【天候】 快晴
【宿場】(04)府中宿⇒(05)日野宿⇒(06)八王子宿
【行程】歩行距離=12.05㎞ 総距離=43.29㎞  
分倍河原駅入口交差点⇒(3.70㎞)⇒矢川駅入口⇒(3.02㎞)⇒立日橋南詰⇒(3.27㎞)⇒R20多摩平北⇒(2.06㎞)⇒大和田二丁目バス停
【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第3回旅の宿場)
第3回宿場
 旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第3回全体ルート
 
第2回の旅ルート
 
(分倍河原
駅入口交差点 ⇒ 大和田二丁目バス停)
第3回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
今回の旅は、10月17日にYumiさんが左足首を骨折してから約4ケ月振りの旅です。
Yumiさんは左足首を骨折してから認知症の症状が進行し、旅ができない状態となり私一人で続けることにしました。
また、旅のタイトルを「旧甲州道中夫婦二人旅」から「Eiさんの旧甲州道中一人旅」に変更することにしましたので、ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。
さて、今回の旅は分倍河原駅から私とYumiさんが結婚した時に最初に住んでいた処の近くまで行きますが、住んでいたところは交通の便が悪く、歩くとすると往復1時間近く要するため、車で近くに来た時に立ち寄ることにして、今回は立ち寄らないで帰ることにしました。
《旅》
08時19分、分倍河原駅着
001 分倍河原駅
駅の改札を出てそのまま出発地には向かわないで、駅南口ロータリーの中に建っている「新田義貞像」を見学しました。
08時22分、新田義貞像
002 新田義貞像
写真を撮った後、分倍河原駅に戻り、今日の出発地である分倍河原駅入口交差点に向かいました。
改札口から約180m歩き出発地に立ったのですが、今まではYumiさんが居たので交互に写真を撮ったりしましたが、今回から私一人になるので、歩いている方にお願いしてシャッターを押してもらいました。
08時27分、分倍河原駅入口交差点(出発式)
004 分倍河原駅入口
出発式で使用する看板は、作成するのを忘れていました。
朝の忙しい時なのに快くシャッター押しを引き受けて下さった男性にお礼を云って別れ、さあ、旅の出発です。
交差点の直ぐ先に京王線の踏切があり電車が走ってきた処を写真に撮ろうかと思いましたが、ローカル線でもないので撮るのを止めて、踏切から約40m先の左側のローソンに行き忘れてきた赤ボールペンを買いました。
ローソンを出て道中を約230m歩くと左側に生け花のような花壇がありました。
08時34分、稲垣家生け花花壇(左側)
005 稲垣家門前の生け花
このような生け花の花壇は見たことがなく、とても新鮮に映りました。
稲垣家から約20m歩くと美好町三丁目西交差点で、その角に石阪園芸店があり、綺麗な花が沢山並べられていました。
08時35分、石阪園芸店(右側)
006 石阪園芸のディスプレー
石阪園芸店の隣りの入口を見たら立派な冠木門が立っていました。
この辺りは広い敷地と立派な門構えの家が連なっていました。

08時36分、冠木門の家(右側)
007 冠木門の家
赤色門の家から約110m先の左側に、さらに豪華な冠木門の家がありました。
内藤家の冠木門で、門を潜って中を見学したくなりましたが、不法侵入で捕まったら大変と、写真だけ撮って先に進みました。
08時39分、内藤家の冠木門(左側)
008 内藤家の冠木門
内藤家から約230m歩くと本宿町交差点(府中バイパスと旧甲州街道が合流)となり、合流地点に距離標が建っていました。
08時43分、32㎞距離標(右側)
009 32㎞標識
この地点には資料に「本宿碑」が建っていると記されていたのですが、この辺りには建っていませんでした。
距離標は32㎞標を確認してから、100m標は残っているところが沢山ありましたが、㎞標は盗難されたのか確認出来なくなりました。
本宿町交差点から約250m歩くと本宿交番前交差点があり、交差点を渡った左側に秋葉常夜燈が建っていました。
08時48分、本宿常夜燈(左側)
010 本宿常夜燈
  ↓本宿常夜燈・解説

