旧甲州道中夫婦二人旅

H26年1月に京都三条大橋に到達し、旧東海道の旅が完結したのに続き、今度は旧甲州道中の旅に出発しました。Yumiさんの意味認知症は介助すれば旅ができる状態だったのですが、第2回の旅以降にYumiさんの状態が急速に悪化し、旅を続けることができなくなりました。残念ですが、第3回の旅から私が一人で再開することにしました。街道で出会いましたら、声を掛けて下さい。

旧甲州道中夫婦二人旅

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・H26.09
  旧甲州道中夫婦二人旅 序章
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・H26.09.15(月・祝)
 
第1回 日本橋 ⇒ 京王線・千歳烏山駅入口
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・H26.10.11(土)
 第2回 京王線・千歳烏山駅入口 ⇒ 分倍河原駅入口
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・H26.10.27(月)
 急告 第3回の旅(Yumiさんの左足首骨折で延期)
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・H27.02.10(火)
 通知 旧甲州道中の旅・再開
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・H27.02.11(水・祝)
  第3回 分倍河原駅入口交差点 ⇒ 大和田二丁目バス停 
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・H27.03.14(土)
  第4回 大和田二丁目バス停 ⇒ 小仏バス停 
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・H27.05.10(日)
  第5回 小仏バス停 ⇒ 藤野駅前交差点
   H28.07.03に再実踏を行い、古道を3ケ所修正しました
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・H27.06.13(土)
  第6回 藤野駅前交差点 ⇒ 西光寺前分岐
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・H27.06.28(日)
  第7回 西光寺前分岐 ⇒ R20駒橋旧道入口
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・H27.09.15(火)
  第8回 R20駒橋旧道入口 ⇒ 笹子駅前交差点
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・H27.10.12(月)
  第9回 笹子駅前交差点 ⇒ R20大和橋西詰交差点
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・H27.11.13(金)
  第10回 R20大和橋西詰交差点 ⇒ 酒折駅前交差点
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・H27.12.15(火)
  第11回 酒折駅前交差点 ⇒ 韮崎・本町交差点
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・H28.04.08(金)
  第12回 韮崎・本町交差点 ⇒ 台ケ原・つるや旅館前
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・H28.04.09(土)
  第13回 台ケ原・つるや旅館前 ⇒ すずらんの里・神戸八幡交差点
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・H28.05.29(日)
  第14回 すずらんの里・神戸八幡交差点 ⇒ 上諏訪・諏訪1丁目交差点
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・H28.05.30(月)
  第15回 上諏訪・諏訪1丁目交差点 ⇒ 下諏訪・中仙道合流之地
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【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 小雨のち曇り
【宿場】 (37)上諏訪宿⇒(38)下諏訪宿
【行程】 歩行距離= 4.99㎞ 総距離=210.04㎞
諏訪一丁目交差点⇒(1.84㎞)⇒珍しいケヤキ⇒(1.47㎞)⇒諏訪レイクマンション前⇒(1.18㎞)⇒承知川橋⇒(0.50㎞)⇒下諏訪・中仙道合流之地(ゴール)
【ルート図】
宿場(黒囲みが第15回旅の宿場)

第15回
  ↓旧甲州道中の旅・進捗状況(15回の黒線)
第15回全体ルート
  ↓第15回の旅ルート
  (上諏訪・諏訪一丁目交差点 ⇒ 下諏訪・中仙道合流之地
=ゴール
第15回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
05時30分、起床
外を見ると小雨が降り続いており、出発する時に雨が止んでいてくれたらと願いながら、朝食を食べに行きました。
食べる所に配膳された朝食は、豪華ということはありませんが、朝食としては十分な量で、全て食べ切りお腹を膨らませました。
  ※朝食
001 朝食
今日の旅は、ゴールまで5㎞弱と短いことと天気が雨模様(昼頃には雨が止む予報)ということで、少しでも遅く出発(10時頃)しようと考えているため、のんびりと食事を摂りました。
食後、部屋に戻り、出発の準備を整えた後、友人が住んでいた家がどうなったか見に行こうと思い(諏訪湖花火大会の時に立ち寄らせて頂いたことがあります)、Mさんに断って出掛けました。
友人の家は取り壊されて駐車場になっており、メールで連絡すると2年前に取り壊されたとのことでした。
私が出掛けた時は霧雨が少し降っていた程度でしたが、民宿に戻ってくると直ぐに本格的な雨が降り出してきました。
9時過ぎまで約1時間出発を待機しましたが、降ったり、止んだりする状況は変わらないと判断し、予定の10時より少し早く出発することにしました。
09時24分、民宿すわ湖発
外に出ると本降りに近い雨が降っており、傘をさして出発地の「諏訪1丁目」交差点に向かいました。
  
※上諏訪駅手前の踏切
003 上諏訪駅踏切
ゴールに到達する最後の日が雨模様と気が滅入りそうですが、東海道の鈴鹿峠越えの雨中の旅(降雨量10㎜)のことを思い出すと、あの時よりはるかに小降りなのと思い出に残る旅が出来ると気を取り直しました。
出発地の諏訪1丁目交差点に立ち恒例の出発式を行い、旧甲州道中のゴールに向けて旅に出発しました。
09時35分、諏訪1丁目交差点(出発地)
004 諏訪一丁目交差点(出発)
交差点を出発し約70m歩くと十字路があり、左折しました。
09時36分、十字路分岐(左折)
005 分岐(左折)
左折して約50m歩くと、長屋門を移築した茶房・石の花がありました。
09時37分、茶房・石の花(左側)
006 石の花
石の花から約120m歩くと、右側に吉田式部彦衛門が大坂から持ち帰ったと伝えられている吉田松がました。
09時39分、吉田松(右側)
007 吉田の松
吉田松は諏訪市内で最年長の木だそうです。
吉田松から約90m歩くと、左側の藤森宅の隣りに日本橋から52番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。
09時41分、052片羽一里塚跡(左側)
008 52一里塚
一里塚跡から約160m歩くと、右側に宿温泉と記された表札の旅館さざ波がありました。
09時44分、旅館さざ波(右側)
009 さざ波旅館
あまり上諏訪で一泊する人はいないと思いますが、宿泊して諏訪湖を見に行きたい人は私達が宿泊した民宿すわ湖が良いと思いますが、街道旅で宿泊するだけで良いと考える方には便利な旅館だと思います。
旅館さざ波から右に曲がりながら約240m歩くと、左側に高島藩ゆかりの庭園で、諏訪市文化財指定公園になっている指月庵がありました。
09時47分、指月庵(左側)
010 指月庵
時間が早かったため開園前で、脇から庭園を撮らせて頂きました。
  ※指月庵の庭園
010-1指月庵・庭園
指月庵の先でY字路分岐し、街道は左側に進むのですが、Y字路分岐する手前の右側に、石仏群がありました。
09時49分、石塔群(右側=Y字路分岐の手前)
012 石仏群
  ※Y字路分岐(左側)
011 Y字路分岐(左)
Y字路分岐を反対の右側に行くと、高島藩歴代藩主の廟所や和泉式部の墓があるそうですが、立ち寄りませんでした。
Y字路分岐から約120m歩くと、右側に児玉石神社があり街道から直ぐの場所にあったので立ち寄りました。
09時52分、児玉石神社(右側) 
013 児玉石神社
 ※本殿&いぼ石
014 いぼ石
  ※境内のいぼ石群
014-1 いぼ石群
児玉石神社から約160m歩くと、白山社と記された社標が立っていてその脇から神社の上る階段があり、見ただけで恐れおののき記録だけ残して通り過ぎました。
09時59分、白山社社標(右側)
015 白山社
出発してから上り勾配の道を歩いてきましたが、白山社社標碑から約90m進んだ浜商会(右側)の先で終り(赤線の部分)、これからはアップ・ダウンを繰り返しながらゴールに向かいます。
  ※今日のアップダウン道の最初の峠(赤線部分)
016 上り・下りの分岐(浜商会)
峠手前の浜紹介から約160m歩くと、右側に先宮神社があり立ち寄りました。
10時05分、先宮神社(右側)
017 先宮神社
境内の拝殿脇に諏訪市天然記念物の大ケヤキが植生されていました。
  ※大ケヤキ
018 大けやき
  ※大ケヤキの解説
018-1 解説
先宮神社から約400m歩くと、道路下を千本木川が流れる十字路を直進し街道を進みます。
019 分岐(直進)
十字路から約160m歩くと左側に諏訪市消防団第一分団があり、その先隣りに大ケヤキの木が植生されており、その先隣りが武居屋酒店がありました。
※大ケヤキの場所は、十字路からの距離でもっと手前だったように地図に記録してありました。
ところが地図に掲載されている武居屋酒店の場所が約160m先だったので、地図に掲載されている武居屋酒店を採用して距離を記しました。
街道旅の時はご注意下さい。
10時14分、街道脇の大ケヤキ(左側)
020 街道脇の大けやき
大ケヤキの前に小さい街道碑、木の後ろ側に男女双体道祖神が祀られていました。
  ※旧甲州街道碑
021 甲州道中碑
  ※男女双体道祖神
022 男女双体道祖神
大ケヤキから約140m歩くと、右側に燈部が破損した常夜燈が建っていました。
10時22分、常夜燈(右側)
023 常夜燈
常夜燈から約300m歩くとコープ小池があり、横の駐車場内に先宮神社の御柱が4本並んで置かれていました。
  ※先宮神社の御柱(右側)
024 先宮神社の御柱
先宮神社の御柱祭りは、以下のURLでご覧下さい。
  URL=http://www.shinmai.co.jp/onbasira/2016/04/post-445.html
御柱が置かれていたところから約100m歩くと、右に上っていく道がありますが、私道で鎖が架かっているので間違えることはないと思います。
  ※Y字路分岐(左側)
025 分岐
私道のY字路分岐から約40m歩くと、田植えの終わった棚田水田と諏訪湖が眼下に見えました。
10時34分、棚田と諏訪湖(左側)
026 棚田と諏訪湖
諏訪湖は天気が悪く、靄がかかったようになっていました。
諏訪湖を左に眺めながら約250m歩くと、左側に銅板葺き屋根の家があり、まだ葺き替えて時間が経過していないようで、銅色に輝いていました。
10時38分、銅板葺き屋根の家(左側)
027 銅板の屋根
銅板葺き屋根の家の2軒先に、連子格子の江戸期に茶屋だった橋本政屋がありました。
10時39分、茶屋跡・橋本政屋(左側)
028 茶屋跡
門は高島城三の丸門が移築され、1・2階の間の欄間には鯉の彫刻が彫られていました。
  ※当時の面影を残す建物
028-1 茶屋跡
橋本政屋の道路を挟んだ真向いに、男女双体道祖神が祀られていました。
10時41分、男女双体道祖神(右側)
029 男女双体道祖神
橋本政屋から約170m歩くと、火の見やぐらが建っている十字路があり、左角に男女双体道祖神が祀られていました。
10時44分、男女双体道祖神(左側)
030 男女双体道祖神
男女双体道祖神から約40m歩くと、島木赤彦の家を表現する柿蔭山房があるというので、街道から別れ右折して立ち寄りました。
10時47分、島木赤彦の住居分岐(右折)
031 島木赤彦住居跡分岐
  ※島木赤彦の住居入口
032 島木赤彦住居跡入口
10時48分、島木赤彦の住居(右側)
033 住居跡
  ※解説
033-1 解説
島木赤彦の遺品は下諏訪町立諏訪湖博物館に保存・展示されています。
  ※邸内の庭園で植生されている雲流松
034 島木赤彦住居跡・庭の松
島木赤彦住居から街道に戻り約140m歩くと、右側に民宿はた屋があり、その先の家の屋根越しに山の中腹に設置されたソーラー発電が見えました。
  ※ソーラー発電(右側)
035 山裾のソーラー発電
ソーラー発電を眺めたところから約300m歩くと、右側に高層のプチモンド諏訪レイクマンションがあり、マンションの駐車場から諏訪湖を一望することができました。
11時00分、プチモンド諏訪レイクマンション(右側)
038 プチモンド諏訪レイクマンション
  ※諏訪湖(上諏訪方面の眺め)
036 諏訪湖の眺め(上諏訪側)
  ※諏訪湖(岡谷方面の眺め)
037 諏訪湖の眺め(下諏訪側)
マンションの駐車場出入口から約130m歩くと、右側に江戸期は足元が湖面で石投げして遊んだという石投場跡と明治天皇が景色が良いと馬車を停めた跡があり、それぞれ石碑が建てられていました。
11時03分、石投場跡&明治天皇駐輦址(右側)
039 石投げ場跡・明治天皇駐賛址
跡碑から約80m歩くと、雨が止んでいたので、傘を折畳みビニール袋に入れてザックに収納しました。
そして、石投場から約300m歩くと、路面に何枚も使用されていた下水道マンホール蓋があり、特に色付きだったので記録に残しました。
なお、色付き蓋は、見始めからこの先のゴールまで見ることがなかったので、幸運でした。
11時08分、色付き下水道蓋
040 下諏訪町下水蓋
色付き下水道蓋のところから約120m歩くと、右側に鎌倉街道の道標が建っていました。
11時10分、鎌倉街道道標(右側)
041 鎌倉街道案内板
道標から約20m先(フィットという会社に行く道)に鎌倉街道に入っていくような道?があり、入口脇に青色屋根の綺麗な邸宅が建っていました。
11時12分、鎌倉街道入口(?)と青色屋根の邸宅(右側)

042 鎌倉街道と綺麗な家
㈲フイットに行く道から約110m歩くと、右側に日本橋から53番目(甲州道中最後)の一里塚があり、塚跡に石碑が建てられていました。
11時13分、053富部一里塚跡(右側)
044 富部一里塚跡
一里塚跡碑から約250m歩くと、若宮神社に通じる参道入口があり、社標が建っていました。
11時17分、若宮神社・社標(右側)
045 若宮神社・社標
若宮神社社標から約240m歩くと、承知川に架かる承知橋があり、渡って真っ直ぐに進みました。
11時20分、承知橋
046 承知橋
  ※承知川
047 承知川
承知川を渡って約70m歩くと、右側の石垣に承知橋に架かっていた一枚岩の橋石が埋め込まれて保存されていました。
11時22分、承知橋の橋石(右側)
048 承知橋・橋石
橋石から約220m歩くと十字路があり、街道は直進するのですが、霞ケ城跡が下諏訪温泉・山王閣の敷地内にあるというので、右折して街道から別れました。
11時26分、十字路分岐(右折)
049 分岐
右折して約30m先にあるブロック擁壁手前の階段を上り、城跡の山王閣に行きました。
  ※山王閣に通じる階段(右側)
050 山王閣入口階段
11時28分、霞ケ城跡(山王閣敷地)
051 霞ケ城跡
  ※霞ケ城跡・解説
051-1 解説
山王閣を後にして街道に戻り十字路から約60m進むと、左側に大きなケヤキの「専女(トウメ)のケヤキ」が植生されていました。
11時31分、専女のケヤキ(左側)
052 専女のケヤキ
専女のケヤキの前は諏訪大社下社秋宮の駐車場で、約30m前進すると国道142号と交差する十字路となり、街道は右折します。
  ※十字路分岐(右折)
053 分岐(右折)
旧甲州街道は右折してさらに神社鳥居の左側の道を進むのですが、お諏訪様と云って我が家でも毎年必ず参拝に訪れ、約30年くらい前は大晦日の12時に2年詣りをしてきた神社なので、下社秋宮に参拝に立ち寄りました。
11時33分、諏訪神社下社秋宮・鳥居
054 諏訪大社・秋宮
神社の一番奥にある拝殿に行き、お賽銭をご奉納し、旅のご加護への感謝とYumiさんの病気平癒
を祈願しました。
  ※拝殿
055 諏訪大社・秋宮拝殿
今年の4月~5月に開催された御柱祭りで建てられた御柱が、拝殿をはさんで右側に秋宮一、左側に秋宮二の御柱が境内に建てられていました。
  ※秋宮一の御柱
056 御柱・秋宮一
  ※秋宮二の御柱
057 御柱・秋宮二
  ※神楽殿
058 神楽殿
諏訪大社の参拝を終え、鳥居脇の旧街道を約40m歩くと、左に曲がる右角に番屋跡の石碑が建っていました。
11時43分、番屋跡(右側)
059 番屋跡
番屋跡から約50m歩くと、塩羊羹の老舗である新鶴があり、立ち寄りました。
11時44分、塩羊羹・新鶴(右側)
060 新鶴(塩羊羹)
新鶴の塩羊羹は家族一同が大好物で、過去に何回買ったか分からないくらい来ており、今日もYumiに食べさせるものと、娘のお土産に2つ買いました。
添加物が一切入っていない生の羊羹のため、常温で5日以内に食べて下さいと注意を受け、大切にザックに入れました。
また、店内は団体客が立ち寄るなど混雑していましたが、スムーズに買うことができました。
  ※店内(許可を得て撮りました)
061 店内
新鶴を出るとゴールは目の前で、約40m歩くと中仙道と合流する地点となり、左側に「甲州道中中仙道合流之地」の石碑が建っていました。
直ぐに到着式の支度を整え、到着式を行いゴールを記録に残しました。
11時51分、甲州道中・中仙道合流之地(右側)
063 中山道合流之地(到着)
 ※合流地(赤線)・甲州道中(黄色)・中仙道(白色) 
064 合流之地分岐
到着地は中仙道との合流地のため、本陣、問屋場、下諏訪宿の旧旅籠などの史跡がまとまってあったため、それらの史跡を記録に残すことが忙しくなり、旧東海道の三条大橋到着のようなゴールした感激をはありませんでした。
※旧東海道の時はNさんが到着を祝す横断幕を作って出迎えて下さいましたが、今回はそのようなセレモニーもなかったからも知れません。
【移動】
感傷に浸ることなく、合流地にある史跡を記録に残すため、まず、合流之地碑の後方の壁に掲げられている「木曽路名所図絵・下諏訪宿」、図絵の右隣りの「綿の湯」伝説碑、その右隣りの「問屋場」跡碑などを記録に残しました。
11時52分、木曽路名所図絵・下諏訪宿(合流之地碑の後部)
067 木曽路名所図絵・下諏訪宿
  ※綿の湯碑
065 綿の湯碑
  ※綿の湯・解説と問屋場跡
066 中山道下諏訪宿・問屋場跡
正面から写真を撮りたかったのですが、解説パネルに横付けするように車が駐車していたため、斜めしか撮れませんでした。
合流之碑から中仙道を約30m和田峠方向に進むと、右側に下諏訪宿本陣跡がありました。
11時56分、下諏訪宿・岩波家本陣跡(進行和田峠の右側)
068 下諏訪本陣跡
  ※本陣・解説
068-1 解説
門から先は有料ということで、門のところから撮った旧本陣の庭園
069 本陣内
本陣跡から合流之地碑のところに戻ると、合流之地碑の左斜め前に元禄3(1690)年に創業した旅館・桔梗屋があります。
11時58分、温泉旅館・桔梗屋(合流之地碑の左斜め前)
070 旧旅籠・桔梗屋
合流地之碑の右斜め前、桔梗屋の真向いに旧脇本陣で創業が元禄2(1689)年創業の御宿まるやがあります。
※旧脇本陣・まるや(合流之地右斜め前)

071 脇本陣・まるや
桔梗屋の先隣りに下諏訪町立歴史民俗博物館がありましたが、中仙道の旅の時に見れればとと考え立ち寄りませんでした。
12時00分、下諏訪町立歴史民俗博物館(桔梗屋の隣り)
072 民俗資料館
歴史民族博物館の先隣りに、旅館みなとやがありました。
  ※旅館・みなとや(歴史民族博物館の隣り)
073 みなとや
さて、合流之地付近の史跡や江戸期から続く旅館などを記録に収め下諏訪駅に向かいましたが、Yumiさんの母親の家(以前は借家にしていた)がどうなっているか確認しようと思い、Mさんに断って立ち寄りました。
家は人がいる気配がなく住んでいるのか、いないのか分からず、庭木は短く刈られていましたが、整備されておらず祖母(Yumiさんの母親の親)が居た時の情景との違いに淋しくなりました。
【昼食】
下諏訪駅前に出て昼食を何処で食べようか辺りを見回し、駅前ビルの2階にあるスナックに入りました。
074 昼食場所
  ※スナック・テラリューム
075 喫茶・テラリューム
12時16分~12時46分、昼食(テラリューム)
店内に入ると数組のお客がおり、空いている席に座ってお店が勧める「日替り弁当」(@700円)と瓶ビールを注文しゴールした乾杯をしました。
077 昼食
Mさんは飲めないので致し方ないと思う反面、ひとつの旅を終えた喜びを表現できず、私一人で飲む味気無さを感じました

076 乾杯
【帰路】
昼食を済ませると予定している特急(14:08)の1本前に乗れそうなため、下諏訪駅の窓口で指定席変更を行い、1本前の特急で帰ることになりました。
  ※下諏訪駅
078 下諏訪駅
  ※下諏訪駅ロータリーの温泉口
079 下諏訪駅前の温泉
  ※下諏訪駅・改札口=万治の石仏モニュメント
080 万治の石仏モニュメント
予約した特急(あずさ)は下諏訪駅から乗り換えなしで下車駅まで行かれるのですが、変更した特急(スーパーあずさ)は下諏訪駅に停まらないため、1駅先の上諏訪駅まで移動する必要があります。
13時14分、下諏訪駅発
081 下諏訪駅ホーム
13時19分、上諏訪駅着
上諏訪駅のホームには足湯があり、何人か入っていました。
電車を待つ間の時間潰しには良いかもしれません。

082 上諏訪駅構内の足湯
13時28分、上諏訪駅発
083 上諏訪駅・特急スーパーあずさ
乗車した車両は70~80%くらいの乗車率で、のんびりと席に座って帰りました。
【祝杯】
Mさんの奥さんはご主人と一緒に甲州道中を歩いているので、ゴールの後の乾杯に参加して頂きたいと話していました。
予定していた特急より1本早く乗ることをメールで知らせてもらい、立川駅で合流しました。
何処に入ろうか考えMさんの奥さんに聞くと「魚力」がいいと聞き、みずほ銀行地階の店に行くと、午後の休憩時間で閉まっていたため、駅ビル地階の魚力(寿司店)に行くことになりました。
084 ルミネ地下・魚力
店に入ると4人座れるテーブル席が空いており、席に座って寿司とビールを注文しゴールの祝杯を上げました。
085 祝杯
約1時間、3人でお寿司を食べながら街道旅の思い出話しに花を咲かせました。
一方、アルコールがダメなMさんに替わってアルコールOKの奥さんが、ご主人が飲めないビールを飲み干していたので、追加して飲もうかなと思いましたが、祝い酒が足りない分は家に帰って飲むことにして1杯だけで打ち切りました。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 晴れ
【宿場】 (35)蔦木宿⇒(36)金沢宿⇒(37)上諏訪宿
【行程】 歩行距離=16.42㎞ 総距離=205.42㎞
神戸八幡交差点⇒(3.04㎞)⇒金沢宿本陣跡⇒(4.30㎞)⇒国道宮川板室交差点⇒(4.53㎞)⇒大門街道追分⇒(2.51㎞)⇒旧国道合流⇒(2.04㎞)⇒諏訪一丁目交差点
【ルート図】
  
宿場(黒線囲みが第14回旅の宿場)

map
  ↓旧甲州道中の旅・進捗状況
   (14回の黒線)
第14回全体ルート
  ↓
第14回の旅ルート
  (すずらんの里・神戸八幡交差点 ⇒ 上諏訪・諏訪一丁目交差点

