌ただしかったのですが、これも思い出と割り切って身支度を整え、最寄り駅に向かいました。
出発地点の日本橋は通勤の時に毎日のように歩いたところですが、自遊人になってから日本橋に来たのは1月13日に山の師匠であるNさんが、旧東海道東下りでゴールする時に出迎えに来たとき以来です。
そして、2年半前の平成24年3月11日に、旧東海道夫婦二人旅に出発した時の情景を思い出しながら基点の国道元標前に立ちました。
出発点に来る前に、日本橋を渡った進行左側の交番付近に「さらし場跡」があったと資料に記されいたので、跡碑か何かないか探しましたが見つからず、交番の人に聞いて見ましたが分かりませんでした。
この後、国道元標のある処に移動し、Yumiさんに出発の看板を掲げてもらい出発式を行い旅立ちました。
【旧甲州道中の旅】
08時40分、日本橋・国道元標前(出発地)

001 国道元標
 ↓東京市道路元標・全景(右側)
004 国道元標碑
 ↓日本橋・親柱(端部)=右側
005 日本橋
日本橋は旧東海道の出発の時も写真に残したのですが、橋の真ん中の親柱は撮っていなかったので、記録に残しました。
 ↓日本橋・親柱(中央部)=右側
006 日本橋・親柱
日本橋を渡った橋のたもとの右側に、日本橋の由来を記した碑が建っていました。
08時43分、日本橋由来来碑(右側)

007 日本橋碑
碑には、「日本橋は江戸名所の随一にして其名四方に高し、慶長8年幕府諸大名に課して城東の海浜を埋め、市街を営み、海運を通し始めて本橋を架す。人呼んで日本橋と称し遂に橋名と為る。翌年、諸海道に一里塚を築くや。本橋を以て起点と為す・・・・・」と記されています。
碑からそのまま約160m歩くと日本橋交差点があり右折しました。
08時44分、日本橋交差点(分岐=右折)

008 日本橋交差点(分岐)
日本橋交差点から約300m歩くと呉服橋交差点があり、旧甲州道中から道を外れ交差点を右折して約120m先に一石橋が架かっており、左側の橋のたもとに迷子しらせ石標が建っていました。
08時49分、一石橋(左側)

009 一石橋・親柱
一石橋は、江戸城の外濠が日本橋川と分岐する地点に江戸初期からあった木橋で、 名前は北橋詰に幕府金座御用の後藤吉五郎、南橋詰に御用呉服商の後藤縫殿助が居り、両方の後藤=五斗+五斗=一石で、一石橋と名付けられたと伝えられています。
 ↓一石橋迷子しらせ石標(左側)

012 一石橋迷子しらせ石標
迷子しらせ石標は、江戸時代の後半、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多く、迷子がでた場合は町内が責任をもって保護することになっていました。そのため付近の有力者が世話人となり、安政4年(1857)にこれを建立し、柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しいものです。
一石橋から呉服橋交差点に戻り大手町方面に右折して甲州道中を歩くと、日本橋から1㎞の距離標が建っていました。
08時58分、1㎞距離標(右側)
015 1㎞ポイント
呉服橋交差点から約740m歩くと大手町交差点となり、交差点を左折して進行右側の歩道を歩きました。
09時01分、大手町交差点(分岐=左折)
016 大手町交差点(分岐)
大手町交差点から約220m歩くと右側に交番があり、その隣りにお濠を渡る和田倉橋が架かっていました。
09時05分、和田倉橋(右側)
017 和田倉橋
和田倉橋は、内濠(和田倉濠)に架かり、皇居外苑東側から丸の内一丁目の東京海上ビル前に通じる橋で、門名は近くに倉(蔵)があったことに由来し、慶長の頃までは「蔵の御門」とも呼ばれていたそうです。元和6年(1620)に枡形が造られ、現在は枡形の石垣と橋が残っており、木橋の面影を残したコンクリ-ト橋になっています。
和田倉橋から約150m(次の信号)歩くと和田倉門跡ありました。
09時08分、和田倉門跡(右側)
020 和田倉門門名は、慶長12年頃この門内に和田倉と称する蔵が2棟あったことから和田倉門と呼ばれたそうです。
和田倉の名前は、「わた」から出たと言われており、「わた」とは海のことで、「わたつみ」「わたの原」という言葉になっています。
日比谷の入り江がここまで入り込んでいて、その入り江に倉が並んでいたので、「わたくら⇒和田倉」と呼ばれるようになったのだろうと言われており、倉は後に厩と馬預役宅となりました。