011 常夜燈・解説
本宿交番前交差点で進行方向右側に渡り、約200m歩くと、右側に熊野神社、神社の裏に古墳がありました。
08時52分、熊野神社(右側)
012 熊野神社・参道
神社の本殿に立ち、お賽銭をご奉納し、東海道の旅の時と同じように周りに人が居なかったので、声を出してYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
参拝の後、神社の裏手に回り古墳を見学しました。
  ↓熊野神社古墳
013 熊野神社古墳
熊野神社古墳は約2年前(H25.03.03)に山の会で来たことがあり、展示室や古墳内の疑似体験もしていたので、今日は古墳だけ見て先に進みました(※時間が早かったので展示室も開館していませんでした)。
熊野神社を出ると西府町二丁目交差点があり、交差点を進行方向左側に渡り約410m歩くと、JR南武線を跨ぐ西府橋がありました。
09時02分、西府橋(JR南武線)
015 JR南武線跨線橋
西府橋から約130m先のレストラン・ガストがあり、その前に府中市と国立市の市境標識が建っていました
09時09分、国立市市境標識(左側)
016 国立市境標識
府中市から国立市に入りました。
市境標識を見ると、旅が進捗していることを感じます。
市境標識から約100m歩くと国立インター入口交差点があり、横断歩道がないため「いっぽんまつほどうきょう」で道路を跨ぎます。
09時12分、いっぽんまつほどうきょう
017 いっぽんまつほどうきょう
歩道橋から富士山が綺麗に見えました。
  ↓歩道橋からの富士山
018 歩道橋から富士山の眺め
歩道橋を渡った処から約330m歩くと左側にオーバックスがあり、その手前の道路反対側に常夜燈が建っていました。
09時17分、谷保常夜燈(右側)
019 谷保常夜燈
常夜燈から約80m先の左側にドリーミーホール国立の前に史跡「関家かなどこ跡」の標板が建っていました。
09時20分、関家かなどこ跡(左側)
020 関家かなどこ跡
関家かなどこ跡から約150m歩くと、菅原道真公を祀っている谷保天満宮があり、参拝に立ち寄りました。
09時23分、谷保天満宮(左側)

021 谷保天満宮・入口
谷保天満宮は、天満宮として東日本で一番古く、湯島天神、亀戸天神と並び関東三大天神と称されています。
私は天満宮の前は数えきれないほど車で通っているのですが、参拝するのは初めてです。
  ↓谷保天満宮・本殿
023 谷保天満宮・拝殿
本殿でお賽銭をご奉納し、参拝しましたが、周りに人がいたので、心の中でYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
天満宮の中に「ときわの清水」があるので、神社の方に場所を聞いて見に行きました。
本殿の裏手に厳島神社があり、さらに厳島神社の裏手に「常盤の清水」がありました。
09時29分、厳島神社
024 厳島神社
09時30分、常盤の清水
025 常盤の清水
  
↓常盤の清水・解説
026 常盤の清水・解説
常盤の清水の裏手に遊歩道が出来ていたので、遊歩道を歩いて谷保天満宮を後にしました。
027 谷保天満宮裏手の遊歩道
谷保天満宮の前の交差点を進行方向右側に渡り、坂道を約140m下ると交通量を監視するカメラが設置されているアングルを過ぎた右側に入る道があり、その道の左側に清水の茶屋跡がありました。
09時36分、清水の茶屋跡(白丸)=右側
 
028 清水の茶屋入口
  
↓清水の茶屋跡・標板
029 清水の茶屋跡
清水の茶屋跡の次は街道の左側にあり、反対側に行くには谷保天満宮前の信号か、国立市役所入口の信号まで行かなくてはなりません。
交差点まで行くのが面倒になり、信号で停まった時を利用して道路を横切って渡ってしまいました。
清水の茶屋跡から約100m進むと、左側に谷保案内の標板が漆畑家の塀の上に建っていました。
09時40分、谷保案内
031 谷保案内
谷保案内とは、江戸時代の文人遠藤由晴が著した上下二巻からなる七五調で綴った寺子屋で重用された教科書で、当時の谷保村の様子や人倫の道などが描かれているそうです。
谷保案内を後にして街道を約920m歩くと、国立みどり農協前信号の先の国立市消防団の建物の脇(南養寺入口の左角)に上谷保常夜燈が建っていました。
09時53分、上谷保常夜燈(左側)