第14回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
一昨年9月にYumiさんと出発した旧甲州道中旅も最終章に入り、今回の旅(一泊二日)でゴールします。
約500㎞歩いた東海道に比べて半分以下の約200㎞と短いのですが、平坦路を歩く感じが強かった東海道に比べ、平坦路が少なく上ったり下ったりの道が多かったという感じが強く残っています。
甲州道中の到達地である下諏訪は、Yumiさんの母親の里であり、Yumiさんが幼い時から遊んだ町であり、私も結婚する前年から45年間欠かすことなく訪れている地で、私とYumiさんの思い出の地に到達することを楽しみに旅をしたいと思います。
《資料作成》
特養に入所しているYumiさんの所に行って昼食の介助をしたり、孫ちゃんの送迎、趣味の山歩きの他に、3月に立ち上げた「意味性認知症 つくしの会」や介護者家族会などのボランティア活動が続き、4月8日~9日に実施した街道旅の旅紀行ブログが完成しないで5月のGWを迎えました。
GWは娘夫婦と山荘で過ごし、気分を一新して第12回、第13回の旅紀行ブログを完成させ、最終章の旅の準備に取り掛かりました。
今回はUソリューションズが作成した「5街道グーグルマップ」地図を主体に、「ちゃんと歩ける甲州街道」で古道と史跡を調べ、「風の吹くままに」、「甲州街道道中記」などの先人が書き記したHP情報をプラスして史跡などの場所を地図に書き記し、持参する資料の準備を行いました。
《旅の準備》
今回の旅も前月の旅に引き続いて、一泊二日の旅をします。
山の中での泊まりでないため、シャツとズボン以外は着替え一式を持参し、他に髭剃り、携帯及びカメラの充電器、夏用防寒着、地図・資料などをザックに入れ、旅の支度を整えました。
《行程の変更》
旅に出発する前日の28日、ラジオ体操をしている時、「出発する29日の天気は良いが、夜半から翌日(30日)の午前中まで雨が降る確率が高い。ならば明日(29日)は茅野駅前で終了しないで上諏訪駅前まで歩いた方が、翌日に雨が降っても楽になるのではないか」と行程変更のことが頭に思い浮かんできたので、ラジオ体操が終わった時、
E=天気予報を考えると30日は雨の確率が高いので、明日(29日)は上諏訪まで歩きましょうか?
M=私もそうしようと思っていた
とMさんも変更に同意してくれたので、明日は「すずらんの里・神戸八幡交差点から茅野駅前交差点 9.55㎞」を、「すずらんの里・神戸八幡交差点から上諏訪・諏訪一丁目交差点 16.42㎞」
と、6.97㎞多く歩くことにしました。
一方、翌30日は11.86㎞から4.99㎞になり、多少雨が降っても大丈夫な距離になりました。
《移動》
目覚ましの音楽で目覚め、「さあ、街道旅だ」と自分に云い聞かせながらベットを出て洗面、血圧・体重測定、両足のケアの後に旅支度を行い、朝食、トイレを済ませ街道旅のウォーキングシューズを履いて家を出て駐輪場に行くと自転車がありません。
一瞬、「自転車、どうしたんだろう」と、何故自転車がないのか分かりません。
頭の中で自転車がない理由を考えると、Yumiさんの所から帰って来る途中、スーパーに立ち寄り自転車に乗らないで帰ってきたことを思い出し、急いでスーパーの駐輪場に行くと私の自転車が1台置いてありました。
※自転車には、「夜間の駐輪禁止」と記した黄色バンドが取り付けられていました。
置き忘れた自転車に乗りコンビニで行動食のあんぱんを買い、待合せの駅に向かいました。
駅近くの駐輪場に自転車を停め、待合せのホームでMさんと合流し、予定した電車に乗り旅に出発しました。
私とMさんは65才以上のJRジバング会員になっているので、乗車券、特急券をそれぞれ30%割引で購入し、往路は特急を利用しないで、帰りは特急で帰ります。
さて、日曜日の早朝ですが、乗客は多く空いている席が少ない感じでした。
私達は八王子駅で始発の列車に乗り、約2時間40分の長い電車旅で出発地に向かいました。
06時35分、八王子駅発
座席に座り、早起きした寝不足を解消したり、歓談したり、途中の日野春では特急列車の待合せの間にホームに降りて甲斐駒ケ岳の写真を撮ったりして過ごしながら目的地のすずらんの里駅に到着しました。
  ※甲斐駒ケ岳
001 日野春駅からの甲斐駒ケ岳の眺め
すずらんの里駅は立川駅から初めて普通列車で来た記念すべき日になりました。
09時14分、すずらんの里駅着
004 すずらんの里駅
すずらんの里駅は無人駅のため、乗車券を入れる箱が設置されていましたが、記念に持ち帰らせて頂きました。
駅から約300m歩くと今日の出発地である神戸八幡交差点ですが、交差点の約30m手前の左側に筆塚が建っていました。
09時19分、筆塚(街道からは右側)
005 筆塚
そして今日の出発点である神戸八幡交差点に立ち、出発式を行って旅に出発しました。

【=旅=】
09時20分、神戸八幡交差点(出発地)
006 神戸八幡交差点(出発)
交差点を真っ直ぐに渡り約20m先の八幡神社に立ち寄りました。
  ※八幡神社(左側)
007 神戸八幡社
八幡神社は創建1200年以上の歴史がある神社で、境内に大きなケヤキ(樹齢約390年)が植生されていました。
  ※大ケヤキ
008 神戸八幡社のケヤキ
大ケヤキはこの他にも目通り6mぐらいのものもありましたが、しめ縄が付けられた木を記録に残しました。
さて、神社を出て再び神戸八幡交差点に戻り、本格的な街道旅に出発しました。
交差点から約100m歩くと道路が緩やかにS字カーブを描いている北桝形跡がありました。
  ※北桝形
010 北桝形跡
現在は車の往来などがあるため、道路が拡幅され桝形が形を変えていますが、往時はハッキリとした桝形道になっていたでしょう。
桝形道に入ると右側に火の見やぐらがあり、そこから約160m歩くとY字路分岐となり、分岐口に建っている馬頭観音碑を右に見ながら左折して進みます。
09時32分、Y字路分岐(左折)
011 分岐(左)
ここから今日最初の上り坂が始まり、この後アップ・ダウンを繰り返しながら進みました。
Y字路を左折して上り坂を約140m歩くと、右側に馬頭観音群があり、一番左側に近年建てた観音像もありました。
09時34分、馬頭観音群(右側)
012 馬頭観音像群
馬頭観音群から約70m先の御射山ハイツとみやま工業の間の右側に、片瀬明神跡碑が建っていました。
  ※片瀬明神跡碑(右側)
013 片瀬明神跡
跡碑からさらに坂を約130m上りカーブを曲がったところに、往時の姿が残された日本橋から48番目の一里塚がありました。
09時38分、048御射山神戸一里塚(左側=東塚)
014 049御射山神戸一里塚(左側)
  ※049 御射山神戸一里塚(右側=西塚)
015 御射山神戸一里塚(右側)
両側の塚及び左側(東塚)のけやきは往時のものが現存されており、ケヤキは樹齢約400年だそうである。
現在は国道が別の場所を通っているので、ここを通る人も少ないですが、電車や自動車の時代になる前の江戸期は、このケヤキの葉陰に腰を下ろし、ゆっくり景色を見渡しながらひと息つく人が多かったのではないかと思います。
一里塚を過ぎて約350m歩くと、左側にエプソン富士見ハウスの看板が建っており、看板から約50m先が上り坂から下り坂の分岐になっていました。
  ※エプソン富士見ハウス入口
016 エプソン富士見ハウス入口
エプソン富士見ハウス入口から先の街道下の斜面中腹に大石があるというので、右側の斜面を注意深く眺めながら約500m坂を下ると、資料に記されていたとおり右側の下り斜面の中腹に、しめ縄が掛けられた大石(白丸線)がありました。
09時53分、ゆるぎ石(右側)
017 ゆるぎ石
ゆるぎ石から約260m歩くと左側にセイコーエプソン金沢精和荘があり、さらに緩やかな坂を下っていると、右手前方に電車が停まっているJR青柳駅が見えました。
  ※JR青柳駅(右手前方)
018 JR青柳駅
JR青柳駅を眺めながら坂を下ると小さい十字路があり、その先の左側に石塔群がありました(セイコーエプソン精和荘入口から約450m)。
10時03分、石塔群(左側)
019 石塔群
石塔群から約240m緩やかな坂を下るとR20に合流し、下り坂が終わり左折して平坦路を進みます。
10時07分、R20分岐合流(左折)
020 合流(左折)
R20を約550m歩くと、左側に日本橋から187㎞の距離標が建っていました。
  ※187㎞距離標(左側)
021 187㎞距離標
距離標から約10m先に金沢交差点があり、交差点を渡った左側に金沢宿本陣跡のパネルが建てられていました。
10時14分、金沢宿本陣跡(左側)
022 金沢宿本陣跡碑
本陣跡には、長野県の縣碑、明治天皇が昼食を食べた御在所跡碑、道路元標が同じところに建てられていました。
  ※長野縣碑
023 長野縣碑
※明治天皇御在所跡碑(長野縣碑と同じ石碑の側面)
024 明治天皇御行在所址
  ※道路元標
025 金沢道路元標
金沢交差点から約30m先の郵便局手前左側に、江戸時代の茶屋・近江屋跡がありました。
10時19分、茶屋・近江屋跡(左側)
026 元近江屋(茶屋跡)
玄関に表札が掛けられていますが、誰も住んでいないようです。
玄関には木はな彫刻が施されているので、彫刻を保存するなり、石碑などを建てて往時を偲ぶことができるようになれば良いと思います。
  ※木はな彫刻の玄関
026-1 きはな彫刻(元近江屋)
茶屋跡隣りの郵便局、さして理容ナカノの先隣りに、旧旅籠・松坂屋があり、木製の看板掛け(白丸印)が残っていました。
10時21分、旧旅籠・松坂屋(左側)
027 ホテル松坂屋跡
  ※看板掛け 
027-1 木製看板吊るし
旧松坂屋跡から約140m歩くと、右側に旧馬方宿だった小林宅があり、道路脇の大きな石の脇に馬つなぎ石が置いてありました。
10時24分、馬つなぎ石(右側)
028 馬方宿・馬つなぎ石
小林宅から約80m歩くと、左に入る小路の角(右側の藤森クリニーング店を過ぎた左側)に四角柱の秋葉常夜燈が建っていました。
10時26分、四角柱の秋葉常夜燈(左側)
029 秋葉常夜燈(角柱)
四角柱の秋葉常夜燈も珍しいのですが、常夜燈が電球?というのは昭和期に出来たものなのでしょうか?
この辺りは道路に白線を引いて歩道と区分しているのですが、車の運転手は人が歩いていることを想定していないようで、見通しの悪いカーブをスピードを出して走ってくるので、危険そのものでここを歩く時は左側を歩くことをお奨めします。
  ※危険地帯(カーブで車が目の前に現れる感じ)
030 危険地帯
四角柱秋葉常夜燈から約170m歩くと江戸期から橋が架けられていた金沢橋があり、橋の手前右側に石仏石塔群がありました。
10時33分、石仏石塔群(右側)
031 石仏石塔群
  ※金沢橋
032 金沢橋
金沢橋を渡ったところで右折し、さらに約25mで左折する桝形道になってます。
  ※桝形道
033 桝形道
街道はさらに約40m歩くとY字路分岐となり左に進むのですが、往時はY字路ではなく桝形道になっていたと思います。
  ※Y字路分岐(左折)
034 Y字路分岐(左)
Y字路分岐を左折して約80m歩くと、矢の口交差点があり交差点を真っ直ぐに渡ります。
10時38分、矢の口交差点(直進)

035 矢の口交差点
矢の口交差点を渡ると権現の森があり、石鳥居を潜って中に入ると、小さい石の祠が祀られていました。
10時39分、権現の森(右側)
036 権現の森
  ※本宮
036-1 本宮
権現の森の斜め前のバス停(矢の口)のところから古道があると云うので、記されているR20を直進することを止め、古道に入りました。
10時41分、Y字路分岐(左折)
037 Y字路分岐(左)
分岐から約300m歩くとT字路となり、左折して直ぐに右折する桝形(クランク形)に進みます。
  ※T字路分岐(左折⇒右折)
038 分岐(左折クランク)
T字路から約400m歩くとまたT字路となり、左折します。
10時50分、T字路分岐(左折)
039 T字路分岐(左折)
バス停矢の口をそのままR20を歩くと、約300mのところの左側にフジカ食堂があり、さらに約450m先のバス停(清水橋)のところが下の写真で、大池一里塚を見に行く時はこの場所を左折し、約30m歩くとT字路分岐があります。
なお、途中のコンビニ(セブンイレブン)は看板が取り外されていました。
 ※大池一里塚に行く時の分岐
040 R20からの分岐
T字路分岐から約60m歩くと宮川に架かる万年橋があり、橋を渡ると右側にピンク色のモーテルがあり、それを横目に約80m進むとモテールに沿って右折する道があり、右折します。
10時51分、万年橋
041 万年橋
  ※分岐(右折)
042 分岐(右折)
右折して約70m歩くと小さい十字路があり、右折します。
  ※十字路分岐(右折)
043 分岐(右折)
農道の十字路を右折して約180m歩くと右側こんもりした林があり、その外れの一段高いところに日本橋から49番目の一里塚跡碑が建っていました。
10時55分、049大池一里塚跡碑(右側)
044 大池一里塚跡
一里塚跡を確認し、歩いてきた道を戻らずにそのまま前進しました。
宮川の土手道は舗装路より足に優しい草の生えているので、とても歩き易い道です。
地図に記された街道は宮川を挟んだ対岸にあり、白いガードレールのところです。
 ※一里塚立ち寄り道
045 街道
一里塚跡から約350m進むと宮川の支流を渡る道があり、橋を渡ったところを右折して進みます。
  ※農道分岐(右折)
046 分岐(右)
農道分岐から約150m歩くと十字路があり、右折して宮川に架かる木舟大橋を渡り、約100m歩くと木舟交差点に着きました。
  ※分岐(右折)
047 分岐(右折)
11時06分、木舟交差点(左折)
048 木舟交差点(左折)
木舟交差点を左折して約100m歩くと、右側に地蔵立像がありました。
11時08分、地蔵立像(右側)
049 地蔵立像
地蔵立像が建っている道はJR中央本線を潜れるようになっており、道を跨ぐように火の見やぐらが建っていました。
  ※道を跨ぐ火の見やぐら
050 道路を跨ぐ火の見やぐら
R20を歩きながら左手の木々に覆われた山を見ていると、崩落したように山肌が剥きだしの状態になっているところがあり、周囲にマッチしない異様な景色を記録に残しました。
  ※異様な景色
051 岩肌が出た崖
地蔵立像から約350m歩くと右側にカーエンジニアオートヴァリエーションがあり、店舗の手前に右にヘアピンカーブで入る道があり、入り口のコンリリート壁に旧甲州街道の地図が貼られていました。
11時13分、分岐(右折)
052 分岐(右折)
この地図は聞きに立ち寄る人が多かったのか、店舗の人の善意で貼り出されたものだと思いますが、街道ウォーカーにとっては嬉しい親切です。
  ※分岐に貼られた地図
052-1 道案内
ヘアピンカーブの分岐を右折して約40m坂道を上ると、右側に木製鳥居と祀られた大石がありました。
11時14分、木製鳥居と大石(右側)
053 大石と鳥居
さらに約40m坂を上ると、JR中央本線を跨ぐ陸橋があり記録に残しましたが、タイミング悪くこの5分後に特急列車が走るなど、列車が入った写真は撮れませんでした。
11時15分、甲府方面の眺め(右側)
054 跨線橋からの眺め(東京方面)
  ※諏訪方面の眺め(左側)
055 跨線橋からの眺め(諏訪方面)
陸橋を渡り約10m先の分岐を左折します。
  ※分岐(左折)
056 分岐(左折)
分岐から約130m歩くと宮川に架かる宮沢橋があり、小さな橋を渡って進みます。
11時17分、宮沢橋
057 宮沢橋
宮沢橋から約140m歩くと頭上にのぞみ大橋が架かっており、その下を潜って進みます。
  ※のぞみ大橋
058 高架橋道路
のぞみ大橋を潜り約260m歩くと、宮川に流れ込む小早川に架かる小早川橋があり、渡ります。
11時23分、小早川橋
059 小早川橋
小早川橋を渡り約400m歩くと、左側に念仏碑と馬頭観音がありました。
11時29分、念仏碑・馬頭観音(左側)
060 念仏碑・馬頭観音
念仏碑から約50m歩くと、宮川に流れ込む早川に架かる早川橋があり、橋を渡ります。
11時31分、早川橋
061 早川橋
橋を渡ると直ぐに変則十字路があり、左折します。
  ※変則十字路分岐(左折)
062 十字路分岐(左折)
分岐から約280m進むとJRの下を潜るガードあり、車が途切れるのを待って潜りました。
11時35分、JRガードを潜る
063 クランクガード
ガードは車1台しか通れないため、カーブミラーを見て、左右の途切れる毎に交互通行していました。
ガードを潜り約400m歩くと、県道197号線の宮川板室交差点に出ました。
11時40分、宮川板室交差点(右折)
064 宮川板室交差点(右折)
交差点の右角に常夜燈や二十三夜塔などの石塔群がありました。
  ※常夜燈と石塔群(右側)
065 常夜燈・石塔群
宮川板室交差点から約40m進むと弓張川に架かる建倉橋があり、橋渡りました。
11時41分、建倉橋
066 建倉橋
建倉橋を渡り約80m歩くと板室交差点があり、交差点を右折して酒室神社に立ち寄りました。
11時44分、酒室神社・鳥居(右側)
067 酒室神社
神社の本殿ですが、東海道と甲州道中を歩いた中で数多くの神社を見てきましたが、お賽銭箱が白囲みのところにあるのを見たのは初めてです。
   ※本殿とお賽銭箱
067-2 本殿
また、神社の境内右側に、雨降り塚が建っていました。
  ※雨降り塚
068 雨降塚
酒室神社を出て街道に戻り、板室交差点から約290m歩いた茅野市清掃協会の近くから左手前方に、冠雪が残る北アルプスの山々が見えました。
写真は望遠にしたのでぼやけていますが、肉眼でははっきりと眺めることができました。
  ※冠雪が残る北アルプスの山々
069 北アルプスの眺め
県道197号を進むと中央高速の橋桁の下を潜り、約180m歩くと右側に三山神社入口と記された道標パネルが建っており、Uターンするように上っていく階段がありました。
資料ではここが古道のようで、古道を進みました(グーグル地図では道は途切れていている)。
11時59分、分岐(右折=三山神社入口)
070 古道入口(右折・三山神社)
階段をカーブしながら上ると、右側の斜面に石仏石塔群がありました。
  ※石仏石塔群(右側)
071 石仏石塔群
草が生えている道を道なりに上って行くと、右の方からの道と合流しました。
  ※分岐合流
072 古道
  ※古道
073 古道
線路沿いに進める道もありましたが、広い道をそのまま真っ直ぐに進みました。
  ※分岐(左)
074 古道分岐(左)
分岐から約50m進むと、左側に男女双体道祖神が複数体祀られていました。
12時04分、男女双体道祖神(左側)
075 男女双体道祖神
日本橋から50番目の茅野一里塚跡は、県道197号に合流する手前にあると資料に記されていたのでMさんと二人で探しましたが、見付かりませんでした。
  ※050茅野一里塚跡付近(右側)
076 茅野一里塚跡付近
県道197号と合流して右折し約110m歩くと、宮川交差点があり、真っ直ぐ渡ってY字路分岐を右に進みます。
12時10分、宮川交差点(Y字路分岐右側)
077 宮川交差点(Y字路右)
宮川交差点から約190m歩くと、左側に1.三輪神社が、2.おかめ神社、3.宮川寒天蔵跡があり、順番に見学しました。
078 全景
12時13分、三輪神社・本殿(左側)
079 三輪神社
  ※本殿の彫刻
079-1 本殿の彫刻
12時14分、おかめ神社(左側)
080 おかめ神社
12時15分、宮川寒天蔵跡(左側)
081 寒天蔵
宮川寒天蔵の先隣りに明治天皇小休止した所があり、跡碑が建っていました。
12時16分、明治天皇御小休所跡(左側)
082 明治天皇御小休所址
そして跡碑の建っている道路を挟んだ真向いに案内看板が建っていました。
082-1 解説
旧街道は丸井伊藤商店の先で道路工事が行われ、数か月先には新しい道に合流するようになります。
  ※新たな道路に合流する
082 分岐
案内看板から約290m歩くと、上社御柱が横切る交差点の先に上川に架かる親柱がブロック石の上川橋がありました。
12時20分、上川橋
083 上川橋
橋を渡りながら右手後方を眺めると、上社御柱祭りの時に御柱を滑り落とす「木落とし坂」と後方に八ヶ岳連峰が見えました。
  ※木落とし坂・八ヶ岳連峰(右側)
084 上社御柱木落とし坂
上川橋を渡り、約50m先の茅野交差点を通り過ぎ、さらに約100m歩くと茅野駅南交差点があり、交差点を右折して昼食を食べに行きました。
12時24分、茅野駅南交差点(分岐・右折)
085 茅野駅南交差点
昼食は茅野駅近くの更科蕎麦店に入りました。
この店は私の母親が好きな店で、何回か一緒に食べたことがあり、食べに入るのはしばらく振りです。
今の店舗は駅前整備で新しく建て替えられており、以前の店舗は道路真向い(踏切の近く)に建っていました。
12時25分~13時02分、昼食(更科そば)
086 そば更科
店内は昼食時で混雑しており、相席で座らせて頂き、ボリューム満点というお品書きにつられて三段重の三重(みかさね)蕎麦(@1,250円)を注文しました。
  ※三重(みかさね)そば
086-1 三重(みかさね)そば
蕎麦は大根おろし、なめこ汁、とろろと三種のつけ汁がついており、お品書きとおり大盛りそばを食べた感じがしました。
昼食でひと休みし、気分も新たにそば店を出て街道の茅野駅南交差点に戻り再出発しました。
再出発して約150m歩くと茅野駅に入る入口がありました。
山荘に来た時など、何十回となく車で通っているところを歩いて通るのは、車では見落としている新たな発見がある一方、何となく違和感を持って通り過ぎました。
13時04分、茅野駅入口(右折=茅野駅)
087 分岐
茅野駅入口から約70m歩くと茅野駅前交差点があり、左側に諏訪神社(上社)の大鳥居が建っていました。
13時06分、諏訪神社(上社)大鳥居(左側)
088 諏訪神社大鳥居
茅野駅前交差点を真っ直ぐに通り過ぎ約80m歩くと三差路となり、一番左側の道を進みました。
13時07分、三叉路分岐(左側)
089 Y字路分岐(左)
Uソリューションズの地図は真ん中の道になっていましたが、「ちゃんと歩ける甲州街道」の道を選択して歩きました。
三差路分岐から約550m歩くと上原交差点があり、真っ直ぐに進みました。
13時17分、上原交差点(直進)
090 上原交差点(合流)
上原交差点を真っ直ぐに渡り約350m歩くと上原八幡交差点があり、左角に八幡神社があり立ち寄りました。
13時20分、八幡神社・鳥居(左側)
091 八幡神社
木製の鳥居に藁がぶら下がっている珍しい神社で、本殿は質素な祠でした。
  ※八幡神社・本殿
091-2 八幡神社・本殿
  ※八幡神社の由来碑(左側=神社入口)
091-1 由来記
本殿裏手に男女双体の道祖神が祀られていました。
  ※男女双体道祖神(本殿裏手)
092 男女双体道祖神
神社を出て交差点を渡り約350m先の十字路右角に、鍛冶小路標石が建っていました。
13時27分、鍛冶小路標石(右側)
094 鍛冶小路標石
鍛冶小路から約190m歩くと変則な十字路があり、新井入口バス停の左側のブロックの上に、塔所小路の標石が建っていました。
13時30分、塔所小路標石(右側)
095 塔所小路標石
塔所小路を約5分進むと諏訪氏の館跡があるとのことでしたが、Mさんに聞くと行く意思がなかったので、立ち寄りませんでした。
そして新井バス停の裏手の男女双体の道祖神を記録して先に進みました。
  ※男女双体道祖神(右側)
096 男女双体道祖神
塔所小路から約140歩くと上原北交差点があり、左側角に片羽通り標石、道路真向いの右側角に播磨小路標石がそれぞれ建っていました。
13時33分、片羽通り標石(左側)
097 片羽通り標石
  ※播磨小路標石(右側)
098 播磨小路標石
上原北交差点から約200m先の上原頼岳寺交差点の左側に、番匠川通りの標石が建っていました。
13時36分、番匠川通り標石(左側)
099 番匠川通り標石
番匠川通り標石から約90m歩くと右側にスバルショップがあり、スバルショップの終わりに郵便局の案内看板が立っています。
街道はR20から別れて右折します。
13時39分、分岐(右折)
100 分岐(右折)
旧甲州道中はJRのガードを潜り、坂を上って進みます。
101 ガード
ガードを潜り左にカーブしながら約180m坂を上ると、分岐合流となり、分岐口に大門追分道標と常夜燈が建っていました。
13時42分、大門追分道標・常夜燈(右側)
102 追分道標と常夜燈
分岐・合流したところから約70m歩くと、右側の溝口宅の入口に甲州道中碑が建っていました。
13時44分、甲州道中碑(右側)
103 甲州道中標石
道中碑から約110m歩くと、左側に温泉マーク入りのタンクが建っており、温泉が汲めるようになっていました。
13時46分、温泉タンク(左側)
104 温泉タンク
13時47分~12時49分、休憩・衣服調整
この辺りになって来ると長袖シャツでは暑くなり、水分補給の休憩を兼ねて長袖シャツを脱ぎ半袖のTシャツで歩くことにしました。
温泉タンクのある少し涼しいところでの休憩を終え約100m歩くと、右側に石碑と常夜燈が建っていました。
13時50分、石碑と常夜燈(右側)
105 常夜燈
石碑と常夜燈から約110m歩くと、左側に神戸公民館があり、道路反対側のその真向いに先ほどの温泉タンクより動力のありそうな温泉タンクがありました。
13時52分、神戸公民館(左側)
106 神戸公民館
  ※温泉タンク(右側)
107 温泉タンク
神戸公民館から約30m先に小路の十字路があり、十字路を右折して約10m歩くと石垣の下に秋葉山常夜燈と男女双体道祖神が祀られていました。
13時53分、秋葉山常夜燈&男女双体道祖神(右側)
108 秋葉山常夜塔
街道の十字路に戻り約70m歩くと左側に後ろから見る神ノ木人事やがありました。
13時55分、神ノ木神社(左側)
109 神ノ木神社
神社の裏手から境内に入るということはありますが、この神社の変わっているところは、鳥居の前は段差になっていているため、鳥居の前から入れるスペースは1mくらいしかありません。
そのため、神社に参拝するには神社の裏手から入る以外になく、参道が裏手しかない神社はとても珍しいと思います。
  ※正面からの神ノ木神社
110 神ノ木神社
神ノ木神社から約140m歩くと、左側に日本橋から51番目の一里塚があり、跡碑とパネルが建っていました。
13時59分、051四賀神戸一里塚跡(左側)
111 神戸一里塚碑
一里塚跡から約260m歩くと、鐘が吊り下がった梯子形の半鐘の横に、上部が壊れた常夜燈と石碑が建っていました。
14時02分、梯子形の半鐘と常夜燈・石碑
113 半鐘
  ※常夜燈と石碑
112 常夜燈
半鐘の右横に立っている常夜燈から約160m歩くとY字路があるような十字路があり、左角に秋葉山常夜燈と道標が建っていました。
  ※Y字路があるような十字路(直進)
114 Y字路分岐(右)
上の写真のように進んでくると、左側のゴミ入れBOXの先隣りに建っている。
14時08分、秋葉山常夜燈&道標(左側)