和田倉門交差点が新幹線の起点駅となっている東京駅の入口ですが、写真を撮り忘れて動いてしまったので、三菱商事ビルの脇から遠くの東京駅を記録に残しました。
 ↓東京駅(白丸印)=左側
022 東京駅入口
和田倉門から約410m歩くと馬場先門交差点があり、交差点を渡った右側に馬場先門跡があり、碑が建っていました。
09時15分、馬場先門跡(右側)
023 馬場先門跡
日比谷通りの右側を歩くと、左前方に旧GHQ本部があった第一生命の建物があり、右側から建物だけを写真に撮って先に進む予定にしていたのですが、玄関入口のところにあるパネルが目に入り、違反ですが車の来ないことを確認して左側に横切り建物に向かいました。
09時20分、第一生命ビル(旧GHQ本部跡)=左側
025 025 旧GHQ跡(第一生命)
玄関入口に建っていたパネルには、私の思惑とは違いGHQのことは記されておらず、入口上に記されている第一生命の文字が創立者の直筆で記念として残していることが記されていました。
第一生命ビルを後にして左側の歩道をそのまま日比谷交差点まで歩き、交差点を右折するように渡り、さらに左折して日比谷公園の前に出ました。
馬場先濠に沿って日比谷通りの右側を歩く場合は、日比谷交差点を↓の写真のように右折しますが、私とYumiさんは日比谷公園の中にある見附跡に立ち寄るため、日比谷公園側に渡りました。

09時22分、日比谷公園交差点(分岐=右折)
028 日比谷交差点(分岐)
日比谷公園の中に入って右方向に10数m歩くと、左側に日比谷見附跡の標柱と、江戸城外郭城門が残っていました。
09時25分、日比谷見附跡(左側)

030 日比谷見付跡
  ↓江戸城外郭城門(日比谷御門)=左側
032 日比谷見付跡・解説
日比谷交差点に戻り、そのまま内堀通りの左側を歩くと日比谷公園の中にある、「心」の字をかたどった心字池が見えました。
09時27分、心字池(左側)
033 日比谷公園・心字池
日比谷公園沿いに約360m歩くと日比谷公園が終わる祝田橋交差点があり、進行右側に渡りました。
 
↓皇居①=日比谷濠(祝田橋からの眺め)
035 皇居
右側の歩道を約260m歩くと左側に法務省、警視庁のある桜田門交差点となり、右側を数十m歩いた先に井伊直弼が襲撃された外桜田門がありました。
09時35分、外桜田門(右側)
037 桜田門
桜田門は、江戸城の内堀に造られた門の一つで、桜田堀と凱旋堀の間にあります。昭和36年に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財に指定された特別史跡「江戸城跡」の一画を占めています。江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在し、前者は桔梗門とも呼ばれ、桜田門という場合は後者を指すことが多い

 
↓皇居=桜田濠(警視庁前から桜田門方向の眺め)
040 皇居
皇居は静かに佇んでいますが、歩いている正面から次から次へとランニングをする人が走ってきて、眺めながら歩くことは危険でできませんし、写真も走ってこない合間をぬって撮らなければなりません。
桜田門から約310m歩くと国会前交差点があり、内堀通りの左側歩道に渡り、憲政記念館に向かいました

09時44分、憲政記念館入口(左側)
041 憲政記念館入口
憲政記念館に立ち寄ったのは、敷地の中に日本の海抜高度標準基点となる標庫があるためですが、場所が分からず記念館の前を清掃していた男性に場所を聞いて標庫を確認しました。
 