033 上谷保常夜燈
上谷保常夜燈は、「秋葉大権現」「寛政六甲寅年四月 上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」などの文字が刻まれていることから、1794年に建てられたようで、上谷保村の油屋(屋号、今の甲州街道北側の原田幸治氏宅)の東隣に置かれていたものを、道路改修のときに現在地に移されたそうです。
常夜燈が建っているのが南養寺の参道で、南養寺に敷石住居跡の遺跡があるというので、見て行くことにしました。
09時55分、南養寺・山門(左側)

035 南養寺・山門
  
↓遺跡・敷石住居跡
036 敷石住居跡
遺跡は非公開(建物の床下にある)のため、どのようなものか分かりませんが、奈良時代~平安時代に建てた住居跡のようで、出土品は国立市の郷土文化館に展示されているそうです。
南養寺を出て約30m歩くと、JR南武線矢川駅に通じる矢川駅入口交差点があり、真っ直ぐに渡りました。
10時01分、矢川駅入口交差点
038 矢川駅入口交差点
交差点をわたった処から約140m歩くと、矢川が流れていました。
10時01分、矢川(左側)
041 矢川
矢川地区には何回も来ているのですが、矢川そのものを見たのは今回が初めてです。
矢川の処で道路の反対側に祀ってある五智如来像を見るため、道路の反対側に渡るですが、交差点まで戻るのが面倒で、交通安全を無視して車の来ないことを確認して進行方向右側に横切り、矢川の脇に建っている五智如来像を見に行きました。
10時04分、五智如来像(右側)
039 五智如来
如来像はお堂の中に納められており、扉の外から見ました。
五智如来像を見た後、また道路を進行方向左側に横切り260m歩くと、マンションの手前に「小さなお寺 一妙寺」がありました。
10時09分、一妙寺(左側)
042 小さなお寺・一妙寺
外観は普通の住宅で、案内看板がなければまったく寺院とは判断できませんが、内部は見きっと寺院の雰囲気を醸し出しているのでしょう。
一妙寺から約310m歩くと青柳福祉センター前交差点があり、交差点手前左側に祭りの時に使う漆器類を保管しておく「おわんこ倉」がありました。
10時15分、おわんこ倉(左側)
044 おわんこ倉
おわんこ倉の右隣りに「青柳稲荷五社大神」と書かれた提灯が吊り下げられたお堂がありましたが、提灯に記されたお堂かどうか確認できませんでした。
045 地蔵堂
お堂の横の道を過ぎたところが青柳福祉センターで、敷地の隅に常夜燈が建っていました。
10時15分、青柳村常夜燈(左側)
046 青柳村常夜燈
青柳村常夜燈は、東側に「榛名大権現」、北側に「正一位稲荷大明神」、西側に「秋葉大権現」、南側に「寛政11年9月 施主村中」などの文字が刻まれていることから、1799年に青柳村の人々が建てたそうで、古老によると、昭和初期ごろまでは、村の人たちが毎晩当番で、ローソクを1本ずつ点す習慣があったそうです。
青柳福祉センターから約140m歩くと、沢井家の門柱に「災害対策用井戸」と記された看板が掲げられていました。
「どのような井戸だろう」と思い、不法侵入してこっそりと敷地の中に入らせて頂きました。
10時19分、災害対策用井戸のある家(沢井家)
048 災害対策用井戸表示
広い敷地の家で、母屋の近くに井戸がありました。
井戸のポンプは新しいものに取り換えられていましたが、都会ではなかなか目にすることのないので、小さい頃使っていた井戸を思い出しました。
  ↓災害対策用井戸