115 秋葉山常夜塔・道標
秋葉山常夜燈から約650m歩くと霧ヶ峰入口交差点となり、交差点の手前約50mのところから右側の小高い山を見ると、中腹に桑原城跡の看板が建てられていました。
  ※桑原城跡(右側)
116 桑原城跡
霧ヶ峰入口交差点を通り過ぎ約120m歩くと、足長神社に上る参道階段があり、見ただけでパスさせて頂きました。
14時16分、足長神社・参道(右側)
117 足長神社
参道入口から約140m歩くと右に上って行く道の角に燈部が欠け落ちた常夜燈と男女双体の道祖神がありました。
14時18分、常夜燈(燈部なし)と男女双体道祖神(右側)
118 秋葉山石塔・男女双体道祖神
さらに約180m歩くと、右側に同じように燈部がない常夜燈と2基の男女双体道祖神が建っていました。
14時21分、常夜燈(燈部なし)と2基の男女双体道祖神(右側)
119 秋葉山石塔・男女双体道祖神
燈部のない常夜燈と2基の道祖神から約230m歩くと、市内循環バスの岩窪観音前バス停があり、その付近に石仏石塔群がありました。
14時23分、石仏石塔群(右側)
120 石仏群
岩窪観音前バス停から約240m歩くと分岐・合流し、右折して進みます。
14時27分、分岐・合流(右折)
121 分岐(合流)
分岐・合流して約80m歩くと、右側に細武温泉共同浴場がありました。
今日は定期清掃日でお休みでしたが、私もYumiさんの母親の実家に行った時は、温泉の共同浴場に行っていたので、場所は違いますが懐かしく思い出されました。
14時28分、細武温泉共同浴場(右側)
122 細武温泉共同浴場
温泉浴場から約100m歩くと、右側に武津公民館があり、公民館の入口脇に祝言道祖神が祀られていました。
123 秋葉山石塔・祝言道祖神
14時30分、祝言道祖神(右側)
123-1
武津公民館前から約400m歩くと、R20に分岐・合流するため、その前に水分補給して「もうひと踏ん張り」と気持ちを引き締めて再出発しました。
14時38分、分岐・合流(右折)
124 分岐(合流)
R20を約190m歩くと古道があるというので、横断歩道で街道の右側から左側に渡り、ガードフェンスの間から階段を降りました。
14時40分、古道入口(左側)
125 古道(入口)
  ※古道①
125-1 入口
  ※古道②
126 古道
古道は約140mという短いのですが、何処を歩いても往時の道を想像させてくれます。
そして、古道の終点は清水1・2丁目交差点です。
14時42分、清水1・2丁目交差点
127 分岐(合流)
交差点を左側から右側に渡った約10m先に高島城の殿様や明治天皇が飲まれた(御膳水)大清水があり、立ち寄りました。
14時43分、大清水(右側)
128 大清水
大清水から交差点に戻り、約90m歩くと左側にかねさ呉服店がありました。
14時45分、かねさ呉服店(左側)
129 呉服・かねさ
かねさ呉服店の道路挟んで真向いに江戸期に創業した染一染物店があり、歴史を感じさせる看板が掲げられていました。
14時45分、染一染物店(右側)
130 染一染物店
かねさ呉服店から約120m歩くと、日本橋から199㎞の距離標が建っていました。
14時47分。199㎞距離標
131 199㎞距離標
距離標から約120m歩くと元町交差点があり、左側に清酒真澄で全国的に有名な宮坂醸造がありました。
14時49分、宮坂醸造(左側)
132 宮坂酒造
また、元町交差点は変則四差路になっており、旧甲州街道と斜め右方向に行く道の分岐点に、十王堂跡碑が建っていました。
14時51分、十王堂跡(右側)
133 十王堂跡
十王堂跡碑のある元町交差点を歩道左側に渡り約60m歩くと、角間川に架かる角間橋を渡ります。
14時53分、角間橋
135 角間橋
角間橋から約170m歩くと、左側に日本画家の伊東深水の絵が保存されている伊東近代美術館がありました。
14時56分、伊東近代美術館(左側)
136 伊東近代美術館
伊東深水は俳優の津川雅彦の妻で、女優・タレント・歌手の朝丘雪路の実父です。
美術館は当初ここから約3.6㎞先の下諏訪の高木というところにあり、現在は下諏訪町立諏訪湖博物館(島木)赤彦記念館になっています。
伊東近代美術館から道路を隔てた隣りに、伊東酒造がありました。
14時56分、伊東酒造(左側)
137 伊東酒造
酒造の主要製品である清酒「横笛」は、平家物語の登場人物である建礼門院の雑仕女・横笛の悲恋物語からきているそうです。
そして、伊東酒造の道路真向いに、3つ目の酒蔵である酒ぬのや本金酒造がありました。
14時57分、本金酒造(右側)
138 本金酒造
本金酒造は製造量100石のごく少量に魂を吹き込んでおり、「本当の一番(金)の酒を醸す」「(左右対称で)裏表のない商売」を追及している店で、本金やからくち太一の銘柄で販売されている。
日本酒党の方は、一度は吟味してほしいお酒と思います。
本金酒造を過ぎると鍵之手交差点があり、ここが桝形道の跡です。
14時58分、旧桝形道(鍵之手交差点) 
139 旧桝形道
鍵之手交差点を真っ直ぐに渡って約30m歩くと、右側に連子格子の建物に麗人ののれんが掛かっている麗人酒造があり立ち寄りました。
14時59分、麗人酒造(右側)
140 麗人酒造
店内に入り試飲ができるというので、純米吟醸原酒と大吟醸原酒の2種を試飲させて頂きました。
2種とも冷蔵されていたということもありますが、冷たく咽喉にピリッとする辛口の酒で、このまま座って飲みたくなりました。
家では日本酒を飲むことがないので、いつも酒造の前は通り過ぎていましたが、今度通る時は立ち寄って買い求めたいと思います。
  ※麗人酒造の店内
140-1 店内
麗人酒造から約60m歩くと、扇屋呉服店の先隣りに白い蔵構えの今日5つ目の酒蔵である舞姫(旧舞姫酒造)がありました。
15時04分、酒蔵・舞姫(右側)
141 舞姫酒造
さあ、今日の旅もあと3つの交差点終りです。
舞姫から諏訪2丁目交差点、諏訪1・2丁目交差点を通り過ぎ、約400m歩くと今日の到着地である「諏訪1丁目」交差点に到着しました。
15時10分、諏訪1丁目交差点(到着地)
142 諏訪一丁目交差点(到着)
交差点の角で恒例の到着式を行い、第14回目の旅を終えました。
旧甲州道中の最後の旅となる明日は、諏訪1丁目交差点を右折するところから始まります。
さて、旅を終えた後、到着地の交差点を真向い(旧まるまつ百貨店で現在再開発中)に渡った処に虫湯跡があるというので、史蹟に立ち寄って記録に残しました。
15時12分、虫湯跡(左側)
143 虫湯跡碑
【移動】
諏訪一丁目交差点から宿泊予約している「民宿すわ湖」に行くため、交差点からJR踏切に向かって約30m歩くと、左側に明治天皇行在所址碑と柳口御役所跡がありました。
15時14分、明治天皇行在所跡(左側)
144 明治天皇行在所跡
  ※高島城柳口御役所跡(左側)
145 高島城柳口御役所跡
今日は諏訪一丁目交差点で旅を終え、宿泊場所に向かう途中で史跡の横を通ったので分かりましたが、そのまま交差点を右折して旧街道を歩いていたら史蹟のある場所を見つけられず、記録に残すことはできなかったと思うと幸運でした。
上諏訪駅手前の踏切を渡ると右側の公園でバンド演奏されており、それを横目で見ながら通り過ぎ、宿泊予約している民宿すわ湖に着きました。
【宿泊】
15時24分、民宿すわ湖着
146 民宿すわ湖
宿に到着し、中に入ると直ぐにご主人が出てこられ迎え入れられました。
ご主人から、食事の時間、場所、部屋に案内される途中で入浴場所を教えられながら部屋に入りました。
部屋は5人用のようで、布団が3組押入れに残っており、広々としておりゆっくり休めそうです。
直ぐに汗を流そうと露天風呂に行くと、温泉の成分表が掲げられていて初めて風呂が温泉ということが分かりました。
諏訪地方は温泉が出ており、温泉浴場が沢山あることを忘れていました。
露天風呂にゆっくりと浸り、今日の汗を流し、さっぱりと気分転換することができました。
《夕食》
部屋にもどりザックの荷造りや明日の支度を整え、夕食の18時30分頃まで横になりながらTVを見て過ごしました。
147 夕食会場
18時30分、夕食

2階の食堂に行くと、各部屋ごとに食事の準備がされていました。
 これは最初の配膳で、この後天ぷら、茶碗蒸しなどが配膳されました。
147 夕食
そして、ここで初めて今日の宿泊状況が分かったのですが、日曜日というのに8~9人が宿泊するので、「結構利用者がいるんだ」と認識させられました。
名前は民宿となっていますが、普通の旅館と同じですが、御柱祭りが終わった直後の日曜日の宿泊のため我々くらいかなと思っていたので、ご主人には申し訳ございませんが、想定以上の人が泊まるので驚きました。
瓶ビールを注文しMさんと乾杯となりましたが、ほとんど飲めないMさんはコップに少し注いで乾杯しました。
配膳された料理は豪華さは有りませんが、値段以上に感じるもてなしで、私は1本では足りず2本目を注文し咽喉を潤すとともに、旅の疲れを癒しました。
20時30分頃までのんびりと食事を摂り、Mさんと歓談の時間を楽しみ部屋に戻りました。
明日は雨模様のため、朝7時に朝食を食べ、昼前には雨が止むとの予報から少しでも遅くに出発しようと、10時前に旅館を出発することになりました。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 晴れ
【宿場】 (33)台ケ原宿⇒(34)教来石宿⇒(35)蔦木宿
【行程】 歩行距離=19.27㎞ 総距離=189.00㎞
台ケ原・つるや旅館前⇒(4.17㎞)⇒松山沢川橋⇒(4.14㎞)⇒国界橋電撃ネット⇒(4.01㎞)⇒国道机交差点⇒(3.53㎞)⇒旧三菱マテリアル建材T字路⇒(3.42㎞)⇒神戸八幡交差点
【ルート図】
宿場(黒囲みが第13回旅の宿場)

第13回宿場
旧甲州道中の旅・進捗状況
(黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第13回全体ルート
第13回の旅ルート
(台ケ原・つるや旅館前 ⇒ すずらんの里・神戸八幡交差点
第13回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
05時30分、起床
直ぐに布団を出て部屋の外にある洗面所で髭剃り、洗面、部屋に戻って着替えを行い、旅支度を整えました。
旅支度といっても替えたのは、インナー靴下とパンツのみで、他は昨日と同じものを着ました。
6時過ぎに日の出があるというので旅館の屋上に出ると、素晴らしい風景が目に飛び込んできました。
富士山は見えませんが、南アルプスの甲斐駒ケ岳、鳳凰三山などの山並み、反対方向には七里岩、八ヶ岳連峰、正面には日の出と、素晴らしい景観です。
  ※右の高い山=甲斐駒ケ岳、左=鳳凰三山
001 南アルプスの山並み
  ※日の出
002 日の出
食前のひと時を屋上からの景観を見て過ごし、出発する支度を整えて朝食に行くと、十分すぎる食材が配膳されており、久し振りに茶碗に山盛りされたご飯を食べエネルギーを蓄えました。
  ※朝食の配膳
003 朝食
朝食後、フロントで精算し、女将さんに二人並んだ写真を撮って頂き、宿泊の御礼を云って出発しました。
【=旅=】
07時37分、つるや旅館前(出発地)