↓日本水準原点標庫
042 日本水準原点保管建物
09時48分、日本水準原点標庫
043 日本水準原点
日本水準原点は、欧米からの測量技術導入に伴い明治24年(1891)に日本全国の海抜高度標準基点が設定されたことにともない、これを保護するために佐立七次郎の設計によるローマ神殿風の建物です。
原点は日本水準原点標庫内部、正面にある黒い蓋を外したところにあり、建物が原点ではありません。
当初の原点は、海抜24.5mでしたが、関東大震災の影響で、24.414mに改定されました。
標庫は石造で平家建て、建築面積は14.93m2で軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンタープラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフの装飾で特徴づけられています。石造による小規模な作品ですが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な様式建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重なものだそうです。
憲政記念館前交差点を右に進み、三宅坂交差点を渡ったところで休憩を取りました。
09時52分~09時56分、三宅坂(休憩)=左側

047 三宅坂(休憩)
三宅坂での休憩を契機に、二人とも帽子からバンダナに替えました。
バンダナは毎年立ち寄る軽井沢の万平ホテルで今年の夏に買ったもので、Yumiさんは初めて使い、街道旅が終わるまで外すことはありませんでした。
休憩で水分補給を行い、出発しました。
道路の左側を歩き、国立劇場を左側に見ながら約440m歩くと半蔵門交差点に着き、交差点を渡って新宿通りの進行右側に出ました。
10時04分、半蔵門交差点(分岐=左折)
049 半蔵門(分岐)
半蔵門交差点で左折して新宿通りを進み、約580m歩くと麹町4丁目交差点があり、右折すると善国寺坂がありました。
 ↓麹町・善国寺坂(右側)
050 善国寺坂
麹町4丁目交差点から約280m歩くとオリコ本社ビルの前に「麹町5丁目」解説のパネルが建っていました。
10時15分、麹町五丁目碑(右側)
052 麹町五丁目碑
地域のパネルは各丁目ごとに建っており、とても良いものだと思いました。
麹町5丁目パネルから約280m歩くと四谷駅前交差点があり、交差点を右折しました
10時19分、四谷駅前(分岐=右折)
053 四谷駅前(分岐)
右折して直ぐの信号の先に見附跡の標板が建っていました。
10時20分、四谷見附跡(右側)
055 四谷見附跡
見附とは枡形を有する城門で外側に面する部分で、見張りの番兵を置いていました。江戸城は俗に三十六見附と称し、四谷見附・赤坂見附・牛込見附などが呼称として残っている。四谷見附で残っているのは石垣のみで、城内からきた通行人はここで一旦枡形門の中に入りそして直角に曲がり、城外へと出ていったのである。ここに警備の武士がいた江戸の頃は暮れ六ツ(午後6時)に門の扉は閉められ、夜間は通行出来なかったそうです。
私とYumiさんは見附跡の裏に回って道路を横切り(写真の左側の信号機のある方)、渡ったところを左に進み写真の横断歩道を渡って右折して進みました。
しかし、旧甲州道中は、四谷駅前交差点を駅側に渡り、渡ったところを左折、駅舎に沿って次の交差点を左折し、跨線を渡り外堀通りの交差点を渡り、渡ったところを左折、四谷見附交差点を右折します。

10時23分、四谷駅舎(分岐=左折)

057 四谷駅(分岐)
 
↓四谷駅の跨線橋を渡った交差点(分岐=左折)
058 四谷駅西側(分岐)
四谷見附交差点を右折して新宿通りを新宿方面に向けて歩きました。
 ↓四谷三丁目付近を歩くYumiさん(右側)
059 新宿通りを歩くYumiさん
四谷見附交差点から約830m歩くと四谷3丁目の交差点があり、交差点をクランク形に渡り(左折して反対側に渡り、右折して外苑西通りを渡る)、約50m先左の丸正食品の横に観音像が祀られていました。
10時38分、お岩水掛け観音(左側)
060 お岩水かけ観音
お岩水掛け観音から約320m歩くと四谷4丁目交差点があり、進行左側から右側に渡ると石碑が建っていました。
10時44分、四谷四丁目交差点の石碑(右側)

061 四谷4丁目交差点の石碑
石碑を見た後、新宿方面に道路を渡り、国道20号と都道430号の間にある史跡を見るため、都道を渡って行きました。
10時47分、史跡パネル(左側)