049 沢井家の災害対策用井戸
沢井家を出て約120m歩くと「みのわ通り入口交差点」があり、右折すると車が走れる道路で、左折すると車が入れない遊歩道になっている面白い交差点がありました。
遊歩道にはベンチが備えられており、出発から2時間経過する頃なので、ここで休憩することにしました。
10時20分~10時29分、休憩
050 休憩ベンチ
ベンチにザックを置き、温度も上昇してきたのでチョッキを脱ぎ、次に朝食を食べてから4時間近く経つので、行動食として持参したスポーツ羊羹を食べ、持参したスポーツドリンクで水分補給し、ひと息つきました。
Yumiさんが居れば、衣類調整でプチ喧嘩をしたり、「はい、これ食べて」とスボーツ羊羹の包み紙を取って渡したり、水分補給でペットボトルの栓を取って渡すなどを行い、ゆっくり休んでいる暇もないのですが、今日は私一人のため、Yumiさんが居ないことは寂しいのですが、一人のんびりと休めました。
ただ、いつも話しをするYumiさんが居ないので、話し相手がいない寂しさはあります。
ひと休みして気持ちも新たにザックを背負い歩き始め、約220m進むと左側に国立市から立川市に入る市境標識が建っていました。
10時31分、立川市市境標識(左側)
051 立川市境標識
市境標識の先の錦町6丁目信号で、進行方向右側に渡りました。
左側には児童養護施設の至誠学園、至誠保育園、至誠福祉施設が立ち並んでいます。
街道の右側を約380m歩くと渋滞情報で良く耳にする日野橋交差点があり、現在の国道20号線は左折して多摩川を渡るのですが、旧道中は交差点を渡り斜め右方向に進みます。
10時38分、日野橋交差点
052 日野橋交差点
交差点を渡っていると娘から「Yumiさんの着るもの(伸縮性のあるズボンやカットソーなど)を注文したよ」とメールが届き、お礼の返信メールを送信してから歩き始めました。
ここで山の会で懇意にしているKYOの会のYさんのお宅が近くにあるので、お庭を通らせて頂くご挨拶の電話を掛けました。
時間があったら家の近くで手でも振ろうかと考えたのですが、丁度出掛ける時でエールの交換はできませんでした。
そして、日野橋交差点から出光ガソリンスタンドに沿って現在の奥多摩街道を約250m歩くと変則4差路があり、左折しました。
10時45分、分岐(左折)
053 分岐(左折)
分岐を左折すると直ぐの右側に「旧甲州街道」の道路標識が建っていました。
  ↓旧甲州街道道標
054 旧甲州街道道標
ここから道は少し下り坂となっており、右側に立川市の柴崎市民体育館を眺めながら約300m歩くと、新奥多摩街道の交差点に出ました。
10時51分、錦町下水処理場前交差点
055 錦町下水処理場前交差点
交差点を渡り左側の下水処理場に沿って約60m歩くと、分岐する左側に日野の渡し跡があり、碑が建っていました。
10時52分、日野の渡し跡
056 日野の渡し跡
道中は渡し跡のところの分岐を右側に進み、道なりに約120m歩くと土手があり、階段を上って土手に出ました。
  ↓分岐(土手を右折)
057 多摩川土手分岐
道中は土手を進みノレールの下に架かる立日橋を渡るので、少しの間ですが、快晴、風なしという最高の天気に恵まれた多摩川土手を味わいながらのんびりと歩きました。
  ↓多摩川土手
058 多摩川土手
多摩モノレール高架下の道路を渡り、進行方向左折して立日橋を渡りました。
10時56分、立日橋分岐(左折)

059 立日橋分岐
立日橋を渡りながら、下を流れる多摩川の先を見ると、富士山が綺麗に眺めることができました。
  ↓立日橋からの眺め(白丸が富士山)
060 立日橋から富士山の眺め
立日橋分岐から約430m歩いて橋を渡り、そのまま約150m真っ直ぐ進みむと立日橋南交差点があり、モノレールから別れて右に進みました。
  ↓立日橋親柱(南側)
061 立日橋・日野側
立日橋南交差点を右側に進み、約170m歩くとスポーツ公園前交差点があり、交差点を渡って直進しました。
11時08分、スポーツ公園前交差点
062 分岐・スポーツ公園前
右側の市民の森スポーツ公園に沿って約350m歩くと、国道20号線の新奥多摩街道入口交差点に突き当りました。
11時12分、新奥多摩街道入口交差点(右折)
063 分岐(右折)
交差点をそのまま渡り、進行方向左側を約60m進むと左側に、明治時代に建てられた有山家住宅が残っていました。
11時14分、有山家住宅(左側)
064 有山家住宅
  