004 つるや旅館前(出発地)
持参した出発式及び到着式に使うパネルの日付は、変更する前のままでした。
すっきりと晴れあがった青空と朝の清々しい空気を吸って旅がスタートしました。
旅館から真っ直ぐに約250m歩くと右側に火の見やぐらがあり、やぐらの足元に文化九年(1812)に建立された秋葉山石塔が祀られていました。
  ※分岐(右折)
005 分岐(右折)
07時41分、秋葉山石塔(右側)
006 秋葉常夜燈
分岐を右折して約150m歩くと左側に、長屋門となまこ壁の旧家がありました。
07時44分、長屋門となまこ壁の旧家(左側)
007 長屋門となまこ壁の蔵
旧家から約100m歩くと、右側に蚕の飼育所だった建物が残っていました。
07時46分、元白州町第一稚蚕共同飼育所(右側)
008 元稚蚕飼育所
飼育所を過ぎると正面に七里岩が眺められる下り坂となり、約90m先の右側に石祠の中に男女双体の道祖神祀られ、左側に題目碑が建っていました。
07時52分、男女双体の道祖神(左下)・題目碑(右側)=右側
010 道祖神と題目碑
題目碑と道祖神の祠から約500m歩くと、右側の土手に山菜の「わらび」が群生していました。
  ※わらびの群生(右側)
011 わらび
わらびの群生があるところから約40m歩くと、右側のブドウ畑の中に武田神社と記されたコンクリート造りの鳥居が建っており、鳥居の奥にある石垣の上に祠が数基祀られていました。
神社の社殿はなく、祠が神社としたら東海道を含めて初めて見るブドウ畑の中にある神社殿のない、祠が社として祀っている神社です。
07時58分、武田神社(右側)
012 武田神社
武田神社からだらだらとした緩い上り坂を約450m歩くと、竹花スポーツ広場があり桜が満開で、歩き始めて1時間くらい経つので休憩も含めて立ち寄りました。
08時05分~08時10分、休憩(竹花スポーツ広場)=右側
013 竹花スポーツ公園
休憩で水分補給や衣服調整(ジャケットを脱ぎ、帽子をバンダナに変更)し、公園の奥に建っている碑を記録に残しました。
  ※白須松林址碑(右)・宇良親王歌碑(左)
014 白須松林跡(右)・宇良親王歌碑
白須松原址は、平安時代から1里にわたって松原が続き「白須松原」と呼ばれていたが、戦時中に松根油を採取するため伐採されてしまいました。
また、宗良親王歌碑には「かりそめの 行きかいじとは ききしかど いざや志らすに まつ人もなし」で、南朝方の征討将軍宗良親王が甲斐の援軍を求めてここまで来たが、味方になる者はいなかったそうです。
竹花スポーツ公園でひと息入れて出発し約600m歩くと(R20で前沢交差点の先の山形屋重工が真横にある付近)、右の木立の中に石仏石塔群がありました。
08時21分、石仏石塔群(右側)
015 石仏・石塔群
この中には天保十年(1839)建立の馬頭観音、安政2年(1855)建立の馬頭観世音や新しい題目碑がある。
石仏石塔群のところから約220m歩くと、前沢上交差点があり、交差点の手前を左側に少し入ったところに御嶽神社の鳥居が建っていました。
08時23分、御嶽神社・鳥居(左側)
016 御嶽神社鳥居
前沢上交差点でR20に合流し、右折して約60m進むと神宮川に架かる濁川橋があり、橋の欄干から左側を眺めると、冠雪の甲斐駒ケ岳、神宮川沿いに咲く桜にしばらく見入りました。
08時25分、濁川橋からの眺め
017 濁川橋(甲斐駒ケ岳)
濁川橋を渡り約150m歩くと、右側に旧サントリーの製樽工場があり、部材が整理されて置かれていました。
  ※旧サントリー製樽工場(右側)
018 元サントリー製樽工場
製樽工場を過ぎる辺りにある右に入る道から約160m歩くと、Y字路の分岐がありR20から分岐します。
08時31分、Y字路分岐(右側)
019 分岐(右)
Y字路から約90m歩くと、左側に赤松の並木があり、白州松並木と東海道に引き続いて命名しました。
  ※白州松並木(私の勝手な命名)=左側
020 白州松並木
松並木から約60m歩くと、右側に白州総合運動場があり、運動場の奥に七里岩、さらに八ヶ岳(赤岳)が澄み切った青空とともに眺めることができました。
  ※七里岩・八ヶ岳の眺め(白州総合運動場)=右側
021 七里岩・八ヶ岳
白州総合運動場を過ぎ約450m先の十字路の左角に石尊神社の南参道口の常夜燈、真向いの右角に般若堂が建っていました。
08時42分、石尊・常夜燈(左側)
022 石尊・常夜塔
  ※般若堂(右側)
023 般若堂
般若堂の先あたりが鳥原一里塚があったところではないかというので、現況の記録を残しました。
  ※鳥原一里塚跡付近
024 島原一里塚付近
一里塚は鳥原村地内に片塚で、塚木はなかったそうである。
般若堂から約170m歩くと、左にR20に繋がっている道があり石尊神社の鳥居が建っており、信号を越えたところにサントリー白州工場がありました。
08時48分、石尊神社・鳥居(左側)
025 石尊神社鳥居
石尊神社はここから西に2㎞の処に鎮座しており、武田家や徳川幕府の崇敬が篤かった神社で、鳥居は参道中央口である。
鳥居が建っている道から約230m歩くと、左側に石物と常夜燈がありました。
08時51分、石仏・常夜燈(左側)
026 常夜塔・石仏
石仏・常夜燈から約60m歩くと松山沢川に架かる松山沢川橋がありました。
  ※松山沢川橋 
027 松山沢川橋
松山沢川橋を渡って約30m歩くと左側に白壁の民家があり、民家を過ぎる左側に石祠が二社あり、その内の一社に男女対の道祖神が祀られているようです。
08時55分、男女対の道祖神(左側)
028 道祖神(男女対)
道祖神から約190m歩くと、R20荒田交差点に繋がっている十字路があり、真っ直ぐに直進します。
08時58分、分岐(十字路)=直進
029 分岐(直進)
分岐(十字路)を直進すると、左側に田舎くらし情報館のリサイクルショップアクセルがありました。
09時00分、リサイクルショップ・アクセル(左側)
030 リサイクルショップ
リサイクルショップの辺りから緩い上り坂となり約160m歩くと流川橋が架かっており、橋を渡った先から教来石宿に入るとともに、満開の桜が出迎えて下さいました。
09時02分、流川橋
031 流川橋
流川橋は江戸時代は板橋で、ここが教来石宿の江戸口(東口)で、桝形があったうです。
流川橋を渡り約150m進むと、左側に「ばばびようしつ」があり入口左側にカエルの石像が置かれていました。
09時05分、カエルの石像(左側)
032 かえる像
ばばびようしつから約110m歩くと、右側に大きな旧家があり、記録に残しました。
  ※旧家(右側)
033 旧家
旧家から約40m進むと下教来石交差点となり、交差点を渡って右折しました。
09時07分、下教来石交差点(右折)
034 下教来石交差点(右折)
甲州道中は右折して直進するのですが、近くに教来石があるというので、交差点から約40m先の来福寺に通じる道を左折しました。
  ※分岐(左折)
035 分岐(左折)
左折して約30m歩くと右側に石仏が祀られた石がありましたが、これは教来石ではないようです。
  ※石仏が祀られた石(右側)
036 教来石(1)
石仏が祀られた石から約190m道なりに歩くと、右側に馬頭観音4基と男女双体道祖神1基が祀られている大きな石(教来石-Ⅰ)が教来石だそうです。
しかし、別の資料ではこの石ではなく、この石の先にあるくじらの頭のような大きな石(教来石-Ⅱ)が教来石と云っているので、どちらが正しいのか私には分かりません。
教来石の由来は、「日本武尊が酒折を経て来て休んだ石」なので、座るためには平らなことが必須と考えると教来石-Ⅰが正解のように思います。
当初は経来石であったが、後に「経」の字が「教」と誤記され、教来石となりこれが地名となったそうです。
  ※教来石-Ⅰ(右側)
037 教来石(2)
さらに約20m先の土手を登った畑の中に一番大きな石があり、これが教来石だという人もいます。
09時12分、教来石-Ⅱ(右側)
038 教来石(3)
  ※二つの教来石(右側)
039 左=3・右=2
教来石を確認して道中に戻り約30m歩くと、左側に教来石宿河西本陣跡があり、明治13年の巡幸で明治天皇が本陣で小休止をとったそうで、明治天皇御小休所址に碑が建っていました。
09時21分、河西本陣跡(左側)
040 明治天皇御小休所址
河西本陣跡から約140m歩くと、左側角に交番、右側角に鳳来郵便局があり、分岐を右折しました。
09時23分、分岐(十字路・鳳来郵便局)=右折
041 分岐(右折)
分岐十字路を右折して約250m歩くと、左側に諏訪神社があり休憩を兼ねて本殿の彫刻が素晴らしいと云うので立ち寄りました。
09時26分~09時30分、休憩(諏訪神社)=左側
042 諏訪神社
本殿に参拝し、お賽銭をご奉納してYumiさんの病気平癒と旅の安全をご祈願しました。
また、本殿の彫刻が素晴らしいというので見ましたが、網に囲われていたりして良く見れませんでした。
神社の境内でひと休みして約40m進むと、左側に明治天皇が明治13年(1880)の巡幸の時、ここで眼下の田植えをご覧になったという場所があり、址碑が建っていました。
09時31分、明治天皇御田植御通覧之址碑(左側)
043 明治天皇田植通覧址
  ※明治天皇がご覧になった田圃(右側)
044田んぼ
田圃をご覧になった址碑から約400m歩くと、加久保沢に架かった加久保沢橋があり、橋を渡った辺りが下教来石と上教来石の境になっています。
09時38分、加久保沢橋
045 加久保沢橋
加久保沢橋を渡って約270m歩くと右側に蟹沢工務店があり、その真向いに明治天皇がご巡幸の時、細入沢の水を飲まれた御膳水跡に碑が建っていました。
09時42分、御膳水跡(左側)
046 御膳水跡(細入沢)
細入沢は現在は水は流れておらず、何とも残念です。
御膳水跡から約270m歩くと、R20に合流し右折します。
09時47分、分岐(R20に合流)=右折
047 分岐(合流)
分岐・合流の左側に上教来石標識が建っていました。
  ※上教来石標識
047-1 上教来石標識
分岐・合流したR20を約50m歩くと、左側に石仏石塔が群れをなして建っていました。
  ※石仏石塔群(左側)
048 石塔・石仏群
道中は石仏石塔群を過ぎたところでY字路を右に進みます。
09時48分、分岐(Y字路)=右側
049 分岐(右)
分岐・Y字路から約450m歩くと、左側になまこ壁と軒先の長い家が建っていましので、記録に残しました。
09時55分、なまこ壁・軒先の長い家(左側)
050 なまこ壁の旧家
旧家から約160m歩くと大目沢に架かる大目沢橋があり、橋を渡ったところから約120m歩くと右側に山口関所跡、左側に西番所跡があり、それぞれ跡碑が建っていました。
10時01分、山口関所跡(右側)
051 山口の関所跡
山口関所は、武田信玄が設けた甲州24ケ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の関所である。
 ※西番所跡(左側)
052 西番所跡
西番所は、徳川幕府が設置した番所で、女改めの取り締まりが厳しかったところで、番所蔵を残している。
また、日本橋から45番目の一里塚である「山口一里塚」はこの辺りにあったとされていますが、史蹟は何も残っていません。
 ※045 山口一里塚跡(この付近)
053 山口一里塚付近
山口関所跡から約700m歩くと、R20に突き当ります。
ここはR20に架かる新国界橋の手前で、道中はR20を横切って直進します。
分岐(R20新国界橋手前)=直進(横切り)
054 分岐(横断)
R20を横切って右側の飼料置き場を見ながら歩を進めると、砂利道から草道となり、約400m歩くと釜無川に架かる国界橋があり、渡ったところに有害鳥獣侵入防止電撃ネットが設置されています。
通れるようになっていますが、万一のことを考えて通るのが嫌な方は、R20の新国界橋を渡って迂回して下さい。
 ※飼料置き場の脇を歩く
055 分岐(直進)
 ※草道を進む
056 旧街道
国界橋を渡ると正面に有害鳥獣侵入防止の電撃ネットが張られており、注意書きのとおり電気の通っていないところを持って網を開けて通りました。
10時17分、国界橋電撃ネット
057 電撃ネット・国界橋
 ※通過する時の注意書き
057-1 説明 
私も蓼科の山荘で庭の樹木が多大な被害にあっているので、鳥獣類の侵入防止は致し方ないと思っています。
昔は動物間に天敵が生活圏の中にいたので、頭数が維持されていたのですが、天敵(鹿の場合はオオカミ)がいなくなったため、自然界のバランスが崩れて頭数が増えたことから餌不足となり山の中から里に下りてきているのです。
情緒面だけでは済まされない状態になっており、人間にも、動物にも不幸なことです。
 ※電撃ネットから国界橋方向の情景
057-2 電撃ネット
さて、電撃ネットを通り過ぎ約70m歩くと下蔦木交差点となり、R20と合流して左折します。
10時20分、下蔦木交差点(左折)
058 下蔦木交差点(左折)
下蔦木交差点を渡って左に約90m歩くと、Y字路分岐となり右の堂坂を上ります。
10時22分、分岐(下蔦木・堂坂)=右側
059 分岐(右)
堂坂を約40m上って右にカーブする左側に三ツ辻由来記が記された標識が建っていました。
10時23分、三ツ辻由来記(左側)
060 三つ辻由来碑
三ツ辻由来記の斜め向い側(右側)に千見寺家住居跡地があり、碑が建っていました。
※千見寺家住居跡地(右側)
061 千見寺家住居跡
住居跡地の隣りに敬冠院があり、境内に日蓮上人が座ったという高座石がありました。
10時25分、日蓮上人高座石(敬冠院)=右側
062 日蓮上人高座石
また、境内には樹齢200年というサルスベリの木が植生されていました。
 ※サルスベリ(敬冠院・境内)
063 サルスベリ
敬冠院を出て、少し戻りますが進行右側に石仏石塔群がありました。
 ※石仏石塔群(右側)
064 石塔・石仏群
堂坂は三ツ辻由来記を過ぎるときつい上りとなり、敬冠院を出ると直ぐの左側に小池牧場がありました。
 ※小池牧場(左側)
065 小池牧場
近くの方に聞くと、現在も牛が飼われているとのことでしたが、牛舎の中は見れませんでした。
小池牧場から約30m歩くと右側に追分道標の看板があり、武川筋と逸見筋の合流点と記されていました。
10時29分、追分道標(武川筋と逸見筋の合流点)=右側
066 追分道標(武川筋と逸見筋)
道標から約70m上った左側に下蔦木集落センターがあり、その前に標高標(731m)が建っていました。
10時31分、標高標(731m)=左側
067 標高(731m)柱
堂坂は集落センターから緩い上りを約90m歩くと、Y字路分岐となり左側に進みます。
 ※分岐(Y字路)=左側
068 分岐(左)
10時33分、真福寺・山門(右側)
069 真福寺・山門
真福寺入口から約120m歩くと、Y字路分岐があり左側に進みました。
 ※分岐(左側)
070 分岐(左)
さらに約80m歩くと、右に行く道がありましたが、左に真っ直ぐに進みました。
 ※分岐(左に真っ直ぐ)
071 分岐(左)
左真っ直ぐの分岐から約140m歩くとT字路になりますが、その手前の右側に北朝時代の応安の古碑がありました。
10時37分、応安の古碑(右側)
072 応安の古碑
道中はT字路を右に進みます。
 ※分岐(T字路)=右折
073 分岐(合流)
T字路を右折して約300m歩くと、左側に屋根に石が置かれた蔦木宿の標識が建っていました。
10時42分、蔦木宿標識(左側)
074 蔦木宿碑
蔦木宿標識から橋を渡って直ぐの左側に、道祖神が祀られた常夜燈、六角灯篭、庚申塔などがまとまってありました。
09時43分、常夜燈、六角灯篭、石の祠(左側)
075 常夜燈・道祖神
 ※六角灯篭・石の祠
076 六角燈籠
道中は約100m先の十字路を左折し、R20を右折する桝形道で進みます。
10時46分、桝形道
077 桝形(南)
 ※桝形道・解説
077-1 解説
合流したR20を約40m歩くと、蔦木簡易郵便局があり軒下に諏訪上社御柱祭りで御柱の頭につけるメドデコが飾られていました。
10時47分、諏訪上社御柱祭のメドデコ(左側)
078 軒下のメドデコ
また、蔦木宿があった家並みには旧屋号が掲げられていました。
 ※旧屋号=えびす屋
079 旧屋号
 ※旧屋号=常盤屋
080 常盤屋
上蔦木交差点の少し先に信濃境駅(県道195号を2.7㎞右に行った先)に行く標識が掲げられていました。
 ※信濃境駅入口標識
081 JR信濃境駅入口標識
信濃境駅入口の標識の直ぐ脇に蔦木宿大阪屋本陣の門が現存されていました。
10時50分、蔦木宿大阪屋本陣跡(右側)
082 大坂屋本陣跡
本陣の門の横に明治天皇御駐輦跡があり、碑が建てられていました。
 ※明治天皇御駐輦跡(右側)
083 明治天皇駐輦跡
本陣の門の裏に与謝野晶子の句碑が建っていました。
 ※与謝野晶子句碑(右側)
084 与謝野晶子歌碑
本陣跡から約40m(上蔦木集落センターの先)歩くと、蔦木宿絵図が建てられていました。
10時53分、蔦木宿絵図(右側)
086 蔦木宿案内図
絵図から約100m歩くと、右側にJA信州諏訪蔦木があり、その手前に七里岩から湧き出ている水を明治天皇が飲まれた御膳水がありました。
10時55分、御膳水(右側)
087 御膳水跡
御膳水の後ろに、与謝野晶子の句碑が建っていました。
088 与謝野晶子歌碑・解説
御膳水から約150m歩くと左側に旧屋号の扇屋(現=窪田家)があり、隣りに北の桝形道の入口がありました。
 ※旧屋号=扇屋(左側)
089 旧扇屋
10時59分、北の桝形道(左側)
090 桝形(北)
桝形道に入って約10m歩くと、右側に桝形道址碑が建っていました。
10時59分、桝形道址(右側)
091 桝形道碑
桝形道址碑から約80m歩くと、右側に廿三夜碑などの石塔群がありました。
11時01分、石塔群(右側)
092 石塔・石仏群
石塔群から約40m歩くと、右側に道祖神が祀られていました。
11時02分、道祖神(右側)
093 道祖神
道祖神から約30m先の右側に、水害から守るために植えられた木について記された解説パネルが建てられていました。
 ※川除古木(右側)=民家先の右側に解説パネル
094 川除古木
道中は、川除古木碑からR20に出ないで、約30m先の細道に左折します。
11時04分、分岐(川除古木)=左折
095 分岐(左折)
道中は畑の中のような道を進みます。
096 旧街道
砂利道を約190m歩くとR20に合流し、左前方に進みます。
11時07分、分岐(R20合流)=左前方
097 分岐(合流)
R20を約20m歩くと日本橋から175㎞の距離標が建っていました。
11時07分、175㎞距離標(左側)
098 175㎞距離標
距離標から約280m歩くと、岩田屋建材店が左側にあり店舗に沿ってR20から左の砂利道に進みます。
11時11分、分岐(岩田屋建材店)=左側
099 分岐(左)
真っ直ぐ進むと骨材加工工場の中に入って行く感じですが、そのまま真っ直ぐに進みます。
 ※骨材加工工場を真っ直ぐに進む①
100 岩田屋建材
 骨材加工工場を真っ直ぐに進む②
101 旧街道
R20から分岐して釜無川沿いに真っ直ぐに約400m歩き、岩田屋骨材加工工場を過ぎると今日2度目の電撃ネットに遭遇しました。
ここのネットは取扱いが記されていないため、気を付けて棒の部分を持ってネットを外し、通過してから慎重に元の状態に戻しました。
11時19分、電撃ネットⅡ
102 電撃ネット(石材工場終点)
 ※通り過ぎた側の情景
102-1 電撃ネット
電撃ネットⅡから約230m歩くと、R20に合流する手前の右側に道祖神や庚申塔などが建っていました。
11時22分、道祖神・庚申塔(右側)
104 道祖神・庚申塔
石塔群の先で道中はR20に合流し、左折して進みました。
11時23分、分岐(左折)
103 分岐(合流)
分岐を左に約150m歩くと、「ドライブイン赤石」があり、昼食を食べに立ち寄りました。
11時24分~12時00分、昼食(ドライブイン赤石)=右側
105 ドライブイン赤石
店に入り椅子に腰掛けると思わず「ふー」と溜め息が洩れ、午前中の旅を終えました。
昼食は野菜いため定食(920円)を注文し、今日はまだ先があるので、生ビールは我慢しました。
 ※店内(テレビは諏訪御柱祭り・下社木落としを生中継中)
106 ドライブイン内部
諏訪の御柱祭りは見に行きたかったのですが、有料観覧席も娘の家族の協力を頂いて長野県民枠(茅野市の住民税を納付している)で5枚応募したのですが、全て外れてしまい見に行けませんでした。
※有料観覧席の抽選は第二回目もあったようですが、知りませんでした。
また、有料観覧券のない人は現地での見学ができないため、今年の下社の木落としは見ることができませんでした。
 ※下社木落とし(秋宮二)=VTR
106-4 秋宮2の木落とし
TV(地域のケーブルテレビ)を見ながら食事をし、ひと息ついて出発しました。
歩道が右側にしかないため、地図に書き込んだ場所を通り過ぎないように注意して約280m歩くと、左側に火の見やぐらがあり、この場所で道路の左側に横断しました。
そして、約20m歩くと左下に下る道があり、下った左側の木の根元に日本橋から46番目の一里塚があり、石碑が建っていました。
12時05分、046 平岡一里塚跡(左側)
107 平岡一里塚跡
  ※平岡一里塚碑
107-1 平岡一里塚跡碑
一里塚碑から約140m歩くと、R20から分岐して右側に上る道を進みます。
12時08分、分岐(右側)
108 分岐(右)
坂を上る途中、左前方に明治天皇が野点を行った場所に、桜の木と石碑があるのが見えたのですが、遠くから眺めただけで通り過ぎました。
12時09分、明治天皇野点跡(左側)
109 明治天皇野立跡
R20から分岐して約200m坂を上ると、左側に火の見やぐらがありその脇に石塔群があり、左に分岐して下ります。
 ※分岐(左側) 
110 分岐(左)
12時13分、石塔群(左側)
111 道祖神・石塔群
石塔群を過ぎると下り坂から緩い上り坂となり、約200m歩くと母沢川を渡ります。
112 分岐(合流)
さらに約300m坂を上ると、右側にダイヤ酒店がありました。
12時20分、ダイヤ酒店(右側)
113 登り坂
ダイヤ酒店から約160mさらに上ると、左側に机集落センターがありました。
12時23分、机集落センター(左側)
114 机集落センター
机集落センターから約140m歩くと、左側に平成24年3月31日に廃校となった旧富士見町立落合小学校があり、門柱と校庭だけ記録に残しました。
12時25分、旧富士見町立落合小学校(左側)
115 旧落合小学校
旧落合小学校の真向いに、大きな敷地の屋敷(中山家)があり記録に残しました。
 ※中山家(右側)
116 旧家(中山宅)
中山家から約70m下り坂を歩くと矢の沢に架かる矢の沢二号橋がありました。
117 矢の沢
道は橋を渡った先まで下り、緩い上り坂、緩い下り坂とアップダウンが続き、約400m歩くと左側に
石仏石塔群がありました。
12時34分、石仏石塔群(左側)
118 石碑群
石仏石塔群から約30歩くと瀬沢大橋交差点でR20と合流し、右折しました。
12時35分、瀬沢大橋交差点(右折)
119 分岐(合流)
交差点から約60m歩くと瀬沢大橋があり、左側だけの歩道を使って渡りました。
 ※瀬沢大橋
120 瀬沢大橋
瀬沢大橋を渡り終ったところで分岐を左折します。
12時36分、分岐(瀬沢大橋)=左折
121 分岐(左折)
瀬沢大橋を左折した右曲りの上り坂を歩いてくると、T字路となり右折します。
12時38分、分岐(T字路)=右折
122 分岐(右折)
T字路を右折してさらに坂を約50m上ると、右側に松田屋商店があり、昔懐かしい看板を見ることができました。
 ※松田屋商店(右側
123 松田屋商店の看板
松田屋商店を過ぎ、約150m歩くと右側に火の見やぐらがあり、その斜め向かいにある瀬沢郵便局の隣りに紅ガラ塗りの旧家がありました。
12時41分、紅ガラ塗りの旧家(左側)
124 紅がら塗りの旧家
紅ガラ塗りの家から2軒目の軒下にメドデコが飾られていました。
蔦木宿の郵便局に続いて2ケ所目ですが、諏訪の御柱祭りは地域の大きなお祭りであることが伺えます。
12時42分、軒下のメドデコ(左側)
125 軒下にメドデコ
軒下にメドデコが飾られている家の隣りに諏方宮が祀られていました。
12時43分、諏方宮・参道(左側)
126 諏方宮・参道
諏方宮の隣りに吉見屋商店があり、店の先で道が分岐し、分岐の左側に道標があり左に進みます。
12時45分、分岐(吉見屋商店)=左側
127 分岐(左)
 ※道標(右側)
128 道標
分岐から約50m上り坂を歩くと変則十字路があり、十字路の左側に道標や石塔群がありました。
12時46分、道標、石塔群(左側)
129 道標・石塔群
道標・石塔群から270mを、上り坂、緩い下り坂、橋を渡ってきつい上り坂を歩くと甲子塔、廿三夜塔、馬頭観音などの石塔群がありました。
12時51分、石塔群(左側)
130 石塔群
さらに約90m、きつい坂を上ると左側に石塔群がありました。
 ※石塔群(左側)
131 石塔・石仏群
右側にしらかば園を見ながら坂を上った道は、しらかば園の先で坂を下り、沢を渡ったところできつい上り返し、そして緩い上り坂になったところの右側に銀色の屋根の家がありました。
この間の約500mは、アップダウンの連続で、体力的にもきついところでした。
13時02分、銀色の屋根(右側)
132 銀色の屋根
銀色の屋根の家から約180m歩くと、十字路の分岐があり、真っ直ぐに直進しました。
13時04分、分岐(十字路)=直進
133 分岐(直進)
分岐十字路を過ぎるときつい上り坂となり約300m歩くと、右側に尾片瀬神社があり水分補給とカロリー補給で休憩となりました。
13時08分~13時13分、休憩(尾片瀬神社)=右側
134 尾片瀬神社・鳥居
 ※尾片瀬神社・本殿
135 尾片瀬神社・本殿
休憩を取って体力の回復を図りましたが、上り坂は続いており、今までのアップダウンときつい上りの連続などで足の負担のかかる旅になりました。
尾片瀬神社を出発すると、神社の先隣りに祠を含む石塔群がありました。
13時15分、石塔群(右側)
136 石塔群
石塔から約250m歩くと右側に寛政年間(約200年前)に高島藩が植樹したとちのき防風林が残っていました。
13時19分、とちのき防風林(右側)
137 とちの木の風除林
 ※道祖神(とちのき防風林内)=右側
138 石像群
風除林解説から約200m歩くと、右側に日本橋から47番目の一里塚があり、石碑が建っていました。
13時24分、047 重修一里塚跡(右側)
139 重修一里塚跡
重修一里塚の先隣りに甲州街道の道案内と道祖神がありました。
 ※道祖神(右側)
140 道祖神碑・街道標識
道祖神から約20m先に標高950mの標識が建っていました。
13時25分、標高950m標識(右側)
141 標高(950m)標識
標高標識から約100m歩くと、旧三菱マテリアル建材(現中部電力ソーラー発電所)のT字路に突き当り左折しました。
13時27分、分岐(中部電力ソーラー発電所)=左折
142 分岐(左折)
突き当たったT字路の先は三菱マテリアル建材とばかり思っていたのが、ソーラー発電所に変わっていたので、目をパチパチして再確認しました。
道中はソーラー発電所に沿って進むため、T字路から約120m先をフェンスに沿って右折します。
 ※分岐(ソーラー発電所)=右折
144 分岐(右折)
道はずーとだらだらとした上りとなっており、右折してから約550m歩いたところまで続きました。
ソーラー発電所も上りが終わる付近まで続いていました。
 ※ソーラー発電所に沿って進む
145 旧街道
上りが終わったところには標高標識が建っていなかったので正確には分かりませんが、960~970mくらいではないかと思います。
上り終ると今度はだらだらとした下りとなり、約60m歩くと別の道と合流する角に原の茶屋道標が建っていました。
13時38分、原の茶屋道標(左側)
147 分岐(合流)
原の茶屋道標のところで別の道と合流し、左折して進みました。
原の茶屋分岐から約240m歩いてくると左側の民家の屋根越しに富士見パノラマスキー場が見え、スキーヤーが滑っているのが小さく見えました。
このスキー場は開設した当時から知っているのですが、私のスキーのホームゲレンデが白樺2in1だったので、一度も滑ったことはありません。
 ※富士見パノラマスキー場(左側)
148 富士見パノラマスキー場
富士見パノラマスキー場はこれから冬までの間、マウンテンバイクで賑わい、入笠山に山行する人達もゴンドラを利用しています。
さらに約120m進むと右側に富士見公園があり、入口のところに芭蕉句碑があるというので立ち寄りました。
13時44分、富士見公園(右側)
149 富士見公園案内図
 ※芭蕉句碑(右側)
150 芭蕉句碑
 ※公園の内部
151 富士見公園
富士見公園を出て約160m歩くと、右側に原の茶屋公民館がありその前庭に明治天皇の碑が建っていました。
13時48分、明治天皇駐驛之處碑(右側)
152 明治天皇小休所址
明治天皇碑から約30m歩くと左側に旅館桔梗屋跡があり、真向いに常夜燈が建っていました。
13時50分、旅館桔梗屋跡(左側)
153 名取与兵衛の茶屋跡
 ※金毘羅常夜燈(右側)
154 常夜燈・参道
常夜燈の脇道は、金毘羅神社に通じている
13時52分、金毘羅神社・鳥居(右側)