063 史跡碑
ここには、玉川上水水番所跡、水道碑記、四谷大木戸跡があり、写真に撮って記録に残しました。
 ↓水道記碑

066 水道碑記
 ↓四谷大木戸跡(左側)
067 四谷大木戸跡
旧甲州道中は、四谷4丁目交差点で国道20号から分岐して都道430号に進み、約1㎞歩くと新宿3丁目交差点となり、左角に新宿追分跡、道路元標が建っていました。
11時01分、新宿追分碑・道路元標

070 新宿追分
右前方に伊勢丹本店を見ながら交差点を新宿駅方向に渡り、渡ったところを左折して明治通りに沿って約130m先(次の交差点)の新宿4丁目交差点を右折し、国道20号に合流しました。
11時04分、新宿四丁目交差点(分岐=右折)
074 新宿四丁目交差点(分岐)
左側に高島屋を眺めながら坂道(跨線橋)を上ると右側にJR新宿駅南口があり、大勢の人が行き来していました。
11時09分、JR新宿駅南口(右側)
077 新宿駅南口
新宿駅の跨線橋を渡り新宿交差点を左に渡り、過去に何回か食事したことのある食事店に昼食を食べに行くと、店が閉まっていたため別のところで食べることにし、先に進みました。
新宿交差点から約250m歩いた西新宿2丁目交差点の手前の信号付近に腰掛けるのに手頃な花壇があり、三宅坂から休憩を取っていなかったので、休憩しました。
11時14分~11時18分、西新宿二丁目付近(左側)
079 西新宿二丁目付近(休憩)
ブロックの上に腰掛け、水分補給と持参したスポーツ羊羹を食べ、少しエネルギーを摂り休息しました。
休憩を終え西新宿2丁目交差点を過ぎ、次の西新宿交差点付近の左側に文化学園服飾博物館があり、その前に玉川上水跡のモニュメントがありました。
11時22分、玉川上水モニュメント(左側)
080 玉川上水モニュメント(文化学園大学前)
玉川上水はこのモニュメントの真下を流れているそうです。
モニュメントから約130m歩くと文化学園大学新都心キャンパスの旧正門前に玉川上水に架かっていた勿来橋跡の石碑が建っていました。
11時25分、勿来橋跡(左側)
084 勿来橋跡
この先の西参道口交差点から高井戸陸橋の手前まで国道20号の上部を首都高速が、国道20号も立体交差になっているため、進行方向を変更することは設置されている歩道橋を利用することが多くなります。
西参道口交差点を渡った所から約400m歩くと、日本橋から10㎞距離標が建っていました。
11時35分、10㎞距離標(左側)
086 10㎞ポイント
時計を見ると12時近くになっていたので、何処か適当なところで昼食を食べようと探しながら歩くと、京王・幡ヶ谷駅駅前交差点の先の左側に三井住友銀行があり、そのビルの地下に食事が食べられる幡ヶ谷ゴールデンセンターの看板が目に入り、「ここでお昼を食べよう」とYumiさんに声掛けて階段を下りて行きました。
11時57分~12時21分、昼食(地下商店街)=左側
088 幡ヶ谷ゴールデンセンター入口
地下に下りた右側に「ジョリー」という食事処があり、外に立てられていたメニューを見て、手ごろ感から入店しました。
 ↓ジョリー(昼食)
089 ジョリー(昼食)
店舗は空いていたので好きな場所に座り、Yumiさんと同じものを注文しお腹を膨らませました。
 ↓ロースかつ定食
090 ロースとんかつ定食
12時22分、幡ヶ谷二丁目歩道橋
092 幡ヶ谷二丁目歩道橋
幡ヶ谷駅前交差点は平面交差でしたが、昼食を食べた処から約110m先に幡ヶ谷第二歩道橋があり、道路を渡る大変さを感じました。
歩道橋から約410m歩くと笹塚交差点があり、交差点の手前左側に牛窪地蔵が祀られていました。
12時27分、牛窪地蔵
094 牛窪地蔵
笹塚交差点は甲州街道と中野通りが交わる地点で牛ケ窪と呼ばれた処で、少し窪地になっている。江戸時代には牛裂きの刑といって罪人の両足を牛に引っ張らせて引き裂くというなんともオゾマシイ処刑が行われていた場所だそうです。
そして、牛窪という地名は、この牛と窪地であったことからこの地名となり、幡ヶ谷地方の雨乞い行事の場所としても有名だったそうである。宝永より正徳年間にかけてこの地に悪疫病がはやり、これが罪人の霊のたたりだと伝えられ子供の安泰を守り苦難の時の身代わり地蔵として、この淋しい土地に地蔵尊を祀り霊を慰めたのが牛窪地蔵だそうです。