↓明治時代に撮られた有山家住宅
065 有山家付近の写真
蔦か何か分かりませんが、壁面には枝が張り付いており、新緑の頃は葉で壁面が見えなくなるのだろう、と思いながら有山家住宅前を通り過ぎました。
そして、住宅から約180m歩くと川崎街道入口交差点があり、交差点を渡った角に高幡不動尊の道標が建っていました。
  
↓川崎街道(起点)の道標(左側)
066 川崎街道・基点標識
11時16分、高幡不動尊道標(左側)
067 高幡不動尊道標
川崎街道入口交差点を過ぎて約50m行くと右側に日野宿交流館があり、交差点まで戻るのが面倒で、車の有無を確認して道路を横切ってしまいました。
11時18分、日野宿交流館(右側)
068 日野宿交流館
館内に入ると入場している人が居なかったのか、係の人が「こちらのエレベータを利用して下さい」と云われ、係の人は階段を上がって2階の展示室の照明を点けて下さいました。
  ↓2階の展示室
069 二階展示室
  
↓甲州道中の変遷
071 甲州道中の変遷
甲州道中は青柳(現国立市)から万願寺渡船場で多摩川を渡り日野宿に入っていた(点線部分)のですが、貞享元年(1,684年)に日野渡船場を渡るよう改められ、日野宿の西で南西に向きを変え、日野台地を上る道筋に改められたそうです。
館内には道中に関するもの以外に、新撰組に関するものも展示されていました。
日野交流館の展示物をひと通り見学し、次に交流館の斜め向かいの日野宿本陣を見に行きましたが、ここでも交差点まで50m戻るのが面倒で、車の有無を確認して道路を横切ってしまいました。
11時24分、日野宿本陣(左側)
072 日野宿本陣・入口
本陣の冠木門手前の右側に天然理心流の佐藤道場跡碑と、日野宿脇本陣跡を記す標板がそれぞれ建っていました。
  
↓天然理心流佐藤道場跡
073 天然理心流佐藤道場跡
  ↓日野宿脇本陣跡
074 日野宿脇本陣跡
  
↓日野宿本陣建物
076 本陣建物
  
↓本陣の内部
077 本陣内部
甲州道中の日野宿の名主佐藤彦右衛門家の屋敷跡で、始めは上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣として定められ、幕末の頃は下佐藤家が本陣を務めるようになっていたそうです。
敷地内には、幕末に竣工した建物が現存し、屋敷地の主要な部分も大きな改変を受けずに良好に保たれており、都内の本陣・脇本陣跡で敷地と屋敷が現存するのは日野宿が唯一だそうです。
折角の機会なので、本陣内部を見学していこうと思い入口で入館料200円を支払い、靴を脱いで室内に入りました。
内部は畳が敷いてあるだけで特に再現するようなことはなされておらず、東海道の本陣跡みたいに人形などを使って再現していないので、何か寂しい感じがしました。
本陣を見学し道中に戻り約50m歩くと、道路反対側に日野図書館があり、図書館入口脇に高札場跡・問屋場跡の石碑が建っていました。
石碑は進行方向右側のため、今度は道路を横切らず道路の反対側から望遠で撮影しました。
11時40分、高札場跡・問屋場跡(右側)
080 日野宿高札場跡・問屋場跡