155 金毘羅神社・鳥居
神社の鳥居から参道を下る途中の右側に筆塚がありました。
 ※筆塚(右側)
156 筆塚
鳥居から参道を通って道中に戻り、そこから約40m歩くと分岐(Y字路)があり、右に進みます。
13時53分、分岐(Y字路)=右側
157 分岐(右)
Y字路を右側に進むと左側に林があり、林の中に古道があるというので、古道を歩きました。
 ※古道入口(左側)
158 旧古道入口?
 ※古道の途中
159 旧古道
 ※古道の出口
160 旧古道・出口
古道の長さは50~60mの短い距離ですが、舗装路よりこのような道の方が街道旅をしているという実感がします。
Y字路分岐から約750m(右側のカゴメ富士見工場を過ぎる手前)歩くと、左側に供養碑が建っていました。
14時02分、奉納念仏供養碑(左側)
161 念仏供養碑
供養碑を過ぎた先の路面に、富士見町の花である「すずらん」をモチーフにした下水道蓋が目に入ったので、記録に残しました。
 ※富士見町の下水道蓋
162 富士見町下水道蓋
供養碑から約400m歩くと分岐点に火の見やぐらのあるY字路となり、左に進みました。
14時10分、分岐(Y字路)=左側
163 分岐(左)
Y字路を左に約160m下り坂を歩くと、左側に石仏石塔群がありました。
14時12分、石仏石塔群(左側)
164 石仏群
石仏石塔群を過ぎると道は急な下りとなり、ヘアピンカーブを曲がるような感じでR20に合流しました。
 ※急な下り坂
165 下り坂
R20に合流する手前の下り坂の右カーブ付近が南桝形跡なのか分からず、記録に残さずに通り過ぎてしまいました。
旅の後、調べてみて南桝形跡でしたら、改めて記録を残しに立ち寄りたいと思います。
 ※分岐(R20合流)=左折

166 分岐合流(左)
分岐合流した処を左折して約20m進むと、富士見パノラマリゾート入口交差点となり、真っ直ぐに渡ります。
14時15分、富士見パノラマリゾート入口交差点(直進)
167 富士見パノラマリゾート入口交差点(直進)
約350m歩くと、次の「御射山神戸交差点」で、真っ直ぐにすすみます。
 ※御射山神戸交差点
168 御射山神戸交差点
御射山神戸交差点から約120m歩くと、御射山郵便局の先に日本橋から184㎞を示す距離標が建っていました。
14時20分、184㎞距離標(左側)
169 184㎞距離標
距離標から約20m歩くと、今日の旅の到着地である神戸八幡交差点に着きました。
14時21分、神戸八幡交差点着(到着地)
170-1 神戸八幡交差点(到着地)
到着地に着いて到着式を行い、今日の旅の締め括りをしました。
交差点を左折した先の右側に八幡神社がありますが、見学は次回の旅の時に行うことにし、移動のため最寄りのすずらんの里駅に向かいました。
すずらんの里駅は神戸八幡交差点を右折して約300m先にあります。
 ※すずらんの里駅
171 すずらんの里駅
Mさんとそれぞれ思い思いに駅に向かって歩き、ホームに出る階段を上ると、駅は無人駅のため、改札口で発行機から乗車を証明する券を打ち出し下車駅で精算するようになっていました。
14時28分、すずらんの里駅着
ホームに備えられたベンチに座り列車の到着を待っていると、無人駅ですが列車の案内スピーカが流れ、特急列車通過の数分後に到着しました。
14時44分、すずらんの里駅発
172 すずらんの里駅ホーム
14時52分、茅野駅着
Mさんは茅野駅から特急で帰宅し、私は婿殿と待合せて山荘に泊まり、明日は蓼科高原カントリーでゴルフを楽しむことになっています。
Mさんは17時29分発の指定席を買っており、約2時間も駅で待っていてもしょうがないので駅員に特急の混雑状況を聞くと、「今日のこの時間は自由席でも座れますよ」と云われ、次に到着する15時19分発の特急で帰ることになりました。
Mさんから「自由席の窓側に座れた」とメール連絡があり、遅延することなく予定より2時間以上早く家に着くことができました。
一方、私ですが、Mさんと別れた後、婿殿に連絡をするのですが不携帯状態で連絡が取れたのはMさんと別れてから30分後の15時35分頃でした。
今日は白馬・五竜スキー場に行って滑って家に帰って来たところで、私が電話した時は車を運転していた時で出れなかったようです。
婿殿からこれから家(長野市)を出て茅野に向かうとのことで、当初の待合せ時間に到着することが分かりました。
電話を切ってから約1時間20分後、「諏訪ICを出た」と連絡があり、約10分後に茅野駅南口ロータリーで婿殿と合流しました。
17時10分、茅野駅前で合流
合流して直ぐ、
婿=お風呂に入ってますか?
E=入っていないので、温泉に行こう
というので、最初に塩壺の湯にいくことにしました。
温泉に入り、汗を流しスッキリとした気分になって生協に夕食の食材を買いに行き、それぞれ好きな物を買って山荘に向かいました。
【山荘】
山荘に向かう道路は、この時期来荘している人も少なく、すれ違う車もほとんどない状態で走ることができましたが、駆除していると聞いていた鹿が平然と道路を歩いていたり、親子と思われる4頭の群れが居たりなど何回も見ることになり、減るどころか増えているようで驚きました。
鹿は嫌いではないのですが、庭に植樹している木の幹の皮を食べたり、高山植物の芽を食べたりするため、木が枯れたり(大木だと倒木の危険が出てくる)、高山植物の生態が変わったして困っています。
そのため、昨年は娘と木の幹に防護網を巻き付けたりして防護策を講じました。
山荘の駐車場に車を停め、昨年の10月下旬以来、半年振りに鍵を開け建物の中に入りました。
山荘の電源を入れ、ストーブを点けたり、水道を通水したり、布団を敷いたりしてひと晩の準備を整え、缶ビールで乾杯し、スーパーで買った食材を食べながら楽しい時間を過ごしました。
二人で山荘で過ごすのは初めてですが、いろいろなことを話しストレスの溜まらない楽しい時間を過ごしました。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 晴れ 
【宿場】 (32)韮崎宿⇒(33)台ケ原宿
【行程】 
歩行距離=18.10㎞ 総距離=169.73㎞
韮崎・本町交差点⇒(4.15㎞)⇒桐沢橋東詰⇒(3.70㎞)⇒戸沢渡渉点⇒(4.18㎞)⇒武川村米の郷⇒(3.94㎞)⇒尾白川橋南詰⇒(2.13㎞)⇒台ケ原・つるや旅館前

【ルート図】
  ↓宿場(黒囲みが第12回旅の宿場)

第12回宿場
  ↓旧甲州道中の旅・進捗状況
  (12回=今回の旅区間・1回~11回=完歩区間)

第12回全体ルート
  ↓第12回の旅ルート
  (韮崎・本町交差点 ⇒ 台ケ原・つるや旅館前)

第12回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
昨年12月に第11回の旧甲州道中旅(酒折駅前交差点韮崎・本町交差点)を行ってから冬眠に入り、春爛漫となった時期に穴倉から出てきて旅に出ました。
3ケ月の冬眠は、先輩の街道ウォーカーから「甲州路の冬は寒いから暖かくなってから歩いた方が良いよ」という助言を頂き、素直に受け入れて決めたものです。
相方のMさんは私の冬眠の間に未踏破部分(日本橋から猿橋)を歩く予定だったのですが、寒さと一人旅の葛藤があり、4月に入って日本橋から桜上水駅まで踏破したそうです。
高尾・小仏バス停から藤野駅までは私も旅の資料を紛失したため歩く予定にしており、Mさんに
 「一緒に歩きましょう」と声を掛けています。
《日程変更》
第12日目の旧甲州道中旅の日程は、Mさんとかなり前に調整して決め宿泊する旅館も予約していたのですが、予定していた諏訪・御柱祭りの下社・木落としを見学することが出来ないことが3月下旬に判明し、急遽日程の再調整を行い今日の旅立ちになりました。
※1=当初計画
4月6日~4月7日に街道旅、4月8日に御柱祭の木落としを見学する予定でした。
ところが、木落とし見学は、
 ●有料観覧券を持っていないと会場までのシャトルバスに乗れない
 ●御柱の引き子も担当地域の住民で半纏を着ていないとダメ
 ●会場は観覧席以外では見学出来ない
など、目の前で見ることが出来なくなりました。
これは今回からの処置で、御柱祭りのHPにも観覧券のない場合のことについて記されていました。
※2=計画変更
御柱祭りが見れないのなら1日延期して4月7日~4月8日に再調整して宿泊予約した旅館に日程変更を連絡すると、「7日は団体客の予約が入っています」と云われ、Mさんの了承を得て8日の宿泊予約を行い、4月8日~4月9日で旅をすることになりました。
また、旅の日が雨天であってもそれぞれの予定が決まっているため、順延しないで決行することにしました。
《資料作成》
旅で使う地図および立ち寄る史跡などの場所を地図に書き記す作業は、あまり早く作ってしまうと記憶した史跡などの情報が薄れてしまうため、3月下旬に地図(80枚)を印刷し、本陣跡や道標などの史跡の場所を地図に書き記す作業を行いました。
ところが、他の情報も確認して史蹟等の補充を図る予定にしていたのですが、すっかり忘れてしまい旅に出る前日に1日かけて資料を整えました。
さて、今回は2日間で約37㎞歩く予定にしており、
 ①.標高で600m上る(韮崎・本町交差点の標高=360m、富士見の標高=960m)
 ②.2ケ所に動物除けの電撃ネットが設置されている
 ③.昼食の場所が見付かるか
など、足への負担以外に気を付けなければなりません。
《旅の準備》
今回の旅は、街道とJRが数㎞離れているため、旧甲州道中で初めて宿泊する旅になります。
そのため荷物は2日間背負って歩かなければならず、少しでも軽量化を図るため、
 ●靴下はインナーの薄地靴下のみ履き替え
 ●下着はパンツ以外は2日間着用
 ●シャツ、上着は2日間着用
することにし、日帰り山行用品、髭剃り、防寒着、地図(2日分)などをザックに入れ、旅の支度を整えました。
《Mさん》
Mさんの奥さんは旅に出発する3日前にインフルエンザB型を発症したと聞き、Mさんに「病人を残して旅に出るのは止めましょう」と申し上げ、前日の夕方までに連絡をお願いすると、「熱が下がってきたので行きます」と返事があり、今日の朝を迎えました。
Mさんに奥さんの容態を聞くと、「今朝、少し吐き気があったのですが、食べる支度だけして出てきました」と聞かされ、大人が判断したことなので何も云わずに旅に出ました。
旅の途中、何回もメール交換で病状の確認を行い、多少発熱が続いているようでしたが、快方に向かっているとのことでひと安心しました。
【移動】
目覚ましの音楽で目覚め、「今日から街道旅だ」と自分に云い聞かせながらベットを出て洗面、血圧・体重測定、両足のケアの後、旅支度を行い朝食を食べ、トイレを済ませてから街道旅のウォーキングシューズを履いて出発しました。
自転車に乗り朝の冷たい風に身を引き締めながらコンビニに着くと、Mさんがコンビニから出てくるところでした。
挨拶を交わし、歩きのMさんはそのまま駅に向かい、私は入れ替わりにコンビニで買い物を行い、自転車を駐輪場に置き、Mさんと一緒に最寄り駅に向いました。
06時33分、八王子駅発
座席に座り、早起きした寝不足を解消したり、歓談したりして過ごし、目的地の韮崎駅に到着しました。
立川駅から初めて普通列車で来た記念すべき日になりました。
08時28分、韮崎駅着
003 韮崎駅
駅のホームで衣服調整を行い、私はアウタージャケットとチョッキを脱ぎ、薄地のジャケットに着替え、改札を出てトイレに寄ってから今日の出発地に向かいました。
改札口を出て駅舎に沿って右に進み、車道に突き当たったら右折してJRのガードを潜り正面を見ると、関東三大観音像と云われている「平和観音像」が見えます。
004 平和観音像
関東三大観音像=高崎観音像、大船観音像
この道を約120m歩くと県道27号に突き当たるので、左角の韮崎漢方薬局に沿って左折します。

005 分岐(左折)
そして、約230m歩くと本町交差点がとなり、ここが今日の出発地(前回の到着地)です。

【=旅=】
08時40分、韮崎・本町交差点(出発地)
006 本町交差点(出発地)
本町交差点で出発式を行い、今日の旅に出発しました。
出発して約50m歩くと窟観音の石柱が左側の道路端に建っており、街道(黄色線が街道)を外れて見学に向かいました。
※窟観音分岐(右側)
007 窟観音入口(右折)
道を真っ直ぐ進むと左側に雲岸寺があり、右奥に窟観音が祀られていました。
※雲岸寺
008 雲岸寺・本堂
08時47分、窟観音
009 窟観音堂
窟観音は七里岩の南端、岩崖絶壁の中段に祀られており、洞窟に聖観世音菩薩、弘法大師御尊体、千体地蔵尊のほか数知れず石仏が安置されている。御堂の建築様式は室町時代のもので、岩壁に張り出した舞台作りの珍しい建造物です。
※観音像が祀られた洞窟の道(反対側に抜けられる)
010 観音堂石仏群
※弘法大師像
011 弘法大師座像
窟観音を見て再び街道に戻り約70m歩くと、左側ににらさき文化村があり、入口の植え込みに宝塚歌劇団創設者の小林一三翁生家跡と記した石柱が建っていました。
08時54分、小林一三翁生家跡(左側)
014 小林一三翁生家跡
小林一三翁生家跡碑の道路反対側の斜め前に豊島屋酒店がありましたが、時間が早く開店前だったので、立ち寄れませんでした。
08時55分、豊島屋酒店(右側)
015 豊島屋酒店
酒店から約180m歩くと右側に白髭神社があり立ち寄り、お賽銭をご奉納しYumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
08時58分、白髭神社(右側)
016 白髭神社
※金井志雪句碑(境内左側)
017 金井志雪の句碑
白髭神社を出て県道17号の七里岩ラインを道なりに約300m進むと、右側に青坂バス停があり、バス停の手前の道を少し戻るような感じで眺めると、左側に馬頭観音が建っていました。
09時04分、馬頭観音(左側)
018 馬頭観音
バス停の先に村松石材店があり、真後ろに七里岩の断崖が迫っています。
※七里岩(右側)
019 七里岩
道は村松石材店の約20m先で分岐し、七里岩ラインは右の青坂を上り、街道は左に進みます。
※分岐(左)
020 分岐(左)
分岐を左に約140m歩くと右側の石垣の上にお社が祀られている行人塚(行人正人)がありました(上野電子㈱の手前)。
09時08分、行人塚(右側)
021 行人塚
行人塚から約260m歩くとR20に左入りする道があり、その脇に水神宮碑が建っていました。
09時12分、水神宮碑(左側)
022 水神宮碑
水神宮は釜無川の氾濫に悩む村人が建立したものだそうです。
街道はこの先でR20に合流する一ツ谷交差点で、R20を進みます。
※分岐合流(R20)
023 一ツ谷交差点(右折)
交差点の先で後方に富士山が眺められ、一ツ谷交差点を渡ったところで左に入る道があり一ツ谷水源のところで満開の桜を入れた富士山を記録に残しました。
※富士山と桜(一ツ谷水源付近)
024 富士山と桜(一ツ谷水源)
写真を撮ったところからR20に戻り進行右側に渡って約140m進むと、左側にネッツトヨタ販売があり、その前の道下に十六石碑が建っていました。
09時20分、十六石碑(右側)
026 十六石碑
十六石は、武田信玄公が、まだ晴信といわれた頃、釜無川の水害から村を守る ため、治水工事を行い、その堤防の根固めに並べ据えた
巨大な石が十六石といわれていますが、近くには十六石を表わす石がないので、十六石の大きさは分かりません。
十六石碑から約400m歩くと一ツ谷公民館前信号があり、右側の一ツ谷公民館の庭に一ツ谷地蔵群がありました。
09時29分、一ツ谷地蔵群(右側)
027 一ツ谷地蔵群
中央三体の地蔵の右側にある庚申塔は1,793年、左側の馬頭観音は1,780年に建立されたようです。
一ツ谷公民館から約120m歩くと、右側に秋葉常夜燈が小さい祠と並んで建っていました。
09時31分、秋葉常夜燈(右側)
028 秋葉常夜燈
常夜燈から約80m歩くとセブンイレブンがありましたが、立ち寄ることなく先に進み、更に220m歩くと右側に滝田建材㈱韮崎生コン工場があり、工場敷地内の左側に3基の祠が祀あり、祠の中に球形道祖神が祀られていました。
09時35分、石祠・球形道祖神(右側)
029 球形道祖神
滝田建材㈱を出ると直ぐにR20から分岐する道があり、街道は分岐して右に進みます。
※分岐(右)
030 分岐(右)
分岐点に水難供養塔が建っていました。
09時37分、水難供養塔(分岐点)
031 水難供養塔
分岐の道を進むと右側に七里岩、左前方に目を移すと冠雪の鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)、右側に甲斐駒ケ岳を眺めることができました。
※鳳凰三山(白丸印)の眺め
033 鳳凰三山
分岐点から右側の七里岩や左側の鳳凰三山などの山々を眺めながら約850m歩くと、三本の用水路があり、勢いよく流れていました。
09時49分、三条の用水路(右側)
034 三条の用水
三条の用水路から約50m歩くと、白壁の蔵が立ち並んでいました。
※建ち並ぶ蔵
035 蔵の並び
三条の用水路から約250m歩くと、右側に30代続いているという宮方家があり、藁ぶき屋根の門が残っていました。
09時55分、藁ぶき屋根の門(右側)
036 30代続く旧家(宮方家)
宮方家から約70m歩くと、左側に神明宮が祀られていました。
09時57分、神明宮(左側)
037 水明宮
神明宮から約150m歩くと左側に火の見やぐらがあり、その向かい側に南無阿弥陀仏供養碑が建っていました。
この供養碑は石の上半分が赤味がかっているところから、この近辺では「赤地蔵」と呼ばれているそうです。
10時00分、南無阿弥陀仏供養碑(右側)
039 赤地蔵
供養碑から約240m歩くと七里岩の高いところが見え、資料によると白丸印付近に新府城があったと云われている場所のようです。
※新府城跡付近(白丸印)
040 新府城があった付近(七里岩の上)
赤地蔵から約430m歩くと、左側のR20道下に九頭竜大神碑及び石塔と道祖神が祀られていました。
10時07分、九頭竜大神碑(左側)
041 九頭竜大神碑
九頭竜大神碑や石塔群から街道は釜無川を渡るのですが、現在は渡し場がないのでR20に合流したところでUターンして桐沢橋を渡ります。
そして九頭竜大神碑から約160mガードフェンス沿いに歩くと、NTケーブルという会社の手前辺りでUターンし、R20を甲府方面に逆戻りします。
※分岐(合流・Uターン)
042 分岐(左折折り返し)
R20をUターンすると正面のエネオスGSの奥に、雪に覆われた富士山が見えました。
043 分岐手前からの富士山
Uターンして約350m歩くと左側にエネオスGSがあり、その先の桐沢橋東詰交差点を右折して桐沢橋を渡ります。
10時13分、桐沢橋東詰交差点(右折)
044 分岐(右折)
左前方に富士山を眺めながら桐沢橋を渡るとT字路となり、分岐を右折します。
※分岐(右折)
046 分岐(右折)
右折して約180m歩くと右側に平成21年7月31日で閉鎖された山梨県立韮崎射撃場跡があり、再開発事業が進められているので、数年先にはこの辺りの風景は一変しそうです。
  ※山梨県立韮崎射撃場跡(右側)
047 県立韮崎射撃場跡
韮崎射撃場跡から約350m歩くとガードがあり、ガードを潜った左側に石仏石塔群あり、この中の馬頭観音像は1848年建立だそうです。
10時24分、石仏石塔群(左側)
048 石仏石像群
歴史を感じる石塔がありましたが、雑草の中にほったらかしにされた状態でした。
石塔群から約80m歩くと、左側の高台に原山神社が見えましたが、登っていく元気がなかったので、記録だけ残して先に進みました。
  ※原山神社(左側)
049 原山神社
原山神社を見ながら約80m歩くと変則五差路となり、青哲町青木の標識に沿って右折します。
10時27分、分岐(変則五差路・右折)
050 分岐(右折)
分岐を過ぎると高川南沢川に架かる小桐橋を渡ります。
051 小桐橋
橋を渡りながら堤防の土手を見ると、染井吉野の桜が満開に咲き誇っていたので、お花見と休憩を兼ねて街道から外れて土手でひと休みしました。
10時28分~10時40分、休憩(右側)
052 高川南沢川堤
街道に戻り約45m歩くと、Y字路分岐となり、左側に進みました。
  ※分岐(Y字路=左)
053 分岐(左)
Y字路を約40m歩くと左側に、男女双体の道祖神が祀られていました。
10時42分、男女双体道祖神(左側)道祖神
054 清哲町・道祖神
男女双体道祖神から約20m歩くと、Y字路(下写真)があり左折しました。
 ※分岐(Y字路=左)
055 分岐(左)
左に進んだ道を約50m歩くとY字路があり、右に進みます。
  ※分岐(Y字路=右)
056 分岐(右)
Y字路を右に約110m進むと、正面に雨宮寺が見える徳島堰に突き当り、そのまま道なりに歩きました。
10時44分、分岐(合流)=徳島堰
057 分岐(合流)
徳島堰に合流してから約60m歩くと左側に雨宮寺があり、本堂の窓が武田菱になっているというので見学に立ち寄りました。
10時45分、雨宮寺(左側)
058 雨宮寺
  ※武田菱の窓
059 本堂の武田菱
徳島堰(とくしませぎ)は、山梨県韮崎市と南アルプス市を結ぶ農業用水路で延長は17kmあり、名前は堰を作った徳島左衛門俊正に由来している。
  
※徳島堰(左側)
060 徳島堰
雨宮寺から約230m歩くと、左側に鳥居が木柱の八幡神社が祀られていました。
10時50分、八幡神社(左側)
061 八幡神社(木製鳥居)
八幡神社は鳥居の処から奥の社殿を眺めただけで通り過ぎ、約90m歩くとY字分岐となり、徳島堰に沿って左に進みまし
た。
  
※分岐(左)
062 分岐(左)
  ※流量豊富な徳島堰(左側)
063 徳島堰
Y字路から徳島堰に沿って約300m歩くと、左側に障害介護犬協会があり外敵から守るためか、介助犬が逃げないようにするためか、フェンスが張り巡らされていました。
10時56分、山梨障害介助犬協会施設出入り口(左側)
064 電撃柵
協会の出入り口から約70m歩くと用水が交差しているところになり、道中は交差する徳島堰に沿って右折しました。
  ※分岐(右折)
065 分岐(右)
徳島堰に沿って約200m歩くとクランク形に曲がって県道12号に合流し、左折して唐沢橋を渡りました。
  ※分岐(左折)
066 分岐(左折)・唐沢橋
唐沢橋を渡った処から約240m歩くと、桜がj満開の宝蔵寺あり参道脇に多数の石仏が建てられていました。
11時04分、宝蔵寺(左側)
068 宝蔵寺入口
  ※参道沿いの石仏群
069 宝蔵寺参道の石仏群
寺院の参道および境内に植樹された桜は満開で、数台の車がお花見に停まっていました。
道中は寺院の前で分岐しており、真っ直ぐ進む新道(県道12号)を左進まず、寺院に沿うように左に進みました。
  ※分岐(左)
070 分岐(左折)
  ※宝蔵寺境内の桜
071 宝蔵寺の桜
宝蔵寺参道入口から徳島堰に沿って約240m歩くと、堰の降りる階段が設けられた場所があり、昔はここで洗ったりしていたのだろうと往時を想像しながら歩きました。
11時09分、昔の洗い場(左側)
072 旧洗い場
旧洗い場跡から約130m歩くと、右側に山形酒店がありましたが、看板が掲げられているだけで店舗は廃業しているようでした。
  ※山形酒店(右側)
073 旧山形商店
旧山形酒店から約40m歩くと、左側に「北西小スクールバス停」があり、バス停の先隣りに道祖神が祀られていました。
11時12分、道祖神(北西小スクールバス停前隣り)=左側
074 道祖神
バス停の約10m先の処で徳島堰が段差になって流れていました。
私は用水路がこのように段差になっているところはほとんど見たことがなかったので、記録に残していつまでも記憶しておきたいと思います。
  ※徳島堰の段差(左側)
075 段差の水路
段差のある徳島堰を見学し、約15m歩いた先の右側にクロマツ碑が建っていました。
11時14分、クロマツ碑(右側)
076 黒松碑
クロマツ碑から約300m歩くと左側に徳島堰を渡る道があり、その手前左側に水車式発電機が設置されていました。
11時19分、入戸野第一発電所(左側)
077 徳島堰入戸野第一発電所
発電所は振子式下掛水車で、8Kw発電していました。
077-1 名前
さらに第一発電所から約90m歩くと、左側に同じ形式水車の第二発電所が設置され稼働していました。
11時21分、入戸野第二発電所(左側)
078 第二発電所
第二発電所は9Kw発電していました。
078-1 名前
道中はこの先で分岐となり、左側を真っ直ぐに坂を登って進みます。
  