牛窪地蔵から約1㎞歩くと環状七号の大原交差点に着きました。
12時40分、大原交差点(環状七号)
097 環七通り・大原交差点
この交差点を歩いて渡るのは初めてで、良い記念になりました。
大原交差点を渡って約130m歩くと、左側に玉川上水が流れていました。
玉川上水は暗渠になっているのかと思ったので、地上部に露出している部分があり、緑に覆われているので驚きました。
上水の流れは私が住んでいる辺りと比較すると遅いのですが、大切にしてほしいと思います。
12時42分、玉川上水(左側)
098 玉川上水
 
↓玉川上水の由来
100 玉川上水・解説
玉川上水から約60先に代田橋駅前歩道橋があり、進行方向を左側から右側に歩いて渡りました。
12時44分、代田橋駅前歩道橋(左側⇒右側)
101 代田橋駅前歩道橋
歩道橋を渡り、旧甲州道中の歩きを右側に移動し、約220m歩くと日本橋から13㎞距離標が建っていました。
12時48分、13㎞距離標(右側)
102 13㎞ポイント
距離標から約320m歩くと井の頭通りと交差する松原交差点まで来ました。
12時53分、松原交差点(井の頭通り)=右側
103 松原交差点
松原交差点から約300m歩くと右側に明治大学和泉校舎の正門があり、正門の手前右側の玉川上水公園入口に明大橋の親柱が建っていました
12時57分、明治大学和泉校舎・正門(右側)

104 明治大学和泉校舎正門前
明治大学の正門前の右側に明大橋の親柱が立っていました。
↓明大橋・親柱(右側)

107 明大橋・親柱
明治大学和泉校舎の正門前を過ぎた右側の斜面に上に、塩硝蔵地跡の標板が建っていました。
13時00分、塩硝蔵地跡(右側)
109 塩硝蔵地跡
塩硝蔵跡は、幕府の武器、弾薬が置かれていた場所で、官軍が江戸に入ると塩硝蔵は接収され、弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の鎮圧に威力を発揮したそうです。
明治大学和泉校舎の隣りは築地本願寺和田堀廟所で、有名人のお墓があります。
私とYumiさんは亡くなった人のお墓には興味がなく、廟所を右に見ながら通り過ぎました。
和田堀廟所から約500m歩くと下高井戸駅入口交差点となり、そのまま真っ直ぐに右側を直進しました。
13時11分、下高井戸駅入口交差点(右側)
112 下高井戸駅入口交差点
下高井戸駅入口交差点から約760m歩くと右側に明治40年創業の竹細工老舗の竹清堂があり、2階のベランダのところには象の竹細工が飾られていました。
13時20分、竹細工・竹清堂(右側)
113 竹細工・竹清堂
  ↓竹清堂・店舗前
114 竹細工・竹清堂
竹清堂から約120m歩くと右側に本陣跡があったというので、目を皿のようにして、目を開いて探しましたが、本陣跡は見つかりませんでした。
そして、本陣があったと云われている場所から約400m歩くと、いろいろな石材(道標、石像など)が立錐の余地なく展示されている石材屋さんが右側有りました。

13時30分、広瀬石材店の石像(右側)

116 広瀬石材店の各種石碑
広瀬石材店から約170m歩くと鎌倉街道入口交差点があり、資料ではこの辺りの道路の左側に一里塚跡があったと記されているので、道路を渡って進行方向左側に移動しました。
交差点を渡り進行方向左側に移動して前方を見ると、道路沿いに16㎞の距離標と、日本橋から4里目の一里塚跡があり標板が建っていました。
13時35分、高井戸一里塚跡(全景)=左側