問屋場は人馬継立等の宿場業務を執る役所で、上および下の両佐藤家が問屋を務め、高札場は幕府の法度や掟等を掲示する場所として用いられました。
図書館から約70m先に日野本町二丁目交差点があり、さらに90m歩くと右側に日野駅前郵便局があり、その先隣りに史跡となっている渡辺家の建物がありました。
11時43分、渡辺家史跡建物(右側)
081 渡辺家・史跡建物
渡辺家も道路の反対側に建っていたため、道路を横切らずに望遠で撮りました。
渡辺家から約90m歩くと日野市役所入口交差点の処に昭和シェル石油のガソリンスタンドがあり、敷地の隅に「かねこ橋の親柱」が建っていました。
11時46分、かねこ橋親柱(右側)
082 かねこばし親柱
親柱は江戸時代、用水(日野用水の前身)に架かっていたかねこ橋がここにあったことを、後世まで伝えようと平成9年に建てられたものです。
ガソリンスタンドの前の日野市役所入口交差点を進行方向左側に渡り、約70m進むと左側に八坂神社がありました。
11時48分、八坂神社(左側)
083 八坂神社・鳥居
八坂神社には下佐藤家を継ぎ、近藤勇の養父近藤周助の天然理心流に入門した佐藤彦五郎他門人が安政5年(1858)に奉納した額が残っているとのことでしたが、見ることはできませんでした。
084 神社奉納額
八坂神社は本殿の前で、拝礼だけして失礼しました。
八坂神社を出て交通違反をして道路を横切り進行方向右側に移りました。
旧甲州道中は花輪病院の前辺りで右に進み(矢印方向)、約60m先を左折、約20m先の交差点を渡ります。
  ↓分岐(右側)

086 分岐(右側)
  ↓分岐(左折)

087 分岐(左折)
私は国道20号の信号を渡り、真っ直ぐ行くところを右折してJR日野駅の駅舎の写真を撮りに立ち寄りました。
11時54分、JR日野駅
088 日野駅・駅舎
さて、時間も昼時のため、になりお腹が空いてきたので、この辺りで食べようとキョロキョロしながら歩くと、旧甲州道中沿いにそば「中清」の看板が目に入り、「ここで食べよう」と入店しました。
11時56分~12時21分、昼食

089 そば・中清
店内に入って直ぐにトイレを使わせて頂こうとトイレの場所を聞くと、「ここの奥です」と云われ調理場を通ってトイレに行きました。
店の奥にトイレがある時もありますが、調理場を通ることはあまりないので、印象に残りました。
トイレを済ませメニューから「カツ丼とそば」の定食を注文したのですが、出されてきたものを見た近くの人が、「あれにすれば良かった」と云う声が聞こえてきました。
食べているうちに店内は満席となりましたが、蕎麦を食べた後に蕎麦湯を飲むのが好きなので、蕎麦湯を頂いてから店の外にでました。
店を出て約80m進むと日野駅東交差点があり、道中は右折するのですが、坂下地蔵を見に交差点をそのまま真っ直ぐに渡りました。
そして約130m歩くと右側に地蔵とお堂が建っていました。
12時25分、坂下地蔵(右側)
090 坂下地蔵
坂下地蔵の前の道はこの先で行き止まりとなっており、日野駅東交差点まで戻ることになりました。
昔はこのまま真っ直ぐに続いていたのでしょうが、現在はJRが走っていて通り抜けできません。
坂下地蔵に立ち寄った時は日野駅東交差点を左折するのですが、立ち寄らない正規のルートはみずほ銀行に沿って右折します。
12時28分、日野駅東交差点(右折)

092 分岐(右折)
交差点から約60m歩くとJRの高架があり、その下を潜って出た処の交差点を左折します。
  
↓JRの高架下
093 JR高架下
12時30分、日野駅南交差点
094 分岐(左折)
日野駅南交差点を渡り上り坂を約150m歩くと左に行ける道がありますが、道中は真っ直ぐに進みます。
  ↓分岐(左折しない)
095 分岐(直進)
左折出来る分岐から中央高速道路の高架下を潜り、大坂上三丁目交差点を過ぎるなど、坂道を約710m上ると国道20号と合流する日野大坂上交差点に着きました。
12時43分、日野大坂上交差点
096 分岐(合流)
交差点を進行方向右側に渡り約260m歩くと日野自動車正門があります。
《上人塚》
日野自動車の敷地内に「上人塚」があるというので、旅の時に立ち寄る予定にして日野自動車のお客様相談室に電話して見学予約をしました。
しかし、相方のYumiさんが左足首を骨折したため見学の日取りを日延べしたのですが、日が経つうちに認知症と慢性硬膜下血腫が悪化し、旅の継続が難しくなりました。
そのため2度目の日延べした1月25日(日)に、Yumiさんを車に乗せて上人塚だけ見に行くことにしました。
日野自動車の正門守衛所に行き予約していることを伝えると、守衛所の方が上人塚まで案内して下さいました。
上人塚には解説標板も何もなく、ただ塚があるだけで、何か殺風景な感じがしました。
また、守衛所の方は、「最近見に来られる方が増えています」と話されていました。
 上人塚(右側)・・・平成27年1月25日見学
001 上人塚
 