※分岐(左側を真っ直ぐ)
079 分岐(左)
分岐を左側を真っ直ぐに約130m進むと入戸野第三発電所が設置され、ここも発電していました。
11時24分、入戸野第三発電所(左側)
080 第三発電所
第三発電所は8Kw発電しており、第一発電所から第三発電所の3基で、25Kwを発電していました。
080-1 名前
第三発電所から約90m歩くと、戸沢橋を渡る手前に左折する道があり左折すると、約10mで右側に「円井逆断層」の案内標識が建っています。
なお、左折して戸沢川を渡るのですが、渡れない時は左折しないで直進し、戸沢橋を渡るなど約160m先を左折して迂回します。
11時25分、分岐(左折=戸沢橋手前)
081 分岐(左折)
道中は戸沢川に沿って進みます。
  
※分岐(直進)
083 分岐(右)
中は直進する分岐の先(約15m)で戸沢川を渡ります。
しかし昨日の雨天の影響で水嵩が上がり、Mさんも「これでは渡れない」と判断し県道12号まで戻ることにしました。
11時28分、戸沢川渡歩地点
084 渡歩地点
県道12号まで約170m戻り、左折して戸沢川に架かる戸沢橋を渡り、渡った先の左折する道を左折します。
  
※分岐(左折)
085 分岐(左折)
分岐を左折して約110m歩くと戸沢川渡歩地点があり、左側を眺めながら先に進みました。
086 分岐(右)
歩いている道は下円井旧道で、息が少し切れる程度の坂道を上り始めると、沿道には黄色が眩しい菜の花が咲いていました。
  
※沿道の菜の花
087 菜の花
旧道に沿って武家屋敷風の建物があり、石垣は武者返しに出来ていました。
  ※武者返し石垣(左側)
088 武者返しの石垣
また、旧道の坂を上って左側を見ると、立派な長屋門が残されていました。
11時37分、長屋門(左側)
089 長屋門
長屋門のある家を過ぎると土塀や石塀のある家が軒を連ねるようにあり、約190m歩くと右側の火の見やぐらの先に常夜燈があり、桝形道になっていました。
  ※白い土塀・常夜燈(右側)・桝形道(黄矢印)
090 桝形道(入口)
桝形道の出口右側になまこ壁と長屋門の旧家がありました。
  ※なまこ壁と長屋門(右側)
091 なまこ壁と長屋門
  
※分岐(桝形道出口付近)
092 桝形道(出口)
上の写真の分岐から約120m歩くと左側角にカーブミラーが設置されたT字路のようなところになり右折します。
11時43分、分岐(右折)
093 分岐(右折)
右折して約120m歩くと右側に下円井多目的集会施設、左側に資源物リサイクルセンターがあり、リサイクルセンターに沿って左にカーブして進みます。
  ※分岐(左側)
094 分岐(左)
カーブを曲がった辺りの右側に満開の菜の花の先に八ヶ岳連峰が眺められました。
  
※八ヶ岳連峰の眺め(右側)
095 菜の花・八ヶ岳
左側は徳島堰が流れており、川と交差するようにサイホン式になっていました。
  ※川を越えたところで再び水が上がってくる
096 徳島堰サイホン(出口側)
  ※この下で交差している
097 徳島堰サイホン(地下水路)
  
※徳島堰が川の下を潜る入口
098 徳島堰サイホン(入口側)
なかなかお眼に掛かれないサイホン式の水路から約350m歩くと、かかしの里となり、かかしのレプリカが建てられていました。
11時56分、かかしの里(右側)
099 かかしの里
  ※分岐(左側を直進)
100 分岐(左)
  
※七里岩の眺め(右手前方)
101 七里岩
分岐から約280m歩くと左側につぶら野会館があり、会館の前に「徳島堰由来」碑が建っていました。
12時01分、徳島堰由来碑(左側)
102 徳島堰解説標
由来碑から約100m歩くと寺沢橋があり、徳島堰のサイホンがありました。
  ※徳島堰サイホン(上昇側)
103 徳島堰サイホン(出口側)
  
※徳島堰サイホン(下降側)
104 徳島堰サイホン(入口側)
  ※寺沢橋(川は徳島堰の上を流れている)
105 寺沢橋
寺沢橋から約150m歩くと桜並木となっており、東京に続いてお花見を楽しむことができました。
桜並木は約170m続いており、満開の時期は過ぎていましたが、まだまだ綺麗な花を眺めることができました。
  
※桜並木
106 桜並木
桜並木が終わるところで道は、円野横断地下道を通ってR20を潜ります。
12時09分、分岐(右側=R20を潜る)
107 分岐(右)
  
※R20を潜ったところ
108 分岐(合流手前)
円野横断地下道を出た処から約140m歩くと変則十字路があり、ここで徳島堰を道路で渡り、十字路の左側の望月家、内藤建築の看板の間を進みます。
12時12分、分岐(左折)
109 分岐(左折)
左折して約230m歩くとカーブミラーの横に徳島堰を作った徳島翁道標が建っている細い十字路があり、昼食を食べに行くため道中を離れて左折しました。
  
※分岐(左折)
110 徳島翁碑道標
分岐から徳島翁と妻の墓がある妙浄寺を通り過ぎるなど、約170m歩くと左側のR20の沿道に大衆食堂「やま輝」があり、躊躇することなく入りました。
12時19分~12時58分、昼食(やま輝)
111 大衆食堂・やま輝
午前中の歩きで咽喉が乾いたので生ビールとまぐろづけ丼を注文し、至福のひと時を楽しみました。
昼食を終え、道中に戻り、到着地目指して午後の歩きを始めました。
徳島翁道標のあるところから約300m歩くと右側に内藤家があり、なまこ壁の長屋門が建っていました。
13時10分、内藤家=明治天皇休憩所(右側)
112 内藤家(明治天皇休憩所)
また、中の敷地に明治天皇が休憩で立ち寄られたとして跡碑が建っていました。
  
※明治天皇御休憩所跡(右側)
113 明治天皇休憩跡碑
内藤家から約180m歩くと上円井交差点があり、R20に合流し左に進みます。
13時15分、分岐・合流(R20)
114 上円井交差点(分岐合流)
R20に合流した処の左側に内藤ハウスがあり、その先の円野上バス停のところで半円を描くように旧道中は歩きます。
  ※分岐(R20の左側を半円状に歩く)
115 分岐(左)
左の公園の奥に旅の守護神である鹿嶋大神が祀られているというので、立ち寄りました。
13時18分、鹿嶋大神碑(左側)
116 鹿嶋大神碑
公園のところから約220m歩くと小武川橋が架かっていました。
  ※小武川橋
117 小武川橋
小武川橋を渡り始めると、日本橋から158㎞の距離標が建っていました。
13時22分、158㎞距離標(左側)
118 158㎞距離標
小武川橋を渡ると、韮崎市から北杜市に入る市境標識が建っていました。
13時22分、市境標識(韮崎市から北杜市)=左側
119 北杜市境標識
道中は市境標識を左に見ながら右折します。
  
※分岐(右折)
120 分岐(右折)
R20から分岐して約100m歩くと、右側にログハウス風の建物があり、道中は右に見ながら左カーブして進みます。
  ※ログハウス風建物(右側)
121 ログハウス風建物
ログハウス風建物から約450m歩くと、黒沢川橋が架かっていました。
13時26分、黒沢川橋
122 黒沢川橋
黒沢川橋から約50m歩くと分岐があり、左側に進みます。
  ※分岐(左側)
123 分岐(左)
分岐から約180m歩くと、右側に甲府から六里塚目の武川一里塚跡に碑が建っていました。
13時33分、武川一里塚跡(右側)
125 武川一里塚跡
道中は一里塚碑の先で再びR20に合流し、約270m歩いたところでR20から分岐します。
分岐の目印は、分岐点に白い建物で、武川町農産物直売センターがあり、センターの右側を進みます。
  
※分岐(右側)
126 分岐(右)
分岐から約220m歩くと分岐点に庚申塔が建っている変則T字路があり、左に進みます。
  ※分岐(左側)
127 分岐(左)・庚申塔
変則T字路分岐から約400m歩くと、左側の中野屋商店の斜め向かい側の右側のブロック塀脇に古い桜の木が植樹されていました。
13時45分、古い桜の木(右側)
128 桜の古木
古い桜の木から約230m歩くとR20に合流し、合流地点に設置されている牧原歩道橋を潜ったところで、R20から別れて右側に進みます。
  ※分岐・合流(右方向)
129 分岐(合流)
13時49分、分岐(牧原歩道橋下を右側)
130 分岐(右)
R20を分岐して県道612号を渡るなど約180m進むと道は突き当たるので、その手前で左折します。
  ※分岐(左折)
131 分岐(左折)
右側の小池家に沿って右折した道は、約70mでR20に合流し右折して進みます。
132 分岐(右折)
R20を約50m歩くと大武川に架かる大武川橋があり、歩道のある左側を歩いて渡ります。
13時50分、大武川橋
133 大武川橋
大武川橋を渡り、下三吹バス停のところを左折します。
  ※分岐(左折)
134 分岐(左折)
下三吹バス停の分岐を左折して約350m歩くと左側に火の見やぐらがあり、火の見やぐらのところを左に約20m入ったところに道祖神が祀られていました。
13時58分、道祖神(左側)
135 道祖神
火の見やぐらから約210m歩くと左側にカーブミラー、右側に消火栓が設置された十字路があり、右折します。
14時01分、分岐・十字路(右折)
136 分岐(右側)
分岐十字路を右折して約120m歩くと左斜め前方に、庚申塔などの石塔群が祀られた交差点があり、左折して萬休院に立ち寄ることにしました。
旧道中は交差点を直進します(黄矢印)

  ※分岐(左折)
137 石塔群
萬休院は約80m先の分岐を右側に進みます。
  
※分岐(右側)
138 分岐(右)
道は分岐してから上り坂となり、段々と傾斜がきつくなり、頂上付近に着いた時は息が切れていました。
  
※きつい上り坂
139 きつい上り坂
約250mのきつい上り坂を歩き、道なりに進むと左側に舞鶴松の面影が少し残る庭園がありました。
14時10分、萬休院の舞鶴松
140 萬休院の舞鶴松
  
※舞鶴松の解説
140-1 解説
  ※舞鶴松碑
141 舞鶴松碑
  ※椿の生け垣
143 椿の生垣
萬休院から約350m下ってくると、庚申塔などの石塔群のある交差点をそのまま真っ直ぐに歩いてきた旧道中に戻りました。
14時18分、旧道中に合流
145 分岐(合流)
旧道中に合流した地点の左側に、石塔群がありました。
  
※石塔群(左側)
146 甲子塔・石仏群
旧道中合流地点の石塔群から約230m歩くと、左側の民家の庭先に御影石の句碑が建っていました。
この句碑はここに住んでいる人が建てたように思います。
  
※御影石の句碑(左側)
147 御影石の句碑
御影石の句碑から約240mあるくと上三吹交差点となり、交差点をそのまま真っ直ぐに横切ります。
14時26分、分岐(直進=上三吹交差点)
148 上三吹交差点(分岐直進)
上三吹交差点から約500m歩くと、右側に神明社を祀った社が2つ建っていました。
14時34分、神明社(右側)
149 神明社
神明社の社から約100m歩くとパーゴラのベンチがあり、2本目の桜の木の根元に一里塚の跡があり、碑が建てられていました。
  ※パーゴラのベンチがある公園
150 休憩所
この場所は、釜無川(右側)と尾白川(左側)の2本の川が合流するところで、この先は釜無川として流れていきます。
  ※釜無川(右側)と尾白川(左側)の合流点
151 尾白川と釜無川が合流
14時43分、三吹一里塚碑・七里塚碑(右側)
152 七里・一里塚跡
ここは甲府から7番目の一里塚で七里塚とも云われている。
一里塚碑から約160m歩くと、R20に合流して右に進みます。
  
※分岐(合流)
153 分岐(合流)
R20を約70m歩くと尾白川に架かる尾白橋があり、歩道のある右側を歩き、橋を渡ったところで道路を横断して左側に移りました。
  ※尾白橋
154 尾白橋
尾白橋を渡った左側に古道入口碑が建っており、碑に沿って左折して別名「はらぢみち」を進みます。
14時48分、分岐(左折)
155 分岐(左折)
  
※古道入口碑
156 古道入口碑
古道入口から約140m歩くと三体の馬頭観音が祀られており、その内の2体の側面が道標になっていました。

14時49分、横山の道標(右側)
157 横山の道標
この道標は唯一、現存しているものだそうです。
  
※台ケ原宿古道①
158 無名の大石塔入口
  ※台ケ原宿古道②
159 分岐(右)
  
※台ケ原宿古道③
160 旧街道
古道を歩いてくると、砂利道から舗装路に替った右側に古道道標と石のベンチが、左側に曲足橋が架かっていました。
  
※台ケ原宿古道④
162 砂利道から舗装
14時57分、台ケ原宿古道碑(右側)
163 古道道標とベンチ
曲足橋から上りの国見坂を約140m歩くと、左側に庚申塔と馬頭観音群がありました。
15時00分、庚申塔・馬頭観音(左側)
164 庚申塔と馬頭観音
  ※庚申塔・馬頭観音の解説
164-1 解説
石塔群から約170m歩くとR20に合流する手前右側に。道祖神跡がありました。
15時02分、道祖神跡(右側)
165 道祖神跡
道祖神は村の境や辻などにあって悪疫を防ぎ、旅人の安全を守り、縁結びや子宝祈願の民間信仰の神様で、この場所には文化3年に建立した道祖神があったと記録に残されています。
道祖神跡の隣りに古道入口碑が建っていました。
  
※古道入口碑
166 古道入口碑
古道入口碑の直ぐ横が台ケ原下交差点で、斜めに横切り進みます。
15時03分、台ケ原下交差点
167 分岐(右)
台ケ原下交差点を渡ったところから約90m歩くと、左側に道祖神が祀られていました。
15時04分、道祖神(左側)
168 ⑰道祖神
道祖神から約110m歩くと、右側に白壁の旧家があり記録に残しました。
15時06分、白壁の旧家(右側)
169 白壁の旧家
15時07分、白州味噌・細田家(雲流松の家)=右側
170 白州味噌・細田家
15時08分、信濃屋(旧造り酒屋)=右側
171 信濃屋(旧造り酒屋)
信濃屋から約80m歩くと、右側に立場跡・共同井戸跡のパネルが建っていました。
15時11分、立場跡・共同井戸跡(右側)
173 立場跡・共同井戸跡
立場跡から空き地をはさんだ先に、白州手打ち蕎麦の店がありました。
  ※白州手打ち蕎麦・くぼ田(右側)
174 手打ち蕎麦・くぼ田
手打ち蕎麦店のくぼ田の先に県道606号の交差点があり、交差点を左折すると直ぐに台ケ原宿の絵図が掲げられていました。
15時13分、台ケ原宿絵図(左側)
172 台ケ原宿絵図
県道606号の交差点を渡った右側に、小松屋本陣跡があり、秋葉常夜燈が残されていました。
15時14分、小松屋本陣跡・秋葉常夜燈(右側)
175 小松屋本陣跡・秋葉常夜燈
小松屋本陣跡の真向いに、宮川家脇本陣跡がありました。
15時15分、宮川家脇本陣跡(左側)
176 脇本陣跡(宮川家)
本陣跡から約30m歩くと、台ケ原宿ふれあい休憩所がありました。
15時16分、ふれあい休憩所(右側)
177 ふれあい休憩所
ふれあい休憩所の後部に高札場跡・郷倉跡のパネルが建っていました。
15時16分、高札場跡・郷倉跡(右側)
178 高札場跡・郷倉跡
ふれあい休憩所から約50m歩くと、左側に問屋場跡がありました。
15時18分、問屋場跡(左側)
179 問屋場跡
問屋場跡の斜め前に造り酒屋の七賢があり、立ち寄りました。
15時18分~15時32分、七賢(右側)
180 七賢
  
※内部
181 七賢・内部
店内に入り見れるところを見学し、最後に試飲ができるところに立ち寄り、七賢など数種類のお酒を試飲させて頂きました。
お酒は口当たりが良く買いたかったのですが、歩くのに邪魔になるため、山荘に来た時にまた立ち寄りたいと思います。
七賢の隣りに明治天皇が立ち寄られた跡碑が建っていました。
15時32分、明治天皇菅原行在所跡(右側)
182 明治天皇行在所址
明治天皇碑の斜め前に信玄餅の元祖である金精軒があり、立ち寄りました。
15時32分~15時39分、金精軒(左側)
183 菓子処・金精軒
  ※どら焼き
184 購入したどら焼き
  ※生信玄餅
184-1 生信玄餅
金精軒の店に入る左側に、標高標識が掲げられていました。
  
※標高(584m)標識(左側)
185 標高標(584m)
金精軒から約150m歩くと、右側に田中神社があり、境内にお茶壺道中碑が建っていました。
15時43分、田中神社・社殿(右側)
186 田中神社 
  
※お茶壺道中碑(右側)
187 お茶壺道中碑
田中神社を出て道中を約50m歩くと、右側に旧松坂屋旅館(現在は廃業している)がありその前に台ケ原一里塚の石碑が建っていました。
15時47分、台ケ原一里塚跡(左側)
188 台ケ原一里塚碑
一里塚跡から約300m歩くと、今日の宿泊地であるつるや旅館に到着し、玄関前で到着式を行い今日の旅を終了しました。
15時52分、つるや旅館前着(到着地)


191 つるや旅館(到着地)
つるや旅館は、
元「諸国旅人御宿屋鶴屋」という旅籠です。
189 元旅籠津留や
現在の隣りの建物に、当時を偲ばせる講中の看板が3枚掲げられており、建物は改築されたようです。
私とMさんのカメラは、電池切れで到着の写真が撮れず、Mさんのカメラの充電を少し行ってから到着写真を撮ることにして旅館の中に入りました。
「こんにちは!!」と呼ぶと、玄関口にいた同宿の方が「出掛けているみたいで誰もいません」というので、玄関口で旅館の方が戻ってくるのを待つことになりました。
旅館の方は5分程で戻ってきて、同宿の方(男性2人)の後に部屋に案内されると、4人部屋で2人でゆっくり寛げる広さがありました。
直ぐにMさんのカメラの充電を行い、15分くらいで撮れる状態になったので、旅館前で到着式を改めて行い今日の旅を締めくくりました。
《幸運》
女将さんから「昨日は雨が降り続いた上、寒さが加わり、昨日来られた方は大変でした。歩いてここまで来られる予定でしたが、とても歩けないということになりタクシーを利用していましたよ。今日は天候に恵まれて良かったですね」と聞かされ、自然の流れの中で決まった日程ですが、Mさんともども幸運を喜び合いました。
《夕食》
部屋に戻り旅支度から旅館で用意されたゆかたに着替え、入浴できそうだと云われた17時30分になっても連絡がないので確認すると、「入れる」との返事がありMさんと今日の汗を流しに行きました。
浴室は4~5人が入れる広さがあり、同宿の方(男性2人)のうち1人と一緒になり、雑談しながら入浴しました。
同宿の方は、テレビや映画で小道具などを手掛けている高津装飾美術の方で、明日(9日)開催される「信玄公まつり」に参加する人達(北杜市の40人)の衣装着付けを行うために来たそうです。
汗を流してスッキリし、夕食の連絡を待ちました。
18時30分、夕食
部屋に「食事の用意が整いました」と連絡があり、食事する部屋に移動しました。
食事は間仕切りされた部屋で食べることになり、同宿の方とは別です。
瓶ビールを注文しMさんと乾杯となりましたが、ほとんど飲めないMさんはコップに少し注いで乾杯しました。
配膳された料理は豪華さは有りませんが、値段以上に感じるもてなしで、私は1本では足りず2本目を注文し咽喉を潤すとともに、旅の疲れを癒しました。
21時近くまでのんびりと食事とMさんと歓談の時間を楽しみ、部屋に戻りました。
明日は朝6時45分に朝食を食べ、7時30分に旅館を出発する予定で、明日の旅立ちの準備をして布団に入りました。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


天気】 曇り・晴れ
【宿場】 (30)石和宿⇒(31)甲府宿⇒(32)韮崎宿
【行程】 歩行距離=16.17㎞ 総距離=151.63㎞
酒折駅前交差点⇒(3.33㎞)⇒相生歩道橋⇒(4.64㎞)⇒竜王新町交差点⇒(3.21㎞)⇒中部横断道高架下⇒(3.17㎞)⇒塩川橋西詰⇒(1.82㎞)⇒韮崎・本町交差点

【ルート図】
  宿場(黒囲みが第11回旅の宿場)
第11回宿場
  旧甲州道中の旅・進捗状況
   (第11回が今回の区間)

第11回全体ルート
  第11回の旅ルート
   (酒折駅前交差点 ⇒ 韮崎・本町交差点)