117 04上高井戸一里塚跡
 
↓高井戸一里塚跡(標板)
118 04上高井戸一里塚跡
此処に来て日本橋から始めて一里塚跡碑と出会いました。
※日本橋から3里目の笹塚一里塚跡は、笹塚付近の進行方向右側に建っているそうですが、笹塚付近は左側を歩いたため確認することができませんでした。
後日、改めて跡碑を確認して、写真で記録に残したいと思います。
一里塚跡碑から約50m歩くと上北沢駅入口交差点があり、この先で道路が分岐し旧甲州道中は真っ直ぐに進みます(頭上を走っている首都高速は右方向に行っている)。
上北沢駅入口交差点から約1㎞歩くと、環状8号と交差する上高井戸一丁目交差点となり、「もう少しだ」と思いYumiさんに「もう少しだから頑張って」と励まして交差点を真っ直ぐ渡りました。

13時49分、上高井戸一丁目交差点(高井戸陸橋)=左側
120 環八高井戸陸橋
この頃になるとYumiさんの脚力は減退の一途を辿っていて、何とか到着地(千歳烏山駅入口交差点)まで歩いてほしいと、Yumiさんを励ましながらの旅になりました。
旧甲州道中は上高井戸一丁目交差点から約90m先で分岐(烏山バイパス)し、左側に進みました。
13時52分、高井戸分岐
121 上高井戸分岐
分岐した処で休憩でしようとガソリンスタンド修理工場の空き地があり、隅の一角に座れそうな場所があり、Yumiさんを休ませることにしたのですが、足がヘロヘロ状態になっているYumiさんは、膝を曲げて座ることができず、座ろうとして前のめりになって転んでしまいました。
これを近くで見ていた修理工場の人が、「大丈夫ですか。(道路の反対側の建物を指して)あそこに休憩できる場所があるので、休んで下さい」と、温かい言葉を掛けて下さいました。
「ありがとうございます」とお礼を云って、「ここで少し休ませて下さい」と隅の一角で休ませて頂きました。

 ↓ヘロヘロのYumiさん
122 ヘロヘロのYumiさん
ここで少し休憩を取り、水分補給して再出発しました。
Yumiさんの状態を見ながら休憩できる場所を探していると、芦花公園駅入口交差点の右斜めに公園があり、道路を渡って公園に入りました。
13時58分、芦花公園駅入口交差点脇の公園
123 芦花公園駅北交差点横の公園
小さい公園ですが、ベンチがありYumiさんを座らせザックを降ろしました。
先ほどの休憩で少し足の状態が回復し、ベンチにはスムーズに座ることができ、水分補給とスポーツ羊羹でエネルギーの補給をしました。
13時58分~14時04分、休憩(芦花公園駅入口交差点脇)

124 休憩
公園のベンチで休憩を取るとYumiさんの状態が良くなり、「もう少しで終わるから」と励まして出発しました。
公園を出発し約360m歩くと右側の平山電機の前を左に入った左側に大橋場跡碑が建っていました。
14時14分、大橋場跡
125 大橋場跡
大橋場跡から約170m歩くと右側に南烏山りんれい広場があり、公園の中に「旧甲州街道の道碑」が建っているようでしたが、Yumiさんの足の状態もあり、後日改めて確認することにして公園の前を素通りしました。
そして、公園の前から直ぐ先の松葉通り交差点を通るなど、約260m歩くと今日の到着地である千歳烏山駅入口交差点に到着しました。
14時21分、千歳烏山駅入口交差点(到着地)
127 千歳烏山駅入口交差点(到着地)
交差点の人通りが多いため、交差点の少し手前に移動して旅恒例の到着式(到着の看板を掲げて写真を撮る)を行い、今日の旅を終了しました。
到着式の後、商店街を通って京王線・千歳烏山駅に向かいました

 ↓千歳烏山商店街
130 千歳烏山駅商店街
千歳烏山は、小さい頃何回も来たことがある街でしたが、私の記憶に残っている狭い道の両側に商店が続いている風景はなく、道幅も広くなり、近代的な街に一変していました。
時代の流れを感じました。

【次回の予定】

次回は10月11日(土)に第2回の旅を行う予定です。
旅で歩く千歳烏山駅入口交差点~分倍河原駅入口交差点までは、私が幼少期(3才)~青年期(17才)まで住んでいた地域を歩くので、旧甲州道中の旅の中で楽しみにしている区間です。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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