↓上人塚を見に行った時のYumiさんの状態
02 上人塚
上人塚は、元禄年間の文書に「請人塚」という記述があることから、江戸時代には存在していたと考えられている。由来は、美濃(現在の岐阜県)から移り住み、日野用水を開削するなど日野発展の基礎を作った佐藤隼人を称えるため、隼人の業績を記した書を埋納したものという説がある。
また、かつてこの一帯が荒れ野であった時に、狸や狐が上人に化けて甲州道中を行く人をたぶらかしたため、「上人塚」の名が付いたという説もある。
日野自動車の敷地内に残っている上人塚は1月25日に見たので、今日は予約もしていないため、日野自動車の前を通り過ぎました。
日野自動車の正門前から約580m歩くと、日野自動車の敷地を区切るフェンスが終わる数メートル手前のフェンスに一里塚跡の標板が掲げられていました。
12時55分、日野台一里塚跡(右側)
097 日野台一里塚跡
  ↓日野台一里塚・解説
098 日野台一里塚・解説
一里塚跡を過ぎると進行方向左側に浜寿司本店がありました。
この店は昔から美味しい店として知っており、Yumiさんと結婚した当時は住まいの近くに支店があり、お客様が来ると良く出前を注文していました。
また、本店は何回も食べに来たことがあり、店舗を見て懐かしく思い出しました。
12時58分、浜寿司本店(左側)
100 浜寿司本店
浜寿司本店から約20m歩くと日野台交差点があり、進行方向左側に渡って前に進みました。
13時00分、日野台交差点
101 日野台交差点
日野台交差点から約290m歩くとコニカミノルタの工場があり、敷地内にある「富士塚」のがあります。
日野自動車の上人塚は見学を許可して下さいましたが、コニカミノルタは門前払いの扱いで拒否されました。
折角工場の目の前を通るので、ダメ元で守衛所に立ち寄り「富士塚」の見学を申し出ると、「今日は休日で案内に対応できる人が居ないので、平日に総務課に電話して予約して下さい」と云って電話番号を教えて下さいました。
電話予約した時に門前払いされた時とは違い、見学に可能性が出てきたように感じました。
13時07分、コニカミノルタ前(左側)
102 コニカミノルタ
コニカミノルタを出て日野台五丁目西交差点を約50m過ぎた左側に日野市から八王子市に入る市境標識が建っていました。
13時08分、八王子市市境標識(左側)

103 八王子市境標識
八王子市に入り約560m歩くと国道20号と日野バイパスが合流する高倉町西交差点に着き、クランク形に交差点を渡りました。
13時18分、高倉町西交差点
104 分岐(右折)
高倉町西交差点から約350m歩くと、八高線が走る跨線橋があり、今日の到着地が目の前になりました。
  ↓八高線跨線橋
106 八高線
跨線橋から約140m歩くと大和田町交差点の先に、今日の到着地である「大和田二丁目」バス停があり、無事到着しました。
13時25分、大和田二丁目バス停(左側)
108 大和田二丁目バス停(到着地)
Yumiさんが居ればYumiさんにモデルになってもらうのですが、今日から一人での旅になるため、持参したミニ三脚にデジカメを取り付けセルフタイマーで到着式を行い、第3回の旅を終了しました。
帰りは、道路反対側のバス停からバスに乗り、日野駅を経由して家に帰りました。

【次回の予定】

第4回旧甲州道中夫婦二人旅は、3月14日(土)に大和田バス停から小仏バス停までの12.85㎞を旅する予定です。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 

※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/