第11回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
第11日目の旧甲州道中旅の日程は、Mさんとかなり前に調整して決めていたのですが、1週間くらい前に発表された予報が曇りのち雨の降水確率50%になっていました。
Mさんと8時~15時の予報で☂マークがある場合は、中止または順延にすることにし、既に購入していたジバング切符が15日と16日の有効期間のため、順延の場合は16日にするということでMさんの了承を頂きました。
さて天候ですが、回復が期待できない状態で前日の朝を迎え、ラジオ体操の会場でMさんと日程をどうするか相談し、昼までに判断することになりました。
Mさんはこれからジバング切符を買いに行くというので、昼ごろに発表される予報を確認してから決めることにしていましたが、判断の予定を早め今朝発表の天気予報で決めることにしました。
朝食後、天気予報を確認(日本気象協会とヤフー)すると曇り・晴れになっています。
このため、予定通り15日に実施したいとMさんに連絡すると、「OK」の返事があり計画どおり15日に実施することになりました。
《準備》
旅で使う地図及び立ち寄る史跡などの場所を地図に書き記す作業が諸々の用事のため遅れ、12日に地図(16枚)を印刷し、13日に本陣跡や道標などの史跡の場所を地図に書き記す作業を行い、旅に出る直前に何とか準備を整えました。
今回のコースは街場を歩くので、数か所気を付ける場所はありますが、山道を歩くこともなく、コースが入り組んでいることもなく、分かり易い道中になっています。
《移動》
久し振りに4時台に目覚ましの音楽で目を覚まし洗面、血圧・体重測定の後、両足のケアと着替えを行い朝食を食べ、トイレなどを済ませてから用意しておいたウォーキングシューズを履いて自宅を出発しました。
自転車に乗り朝の冷たい風に身を引き締めながら公園内を通り最寄り駅に向かいました。
最寄り駅に着き、トイレに立ち寄って待合せ場所で待っていましたが、相方のMさんが来られません。
どうしたのかと思いながらホームで待っていると、乗車する電車の入線直前にホームに来られ合流し、出発地に向かいました。
08時06分、酒折駅着
大月あたりから学生が増えてきて下車する酒折駅は山梨学院大学の付属中高生や県立高校生で、改札は満杯状態になっていました。
002 酒折駅
学生に混じって改札を出て前回の到着地である酒折駅前交差点に向かいました。
【=旅=】
08時10分、酒折駅前交差点(出発地)
004 出発式(酒折駅前交差点)
出発地の酒折駅前交差点に立ち恒例の出発式を行い、今日の旅に出立しました。
交差点を左折すると箱根駅伝で有名な山梨学院大学、右折すると付属高校・中学に行きます。
私とMさんは中・高生と一緒に歩き出すと、約260m先の酒折宮入口交差点を右折した左側に、酒折宮・日本武尊御舊跡碑が建っていました。
08時16分、酒折宮・日本武尊御舊跡碑(右側)
005 酒折宮(日本武尊御 跡)
右折して跡碑を見てそのまま街道に戻らないで真っ直ぐ約160m歩いて中央線の踏切を渡ると、約70m先に酒折宮がありました。
08時18分、酒折宮(右側)
007 酒折宮
酒折宮の本殿でお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
※酒折宮・本殿
010 酒折宮・本殿
酒折宮の境内には、本居宣長碑、山縣大貳碑、連歌之碑が建っていました。
※本居宣長碑
008 本居宣長碑
※山縣大貳碑
009 山縣大 碑
※連歌之碑
011 連歌の碑
山梨学院大学付属高校の生徒は酒折宮に参拝する私達と同じように酒折宮入口交差点を右折して踏切を渡り、酒折宮の手前を右側に行きました。
また、踏切の処には安全のため、職員が立って生徒を誘導していました。
参拝を終え、街道の交差点に戻り、大円川に架かる大円新橋を渡るとMさんがトイレに行くことになり、約180m先の左側にあるガソリンスタンド(しみず屋)に立ち寄りました。
ガソリンスタンドのトイレを借り用を済ませ街道を約100m歩くと善光寺入口交差点があり、善光寺につながる真っ直ぐな参道がありました。
※善光寺参道
015 甲州善光寺・参道
交差点から約100m歩くとJR身延線が走る善光寺架道橋があり、ガードを潜ると甲府城下八曲りの最初の曲りがあり、左に曲がります。
※甲府城下八曲り=①(左折)
016 甲府城下八曲り①・善光寺架道橋
最初の八曲りから約40mで二つ目の八曲りとなり、右に曲がります。
※甲府城下八曲り=②(右折)
017 甲府城下八曲り②
二つ目の八曲りを右に曲がりながら右方向(北)を眺めると、どっしりと座っている感じの大笠山(標高=518.9)が間近に見えました。
※大笠山(標高:518.9m)=右側
018 大笠山
そして二つ目の八曲りを曲がって約40m歩くと高倉川に架かる高倉橋があり、橋を渡った右側に旧商家(糸まゆ問屋・河内屋)が残されていました。
08時43分、石川家住宅(旧商家・河内屋)
019 石川家住宅
住宅は現在も生活の場として使用されているようで、玄関に「石川兼助」さんの表札が掲げられていました。
石川家から約150m歩くと藤川橋西詰交差点、さらに約160m先に進むと左側に堀クリーニング店があり資料では小さい稲荷神社があると記されていましたが、見当たりませんでした。
そして約230m歩くと「韮崎 15㎞、甲府駅 2㎞」の道路標識が建っており、今日の旅の終点はまだまだ先でした。
※道路標識(右側)
021 道路標識
道路標識から約20m先の右側に甲府城東郵便局があり、さらに約300m歩くと正面にエネオスのGSがあるT字路となり、甲府城下八曲りの3番目の曲りで、左折します。
08時57分、甲府城下八曲り(3番目)=左折
022 甲府城下八曲り③
エネオスGSの前の駐車場は、本陣跡とのことですが、史蹟跡を示す標板などは建っていませんでした。
※本陣跡?
023 本陣跡?
本陣跡の駐車場から約120m歩くと4番目の八曲りがあるのですが、その約20m手前の左側に天尊体寺があり、境内に佐渡金山奉行だった大久保長安の墓所があるというので、立ち寄りました。
墓所には綺麗な花が供えられていましたが、山口素堂の「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」の碑があるのかと思って境内を探しましたが、見付かりませんでした。
09時01分、大久保長安の墓所(左側)
026 大久保長安の墓所
天尊体寺を出て約20m歩くと甲府城下八曲りの4番目の右折の曲りがありました。
※甲府城下八曲り(4番目)=右折
024 甲府城下八曲り④
右折して約190m歩くと右側に明治5(1,872)年創業の奥村醤油醸造店があり、その約180m先の左側に鹿革工芸で有名な印傳屋がありました。
09時07分、奥村醤油醸造店(右側)
028 奥村醤油醸造店
09時09分、印傳屋上原勇七本店(右側)
029 印傳屋
印傳屋は天正10(1,582)年に創業され、江戸時代に上原勇七が鹿革に漆で模様付けする技法を確立し現在も続いている伝統工芸なので開店していたら少し見たかったのですが、開店前だったので、残念ながら見ることができず店舗の前を素通りしました。
印傳屋から約140m歩くと、右側のNTT東日本ー南関東の前、左側の丸亀商店の手前に新聞発祥の地碑が建っていました。
09時11分、新聞発祥の地(左側)
030 新聞発祥の地碑
碑から約60m歩くとNTT甲府支店西交差点があり、ここが甲府城下八曲りの5番目の曲りで左折します。
09時12分、甲府城下八曲り(5番目)=左折
031 甲府城下八曲り⑤
左折した通りが甲府柳町宿のメインストリートだったところですが、現在は道路も大きく拡幅され、江戸時代の名残りは何も残っていません。
※現在の甲府柳町宿のメインストリート
032 旧甲府柳町宿跡
左折して約120m進むと、屋根付きのアーケドになっている甲府銀座通りが右側にありました。
※甲府銀座通り
033 甲府銀座通り
甲府銀座通りから約25m進むと右側に柳町大神宮が祀られているので立ち寄ると、境内にお伊勢の森跡地の碑(白丸印)が建っていました。
09時14分、柳町大神宮(左側)
034 柳町大神宮・本殿
※お伊勢の森跡地の碑
035 お伊勢の森跡地
大神宮から約120m歩くと問屋街入口交差点があり、ここが甲府城下八曲りの6番目の曲りで右折します。
09時17分、甲府城下八曲り(6番目)=右折
036 甲府城下八曲り⑥
問屋街入口交差点(八曲りの6番目)から約120m歩くと突き当りにうなぎの若荒井があり、ここが甲府城下八曲りの7番目の曲りで左折します。
09時19分、甲府城下八曲り(7番目)=左折
038 甲府城下八曲り⑦
うなぎの若荒井から約60m歩くとT字路の桜町南交差点があり、ここが甲府城下八曲りの8番目の曲りで右折します。
09時20分、甲府城下八曲り(8番目)=右折
039 甲府城下八曲り⑧
8ケ所の曲尺手(かねんて)を旧東海道の掛川の七曲りを思い出しながら歩き、甲州道中にも同じような曲尺手があることを知りました。
桜町南交差点から約300m歩くと、甲府駅i1.1㎞、国道52号(平和通り)、国道358号、県道31号が交わる相生歩道橋交差点があり、路面横断歩道がないので、交差点に架かっている歩道橋で道路を渡りました。
09時24分、相生歩道橋交差点
040 相生歩道橋
歩道橋を渡ると通りが美術館通りになり、約150m進むと美術館通りと昭和通りのが交差する丸の内郵便局東交差点となり、交差点を渡った左側に道標が建っていました。
09時27分、道標・みのぶみち(左側)
041 道標・身延道
道標から約50m進むとセブンイレブンがあり、トイレタイムを取り少し休憩しました。
休憩で気分を新たにし約210m歩くと県民文化ホール北交差点があり、交差点の左角のかえで総合保険の先隣りに白壁の土蔵が建っていました。
09時34分、白壁の土蔵(左側)
043 白壁の土蔵
土蔵の前から左にカーブしながら約450m歩くと荒川に架かる荒川橋東詰交差点があり、前方右側に南アルプスの山々を眺めることができました。
09時40分、荒川橋東詰交差点
044 荒川橋東詰
※荒川橋からの眺め=南アルプス(右方面)
045 南アルプス
※荒川橋からの眺め(左手)
046 山々
左・右の山々を眺めながら荒川橋、隣接している貢川に架かる貢川橋をそれぞれ渡ると貢川橋西詰交差点となり、Y字路になっている分岐交差点を右に進みます。
09時44分、貢川橋西詰交差点(分岐=右)
047 貢川橋西詰(分岐)
交差点から約190m歩くとコーヒーショップ古麻樹の手前の塀に子供向けの絵が描かれていました。
09時48分、子供の造形展(右側)
048 子供の造形展
子供の造形展から約100m先の右側に甲府市の天然記念物である「サカイチ」が保存されており、道は桝形になっていました。
09時49分、サカイチ(右側)
050 サカイチ・桝形
桝形道は江戸時代の頃は直角に曲がっていたのですが、現在の交通事情に対応するため、緩やかなカーブに直されています。
サカイチから約500m歩くと貢川交差点となり、右側の日産プリンス山梨販売の脇に旧貢川村の由来標柱が建っていました。
09時57分、貢川村役場・貢川小学校の跡碑(右側)
052 旧貢川村役場跡
貢川交差点から日産の販売店などを眺めながら約350m歩くと前田橋南交差点があり、交差点から約40m先の右側にクリスタルミュージアムがありました。
10時03分、クリスタルミュージアム(右側)
053 クリスタルミュージアム
開館していたのですが、私もMさんも入場料(500円)を支払って見る気がなかったので、そのまま素通りしました。
クリスタルミュージアムから約300m歩くと芸術の森公園があり、さらに約200m進むとミレーの落穂拾いが常設されている山梨県立美術館があり、立ち寄りました。
10時15分、山梨県立美術館(左側)
055 山梨県立美術館
美術館は入場料が510円と思っていたら、65才以上は無料ということで、Mさんともども無料で入館させて頂きました。
館内はフロアでの写真撮影はOKでしたが、展示室は撮影禁止になっていたため、ミレーなどの展示されている絵は撮影できませんでした。
※ミレーの肖像画
056 ミレーの肖像画
展示されているミレーの「落穂拾い」を始めとして常設展示されている絵画を観賞し、旅を忘れるひと時を過ごしました。
また、館外に岡本太郎作の彫刻が展示(12番)されているというので見て帰りました。
※岡本太郎作の彫刻
058 岡本太郎の作品
美術館を出て道中に戻り先に進むと、正面に日本百名山の鳳凰三山(地蔵岳・観音岳・薬師岳)と甲斐駒ケ岳を眺めることができました。
※鳳凰三山・甲斐駒ケ岳
059 鳳凰三山・甲斐駒ケ岳
美術館を出て鳳凰三山などの南アルプスの山々を眺めながら約630m歩くと、中央高速道路の手前に甲府市から甲斐市に入る市境標識が建っていました。
10時44分、市境標識(甲府市から甲斐市)
060 甲斐市境標識
市境標識から約50m歩くと中央高速道路の高架があり、高架の下を潜って約30m進んだ左側の帯金家の手前に石碑が建っていました。
10時46分、髭題目碑・日蓮の遠忌碑(左側)
061 日蓮の遠忌碑
日蓮の遠忌碑は没後550年回忌なので、550年経っても供養して頂けることはすごいなと思いました。
石碑から約400m歩くと名取交差点があり、交差点手前の左側に山縣神社の社標が建っていました。
10時52分、山縣神社社標(左側)
062 山縣神社社標
名取交差点から約280m歩くと真福寺入口交差点の右側角に名取温泉がありました。
10時55分、名取温泉(右側)
063 名取温泉
名取温泉から約400m歩くと中央本線竜王駅まで約300mの竜王駅南交差点があり、交差点を真っ直ぐに渡り約70m先の竜王新町交差点を右折します。
11時02分、竜王新町交差点(分岐=右折)
064 竜王駅南交差点
竜王新町交差点から約90m歩くと右斜めに入る道の角に文政7(1824)年に建立された丸石道祖神がありました。
11時03分、丸石道祖神(右側)
067 丸石道祖神
丸石道祖神のところで道中から外れ、斜め右に進む道を約45m歩くと竜王新町下公民館の隣りに厄除不動尊があり参拝しました。
11時04分、厄除不動尊(右側)
066 厄除不動尊
厄除け祈願をして丸石道祖神が建っている道中に戻り、約180m歩くと左側に称念寺があり、史蹟があるというので立ち寄りました。
11時09分、くり抜き石枠井戸(左側)
070 くり抜き石枠井戸
070-1 解説
※石造六地蔵尊(江戸時代初期のもの)
074 石造六地蔵
称念寺から約90m歩くと中央本線の踏切がありました。
※中央本線第一信州往還踏切
075 第一信州往還踏切
踏切を渡り踏切脇の民家の先隣りに、祠の道祖神が祀られていました。
11時15分、祠の道祖神(左側)
076 社型道祖神
祠形式の道祖神から約130m進むと左側に長尾宅の白壁塀があり、記録に残しました。
11時17分、長尾宅の白壁塀(左側)
077 白壁の旧家(長尾家)
長尾宅から約180m歩いた左側の用水路の手前に、明治32(1899)年に建立された道祖神が建っていました。
11時20分、道祖神(左側)

078 道祖大神
道祖神から約25m先の信号を過ぎた右側に「手打そば 美好庵」があり、昼食に立ち寄りました。
11時21分~12時10分、美好庵(右側)=昼食
079 昼食・美好庵
入店すると開店したばかりのようで、「少しお待ち頂きますが、大丈夫ですか」と聞かれ、「大丈夫です」と応えたのですが、この時はこれから蕎麦打ちするとは思ってもいませんでした。
かき揚げ蕎麦とノンアルコールのビール(私だけ)を注文し待っていると、ご主人の蕎麦打ちをと店員さんの天ぷら揚げが始まりました。
※昼食直後にきつい上り坂があるので、ノンアルコールビールにしたのですが、味だけはビールで、後は気の抜けたビール味でした。
「これから蕎麦打ち」と思いましたが、出来るまで待つしかないので、大人しく待っていると、30分程するとお蕎麦と天ぷらが配膳されました。
081 かき揚げ蕎麦
お蕎麦は手打ちだけあってこしがあり、天ぷらもを含めてとても美味しく待っていた甲斐がありました。
ご主人に「美味しい蕎麦でした」とお礼を云って店を出て、街道旅に戻りました。
店を出ると上り勾配の大きい坂(赤坂)となり、資料では坂上が甲府盆地の外輪山だそうです。
※赤坂の上り坂
082 赤坂
赤坂を約150m上ると右側に、安政年間(1854~1859)に建立された赤坂供養塔が建っていました。
12時13分、赤坂供養塔(右側)
083 赤坂供養塔
そして供養塔の直ぐ先の左側に、正徳元(1711)年に建立された馬頭観音がブロック積みした祠の中に建っていました。
12時13分、馬頭観音(左側)
084 馬頭観音
馬頭観音から約40m赤坂を上ると、右側に諏訪神社の門柱が建っており、門柱から約30m進むと左側に入る道があり、入口に石鳥居が建っていました。
12時14分、諏訪神社門柱(右側)
085 諏訪神社・参道入口
石鳥居を潜ると二又のY字路になっており、左側が諏訪神社、右側が赤鳥居で有名な稲荷神社と、同じところに2つの神社が並んで祀られていました。
神社と寺院が並んで祀られているところは東海道や佐屋街道の街道旅で見たことはありますが、神社が並んで祀られているのは初めてです。
12時15分、右=稲荷神社、左=諏訪神社
086 左諏訪神社・右稲荷神社
※諏訪神社の御柱
087 諏訪神社・御柱
神社から街道に戻り、上ってきた坂を振り返ると雲と靄がかかっていましたが、山梨県からの裏富士を眺めることができました。
12時18分、裏富士(赤坂からの眺め)
088 裏富士山
神社入口の門柱付近から約550m歩くと、右側に県営発電総合制御所があり、この辺りまでが坂と云える上りとなっており、この先は平に近い上りで頂上と云っても良いような感じになりました。
12時27分、県営発電総合制御所(左側)
090 山梨県営発電総合制御所
発電制御所の交差点を過ぎたところで右側を見ると、遠くの山々が眺められました。
※右手に広がる山々
091 右手に広がる山並み
県営発電総合制御所の交差点から約350m歩くと、ホテルファンタジーの手前右側に石仏石塔群がありましたが、廃墟の中に捨てられたような感じでありました。
12時33分、石仏石塔群(右側)
092 石仏石塔群
石仏石塔群から約50m先にセブンイレブンがあり、コンビニ(セブンイレブン)とホテル(ファンタジー)の辺りは三軒茶屋跡だったようです。
12時34分、三軒茶屋跡(右側)
093 三軒茶屋跡?
三軒茶屋跡の道路反対側の左に行く道の角に廿三夜碑(月待講)が建っていました。
12時34分、廿三夜碑・月待講(左側)
094 廿三夜碑
三軒茶屋や廿三夜碑の場所が赤坂の頂上で、この先から道中は下り坂になります。
道中は、頂上の交差点を真っ直ぐに渡り、左側の海老菜給食センターに沿って進み、右側の甲信越第一偉光会館前のY字分岐を左に行きます。
12時37分、Y字分岐(左折)
095 分岐(左側)
分岐を左に進むと、なまこ壁のある家を見ることが多くなりました。
※なまこ壁のある家①
096 なまこ壁の旧家
右側の白壁塀のある家の前にもなまこ壁の家があり、道中はこの先で左に曲がります。
※なまこ壁のある家②
097 分岐(左折)
道中を道なりに左に曲がり約90m歩くと、左側に寛政5(1794)年に建立された庚申供養塔が建っていました。
12時43分、庚申供養塔(左側)
098 庚申供養塔
そして約60m先の十字路を右に曲がるのですが、十字路の左右両角に石塔が建っていました。
12時44分、道標(左側)
099 道標・左側
12時45分、庚申塔(右側)
100 庚申塔・右側
※左側=道標・右側=庚申塔がある十字路
101 分岐(右)
右折する十字路から約30m歩くと、右側に長屋門風の家があり、記録に残しました。
※長屋門風の家(右側)
102 長屋門風の旧家
長屋門風の家から約40m歩くと、土蔵がなまこ壁で出来た旧家があり記録に残しました。
12時47分、なまこ壁の土蔵(左側)
103 なまこ壁の旧家
土蔵がなまこ壁の旧家から約120m歩いた右側の若月商店の先隣りに、自性院がありました。
12時49分、自性院(右側)
104 自性院・丸石道祖神
寺院に入る参道口の左側に丸石道祖神が建っており、参道には明和2(1765)年に敷設された石畳があり、車の進入を禁止にして保存されていました。
自性院を過ぎるとなめこ壁の家の他に白土塀の家など、広い敷地と蔵のある家が軒を連ねていました。
※なめこ壁の家(または蔵)
107 なまこ壁の旧家
※なめこ壁の家
108 なまこ壁の家
※紋章入りの蔵(興石家)
109 土蔵のある旧家(興石家)
興石家?
民主党の参議院議員の興石さんは山梨県選出なので、親戚?
などと、旅には関係ない話しをMさんとしながら先に進むと、左側に白壁の塀に囲まれた豪邸がありました。
※白壁塀となめこ壁の蔵(水上源太郎家)

110 白壁の家(水上家)
110-1 水上家
なめこ壁や白土塀の家は下今井上町交差点を境に見ることがなくなり、次に見たのは塩崎駅を過ぎて宇津谷(金剛地)でした。
12時57分、下今井上町交差点
111 下今井上町交差点
交差点から約60m進み、歩道かと思われる右の道に入り、中部横断自動車道の高架下を潜ります。
※分岐(右側)
112 分岐(右)
さらにそのまま進んで、中央本線が走るガードを潜ります
113 陸橋を走るJR
中央本線のガード手前の左側に、新旧の丸石が積み重なった道祖神が建っていました。
13時00分、新旧丸石積み重ねの道祖神(左側)
114 新旧丸石道祖神
中央本線のガードは赤レンガで出来ており、ガードの壁には動物絵が描かれていました。
※中央本線赤レンガガード
115 赤レンガのガード
中央本線ガードを潜り、約70m歩くと下今井交差点となり、交差点を右折します。
13時02分、下今井交差点(右折)
116 下今井交差点(右)
下今井交差点を右折して県道6号を約350m歩くと、右側に武田勝頼夫人が燃える新府城を見て涙を流したという泣石がありました。
13時07分、泣石(右側)
117 泣石
117-1 解説
泣石から約170m歩くと塩崎駅入口交差点があり、改良工事中の駅前を眺めながら通り過ぎました。
13時11分、塩崎駅入口交差点
119 塩崎駅前交差点
※工事中の塩崎駅前
120 塩崎駅
塩崎駅前から約260mの東川を渡り、さらに約120m歩くと右側に文化15(1818)年に建立された丸石道祖神がありました。
13時16分、丸石道祖神(右側)
121 丸石道祖神
丸石道祖神から約5~6m先に、寛政5(1793)年に建立された三界萬霊塔が建っていました。
13時16分、三界萬霊塔(右側)
122 三界萬霊塔
石塔の直ぐ先の道路反対側に旧庄屋宅の広大な敷地に豪壮な家が建っていて、道路に面した建物はなまこ壁で出来ていました。
13時17分、旧庄屋宅・正面玄関入口(左側)
123 旧庄屋宅・玄関
※旧庄屋宅・なまこ壁の建物が軒を連ねる(左側)
124 旧庄屋宅
※旧庄屋宅・なまこ壁の建物が軒を連ねる(左側)
125 旧庄屋宅
旧庄屋宅から双葉西小学校を通り過ぎるなど約350m歩くと右側に丸石道祖神があり、その後ろに応永4(1397)年に建立された真ん中が反り返っている明神鳥居が建っていました。
13時26分、丸石道祖神(右側)
128 丸石道祖神
※明神鳥居(右側)
129 船形神社の石鳥居
鳥居を潜って参道を進むと、奥に船形神社が祀られていました。
丸形道祖神から約55m先に進むと、左側の建物と道路との間に祠があり道祖神が祀られていました。
13時28分、祠の道祖神(左側)
130 道祖神
道祖神から約40m歩くとセブンイレブンがあり、トイレをお借りして少し休憩を取りました。
トイレを終え、コンビニから約70m歩くと右側に双葉電気があり、その手前を右に入って約20m先の六反川手前の左側に芭蕉句碑が建っていました。
13時34分、芭蕉句碑(右側)
131 芭蕉句碑
句碑から街道に戻り、六反川を渡って約170m歩くと田端交差点があり、右折しました。
13時37分、田端交差点(分岐=右折)
132 分岐(右)
田端交差点を右折すると緩やかな上り坂となり、左側に宇津谷(金剛地)の標識が建っていました。
金剛地は土蔵、土塀が多く残っている地域で、集落に入ると沢山ありました。
※宇津谷(金剛地)標識
133 部落標識
田端交差点から約450m歩くと、中央本線の脇に出る手前のY字路の分岐のところに、2基の廿三夜塔が建っていました。
13時43分、廿三夜塔(左側)
134 廿三夜塔
Y字路の分岐から約35m歩くと左に直角に曲がる細い道があり、左折して進みます。
135 分岐(左)
※金剛地集落の土蔵と土塀群
136 金剛地の土蔵・白塀
直角に左折して右に曲がりながら約250m歩くと、二又に分岐するY字路となり右に進みます。
※Y字路分岐を右方向
137 分岐(右)
さらに約35m先の道(最初に左折できる道)を左折しました。
準備した地図は二又に分岐するY字路を左に進むようになっていましたが、地元の方が「旧道はこっちだよ」と教えて下さいました。
※分岐(左折)=最初に左折できる道
138 分岐(左)
左折して約50m歩くと、Y字路の左方向からきた道と合流しました。
※合流(直進)
139 合流
合流してから約100m歩くと、県道6号に合流し、右折して進みました。
13時51分、県道6号に合流(右折)
140 合流
県道6号を約170m歩くと、塩川橋の手前に分岐があり、左に進み塩川橋を渡りました。
※分岐(左方向)
141 分岐(左)
※塩川橋から南アルプスの眺望
142 南アルプス
※塩川橋から裏富士の眺望(左方向)
145 裏富士山(塩川橋)
塩川に架かる塩川橋を渡ると、甲斐市から韮崎市に入る市境標識が左側に建っていました。
13時57分、市境標識(甲斐市から韮崎市)
146 韮崎市境標識
市境標識を過ぎると直ぐに塩川橋西詰交差点となり、交差点の分岐を右に進みました。
13時58分、塩川橋西詰交差点(分岐=右折)
147 塩川橋西詰(右)
塩川橋西詰交差点を右折して約800m歩くと韮崎警察署があり、その隣りに韮崎市立病院が建っていました。
14時10分、韮崎市立病院(左側)
148 韮崎市立病院
韮崎市立病院から約400m歩くと下宿交差点があり、この交差点まで道路脇に建っていた電柱がなくなりました。
14時14分、下宿交差点
150 信号先は電柱なし
また、下宿交差点の左側に鰍沢横丁跡の石碑が建っていました。
14時15分、鰍沢横丁跡(左側)
151 鰍沢横丁碑
下宿交差点から約300m歩くと、右側に昭和5年に創業した井筒屋醤油店がありました。
14時19分、井筒屋醤油店(右側)
152 井筒屋醤油店
井筒屋醤油店から道路を隔てた斜め向かい側に仏具店の喜月堂があり、駒つなぎ石が残されていると史料に記されていたので行きましたが、新しい店舗に改築された時に撤去したのか建物の周りを見ましたが、見付けることは出来ませんでした。
14時19分、喜月堂(左側)
153 喜月堂
左側の喜月堂から右側に道路を渡り山梨中央銀行韮崎支店から約50m先のサイトウ理容店と千野眼科医院の間を右折して(白矢印・黄色線は道中進行方向)一橋陣屋跡を見に行きました。
※分岐(右折)
154 分岐(右)
一橋陣屋跡は、サイトウ理容店に沿って右折して約60m進むとT字路の突き当りになり、そこを右折して約10m先の左側にある公園の入口に石碑と解説パネルが建っていました。
14時22分、一橋陣屋跡(右側)
155 一橋家陣屋跡
一橋陣屋跡から来た道を引き返して道中に戻る右側の千野眼科医院の場所は、韮崎宿の本陣があった場所だったそうです。
14時25分、韮崎宿本陣跡(右側)
156 韮崎宿本陣跡
本陣跡の千野眼科医院に沿って道中に戻ると、道路向かい側に弘化2(1845)年に旅人宿として創業した老舗の清水屋があり、現在も旅館業を営んでいました。
14時26分、旧旅籠・清水屋(左側)
157 旧旅籠・清水屋
清水屋から目を真っ直ぐに戻して約40m歩くと、本町第二交差点手前の右角に上田商店があり、店の前に駒つなぎ石が保存されていました。
14時28分、駒つなぎ石(右側)
158 駒つなぎ石
上田商店から本町第二交差点を真っ直ぐに渡り約80m歩くと本町交差点で、今日の旅の到着地に着きました。
14時29分、韮崎・本町交差点(到着地)
159 本町交差点
交差点の角に立ち、到着のボードを持って恒例の到着式を行い、旅を終了しました。
【帰路】
到着式を終え、交差点から約430m離れている韮崎駅に向いました。
※韮崎駅に向かう道から見た本町交差点

161 本町交差点
黄色矢印=道中の進行方向、白矢印=JR韮崎駅方向
本町交差点から約240m歩くと右側に韮崎漢方薬局があり、薬局に沿って右折して細い路地に入ります。
163 分岐(右折)
細い路地を約80m進むと五差路となり、ここを真っ直ぐ駅下の天神町ガードを潜り、約30m先の左側の階段を上って韮崎駅に着きました。
※天神町ガード(上部は韮崎駅ホーム)
164 分岐(ガードを潜る)
14時37分、韮崎駅
165 韮崎駅
帰路は特急に乗車しないで各駅停車で帰ります。
あと5~6分早く駅に着いていれば1本前の電車に乗車出来たのですが、急ぐ旅でもないので、予定していた電車で帰ることにしました。
乗車する韮崎駅は甲府駅の3つ手前の駅で、特急列車が停まります。
多くの人は先に発車する特急列車に乗りましたが、先を急がない私とMさんは立川まで2時間に及ぶ各駅停車を選びました。
※駅前ロータリーに設置されたモニュメントとノーベル賞を受賞した大村先生を祝う横断幕
166 韮崎駅前モニュメント
※韮崎駅ホームから見える平和観音像(白丸)
167 平和観音(韮崎駅ホームからの眺め)
※JR韮崎駅ホーム
168 韮崎駅ホーム
15時08分、韮崎駅発
定刻に着いた列車は30%くらいの乗車率で到着し、4人掛けのボックスシートに座り帰路に着きました。
列車が走り出してから直ぐにMさんから栄養ドリンクを頂くと(前回の旅でも頂いた)、急に力モリモリではありませんが、睡魔に襲われることなくMさんといろいろなことを話しながら帰ってきました。
今日はMさんご夫婦が私の体調を心配して(きちんと栄養が摂られていないのではないかと)、「夕食を一緒に食べましょう」とお誘い下さり、お言葉に甘えて立ち寄らせて頂くことになりました。
【おまけ】
Mさん宅に向かう途中、スーパーに立ち寄って乾杯用の缶ビールを買い、我が家に行く道を通り過ぎMさん宅に向いました。
奥さんの出迎えで家の中に入り、用意されていた鍋を囲んで乾杯し、歓談の時間を過ごしました。
Mさんは乾杯に注いだコップビールを飲み干すのがやっとで、これ以上飲ませると寝てしまうというので、奥さんと飲むことになりました。
約2時間、ビールと鍋で満腹にして頂き、家に帰って入浴もしたいので、20時30分過ぎにMさん宅を失礼し自宅に帰りました。
快適な旅と美味しい食事で、充実した一日を過ごすことができました。

【次回の予定】
1月から3月は寒さが厳しいので、街道旅はお休みし、次回は4月に「韮崎・本町交差点からすずらんの里・神戸八幡交差点までの37.37㎞を
①韮崎・本町交差点~台の原・梅屋旅館前 18.14㎞
②台の原・梅屋旅館前~金沢・神戸八幡交差点 19.23㎞
の一泊二日の行程で旅をする予定です。
一日当たりの旅距離は長くなりますが、最寄り駅への移動を考慮して決めました。
また、旅の日程は4月と5月に諏訪の御柱祭りがあるので、相方のMさんと相談して決めたいと思います。
《旅の日程》
次回の旅は、当初予定していた梅屋旅館が廃業したため、約40m手前のつるや旅館に宿泊することになりました。
また、旅の後は、すずらんの里駅から上諏訪駅に移動し、上諏訪のホテルに宿泊して翌8日から始まる下社御柱祭りの木落としを見学することになりました。
①4月6日(水) 韮崎・本町交差点~台の原・つるや旅館前 18.10㎞
②4月7日(木) 台の原・つるや旅館前~金沢・神戸八幡交差点 19.27㎞
③4月8日(金) 下社御柱祭り(木落とし)

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


 

【天候】 晴れ・曇り
【宿場】(27)鶴瀬宿・・・(28)勝沼宿・・・(29)栗原宿・・・(30)石和宿
【行程】歩行距離=18.08㎞ 総距離=135.46㎞
R20大和橋西詰交差点⇒(3.09㎞)⇒深沢入口交差点⇒(3.14㎞)⇒等々力交差点⇒(3.75㎞)⇒日川橋北詰⇒(4.08㎞)⇒R411号合流⇒(4.02㎞)⇒酒折駅前交差点
【ルート図】
  宿場(黒囲みが第10回旅の宿場)
第10回宿場
  旧甲州道中の旅・進捗状況
第10回全体ルート
  第10回の旅ルート
   (R20大和橋西詰交差点 ⇒ 酒折駅前交差点)
第10回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
笹子峠を越え、今回は甲斐大和駅から約800m離れた国道20号大和橋西詰交差点から箱根駅伝で有名な山梨学院大学がある酒折駅前交差点(甲府駅の2駅手前)まで旅をします。
今回から山道から街場の舗装路の歩きになるので、長距離用のウォーキングシューズで歩きます。
《準備》
旅の準備で一番根気がいるのが、行程や史跡場所などを地図に書き込むことです。
今回はいろいろな用事が多く入ったため、前回旅のブログ作成や旅資料を作成する時間が取れず、やっと2日前に終わりました。
史跡の場所などを地図に書き込む作業は大変ですが、私自身は結構楽しんで作業をしているので、いままで大変と感じたことはありません。
逆に、どのあたりに何があるということがインプットされて旅の効果を高めています。
今回もネット情報(先人のブログやHP)を参考にして準備を始めると、旧街道を歩く道が部分的に違っていたり、史跡の場所が違っていたりしたため、他のネット情報を調べ何処にするか判断しています。
《移動》
目覚ましの音楽で目を覚まし、洗面、血圧・体重測定、両足のケアを行い、用意しておいた衣服を着て旅支度を整えました。
今日はこの秋、一番の寒さになったので、最初考えていなかったダウンジャケットを着用して自宅を出発しました。
朝の澄み切った冷たい風を顔に受けながら最寄り駅に向かい、最寄り駅でMさんと合流し旅に出発しました。
08時01分、甲斐大和駅着
002 甲斐大和駅
駅舎を出ると駅前には大菩薩嶺に向かうバスが停まっており、座席はほぼ満席に近い状態になっていました。
私とMさんはバスの前で駅舎をバックに写真を撮り、バスとは反対方向の今日の出発地に向けて出発しました。
駅を出て県道203号を約450m歩くと、国道20号に合流し、約100m歩くと日川に架かる大和橋があり、大和橋を渡った先の出発地です。
※大和橋
003 大和橋
橋を渡りながら右側の山裾を見ると、木々が紅葉に色付いていました。
004 大和橋の紅葉
【=旅=】
08時15分、R20大和橋西詰交差点(出発地)
005 大和橋西詰交差点(出発地)
出発地の国道20号の大和橋西詰交差点に立ち、相方のMさんにセレモニーの協力をお願いし恒例の出発式を行い、旅をスタートしました。
出発して約180m歩くとR20から左側に分岐し、R20に並行した立会橋を渡ります。
08時18分、立会橋
006 立会橋
立会橋を渡り終えたところでR20と分岐して左に進み、約25m歩くと左側に地蔵尊がありました。
08時19分、金岡自画地蔵尊(左側)
007 金岡自画地蔵尊石碑
地蔵尊から約20m先の右側に、鶴瀬関所跡があり、標柱と解説パネルが建てられていました。
08時20分、鶴瀬関所跡
008 鶴瀬関所跡
関所跡から約15m歩くとR20と合流しますが、旧道中はR20を斜めに横切るのですが、現20号を横切った左側に鶴瀬宿碑と標柱が建っていました。
08時25分、鶴瀬宿碑(左側)
010 鶴瀬宿碑(脇本陣跡)
宿碑の脇に建っている絵図によると、この辺りは脇本陣跡で、本陣跡は塩野家が務めていたそうなので、数軒先の塩野家が本陣跡と勝手に決め込んで記録に残しました。
※鶴瀬宿本陣跡?(塩野家)=右側
011 鶴瀬宿本陣跡(塩野家)
旧道中は下の写真のようにR20を斜めに横切ります。
写真の中央左寄りの電柱の脇に鶴瀬宿碑があります。
012 分岐(左)
R20を横切った旧道中は、左に曲がりながら再びR20に合流しますが、合流する手前の右側に1803年に建立した常夜燈が残っていました。
08時29分、常夜燈(右側)
013 鶴瀬宿常夜燈
R20に合流して約130m歩くと、国道の歩道より一段高いところを歩ける道がありますが、カーブした先で合流するので、どちらを歩いても同じです。
014 分岐(先で合流)
どちらを歩いても同じ道が合流した処から約400m歩くと右側に真龍寺があり、寺院からさらに約200m歩いた右に上る道の脇に古跡「血洗澤」の標柱が建っていました。
08時40分、古跡・血洗澤(右側)
015 血洗澤碑
血洗澤碑から約450m歩くと、ブロック積の擁壁の上に鞍懸の標柱が建っていました。
08時46分、鞍懸の標柱(右側)
016 鞍懸の碑
鞍懸の標柱を記録に残し約110m歩くと、正面にトンネル(隊道)があり、トンネルの手前に右に上り坂があり、旧道中は細い脇道に入ります。
08時50分、観音堂旧道入口(右側)
017 分岐(右)
急坂を登ると左手に聖観音堂の標柱があり、標柱に沿うように右へ曲がりながら進みます。
018 観音堂標柱とY字路分岐(左)
Y字路を左に進み、右に行くと墓地に出てしまいますので、注意して下さい。
020 歩行路
坂を登って行くと道の両側に灯篭が建っていますので、灯篭があれば道は正解です。
距離は測定していませんが、観音堂標柱の脇から約2分くらいです。
021 燈籠
灯篭の間を抜けてさらに登ると赤い屋根の観音堂が右側に建っています。
※観音堂(右側)
022 観音堂
お堂の前を左折すると両側に灯篭があり、間を抜けると甲府盆地が眺められる崖の突端で、安藤広重が「古今絶景地」と評したところです。
023 急下り坂①
私とMさんは突端からの細い急坂の崖道(鎖もガードもない)に神経が集中し、景色を見ることを忘れていました。
024 急下り坂②
細い砂利混じりの崖道から滑り落ちないように慎重に歩き、鉄パイプのガードが付いた場所に下り下道に合流したところで、左折して舗装路を進みます。
観音堂からの下り道は笹子峠より厳しい道で、笹子峠を上回る厳しい道を歩くとは考えていなかったので、驚きました。
09時00分、下道に合流(左折)
025 下道合流点
合流地点から約40m歩くとR20の下を潜ります。
026 国道20号下
R20の下を潜ると左側に武田不動尊の標柱と常夜燈が建っており、下に下りれる階段が設けられていました。
09時02分、武田不動尊標柱・常夜燈(左側)
027 武田不動尊標柱・燈籠
Mさんに「下に行きますか?」と聞くと「行きません」と云うので、標柱などを記録に残して先に進むと、滝の音がするので左側を覗くと木々の間から少し水の流れが見えました。
※武田不動尊の滝(左側)
028 日川の滝
滝は下って不動尊の近くに展望台があり眺められるそうです。
不動尊の標柱から約110m歩くと、左側に旧道中標柱が建っており、歩いている道が正しいことにホッとしました(旧道中標柱は右側にも左側より約10m先にも建っていました)。
09時06分、旧甲州道中標柱(左側)
029 旧甲州街道標柱
※横吹地区からの紅葉と甲府盆地の眺め
030 横吹地区からの紅葉の眺め
横吹の旧道中を歩くとR20に合流し、道路を渡って進行右側に移り歩道を進みました。
09時15分、分岐(R20合流)=直進
031 R20合流
合流地点からR20を約500m歩くと117.4㎞距離標(白丸印)が設置されており、横吹一里塚があったところではないかと推測されているところです(現在は史跡を記すものは何もなし)。
※117.4㎞距離標付近=横吹一里塚跡?
4㎞付近)
117.4㎞距離標から約60m先の左側に、大和町・勝沼町モニュメントが設置されていました。
09時22分、大和町・勝沼町モニュメント(左側)
033 大和町・勝沼町モニュメント
モニュメントから約170m歩くと深沢交差点があり、交差点の道路を渡った右側に新撰組の近藤勇の像が建てられていました。
09時24分、深沢入口交差点
034 深沢交差点
※近藤勇の像(右側)
035 近藤勇の像
深沢交差点の右側には、柏尾古戦場跡碑、柏尾橋由来記、柏尾坂の馬頭観音、明治・大正の柏尾橋などの史跡が公園風に整備されて残されていました。
※柏尾古戦場跡・柏尾橋碑
036 柏尾古戦場跡標柱・柏尾橋碑
※馬頭観音像・解説碑
037 柏尾坂の馬頭観音
※公園風史跡展示
038 柏尾橋脇の史跡群
※明治時代の柏尾橋跡
039 明治柏尾橋跡
039-1 解説
※大正時代の柏尾橋跡(白丸印は当時の橋台跡)
040 大正柏尾橋
040-1 解説
※現在の柏尾橋
041 昭和柏尾橋
柏尾橋を渡って約150m歩くと、718年建立で、甲斐第一の寺、別名「ぶどう寺」といわれている大善寺があり立ち寄りました。
09時33分、大善寺(右側)
042 大善寺入口
入口の看板に国宝・史蹟民宿と、何とも奇妙な看板が掲げられていました。
国宝は本堂と薬師堂で拝観するには拝観料が必要で、史蹟民宿の意味は分かりません。
ただ10名以上で予約すると昼に精進料理が食べられるそうです。
Mさんに「有料ですが、どうしますか?」と聞くと、「見なくていい」というので、外から見れるところを見ようと仁王門に向かいました。
※仁王門
044 仁王門
仁王門を潜ると階段があり、仁王門に「ここから先は拝観料が必要です」と張り紙が貼られており、私とMさんは仁王門から見れる紅葉を見て旧道中に戻りました。
※仁王門からの紅葉の眺め
045 参道階段・紅葉
大善寺を出て約250m歩くと柏尾交差点となり、後ろから歩いてきた夫婦連れに会いました。
09時44分、柏尾交差点
048 道路標識
旧街道はこの交差点を右折して塩山・山梨・勝沼方面に向かうのですが、追いついてきた夫婦に、
M=街道旅ですか?
夫=そうです
M=どちらまで行かれるのですか?
夫=石和です
M=温泉に入いられるのですか?
夫=そうです
M=気を付けて
と云って別れ、夫婦連れは私達を追い越して先に行きました。
「地図を持たないで旧道が分かるのだろうか?」、「20号を歩いているのでは?」などと、先に歩いて行った夫婦のことを話してながら出発しました。
さて、我々の旅ですが、交差点を右に曲がって進もうとすると、Mさんが「あそこに史跡がありますよ」と云って道路の反対側の交差点を渡った先に史跡の標柱が建っており、信号の合間を縫って道路を渡り史蹟の標柱のところに移動しました。
049 柏尾交差点(分岐・右)
道路を渡った進行左側の交差点の角に、「御身影岩」と記された標柱が建っており、記録だけ残して進行右側に交差点を渡って戻りました。
09時46分、御身影岩(左側)
050 御身影岩標柱
この辺りは勝沼ぶどう郷のとおり、進行左側には名物の「ぶどう園」が軒を連ねています。
交差点から約350m歩くと左側の仁果園の道路反対側に国見坂碑が建っていました。
09時51分、国見坂碑(右側)
051 国見坂標柱
国見坂碑を過ぎると道路の反対側に鈴木園があり、紅葉が見事な色付きなっており、眺めながら通り過ぎました。
09時52分、鈴木園の紅葉(左側)
052 鈴木園の紅葉
鈴木園から約260m歩くと右側に上行寺の石碑が建っており、道路反対側に勝沼宿の標板が建っていました。
09時56分、上行寺入口(右側)
053 上行寺・石碑
09時56分、勝沼宿碑(左側)
054 勝沼宿碑
勝沼宿碑の隣りに勝沼氏館跡の駐車場があり、駐車場を入った奥に跡碑が建っていました。
※勝沼氏館跡駐車場(左側)
055 勝沼氏館跡
勝沼氏館跡駐車場を出て、進行方向右側に渡って約50m歩くと甲州タクシーの前に勝沼宿脇本陣跡の標柱が建っていました。
10時00分、勝沼宿脇本陣跡(右側)
056 勝沼宿脇本陣跡
脇本陣跡から約60m歩くと上町交差点となり、道路反対側に昔懐かしい日用品を売る三森商店がありました。
10時01分、三森商店(左側)
057 三森商店
上町交差点から約50m歩くと勝沼宿の本陣跡があり、槍掛けの松が生育されていました。
10時02分、本陣跡・槍掛けの松(右側)
058 本陣跡・槍掛けの松
※格子戸と白壁蔵が建つ勝沼宿の現在
060 旧家の家並み
本陣跡から約70m歩くと、商家建築で史跡として残っている仲松屋がありました。
10時04分、仲松屋(商家建築)=左側
061 商家建築・仲松屋跡
東側(向って左側)が江戸時代、西側(向って右側)が明治時代に建てられたものだそうです。
仲松屋から約140m先の右側(ヘアーサロン向山の前)に、三階建ての蔵が残っていましたが、かなり外壁が傷んでおり、修復が必要な状態になっています。
10時09分、三階建ての蔵(右側)
063 三階建ての倉
3階建ての蔵から約60m歩くと、右側に田中銀行がありました。
10時10分、旧田中銀行博物館(右側)
064 旧田中銀行社屋
明治時代に建てられた洋風建築の建物で、内部を見学したいと思っていたのですが、11月~3月は土・日だけの開館のため、金曜日の今日は閉館されており見学することが出来ませんでした。
064-2 開館案内
旧田中銀行博物館から約150m歩くと、右側に「海抜400m・経度緯度」碑、ようあん坂標柱が建っていました。
10時14分、海抜400m・経度緯度碑(右側)
065 ようあん坂碑・海抜400m碑
ようあん坂碑の直ぐ横で勝沼小学校正門の左側に、明治天皇勝沼行在所跡、勝沼学校跡碑(標板)が建っていました。
10時14分、明治天皇勝沼行在所跡、勝沼学校跡碑(標板)=右側
066 勝沼学校跡・明治天皇行在所址
※ようあん坂
067 ようあん坂
ようあん坂を約230m下ると廃業している右側の塩山写真館の道路真向いに、赤レンガ積み塀の家があり、記録に残しました。
10時19分、赤レンガ塀の家(左側)
068 旧家・赤レンガ積み塀
赤レンガ塀の家から約190m進むと、左側に護念寺があり、参道の途中に鐘楼門があり、境内で休憩することにしました。
10時23分、護念寺・鐘楼門(左側)
069 護念寺・仁王門
ここまでゆっくりと休憩していないので、ザックを降ろし、持参したスポーツ羊羹を食べ、体調を整え再出発しました。
10時23分~10時30分、休憩
護念寺を出て勝沼地域総合局入口交差点を過ぎるなど約550m歩くと早川商店(右側)があり、その手前を右折して約100m歩くと境内に天神様・お稲荷様・石尊様などの諸社が祀られている諏訪神社がありましたが、同行のMさんに「立ち寄ります?」と聞くと「いえ、寄りません」と答えが返ってきたので、そのまま通過しました。
そして早川商店を過ぎて約160m歩くと、右側に入る路地の角に球形道祖神と常夜燈が建っていました(左側はぶどう狩りの自由園)。
10時40分、球形道祖神・常夜燈(右側)
070 常夜燈・球形道祖神
道祖神から約200m歩くと等々力交差点があり、そのまま真っ直ぐに渡って前進します。
10時43分、等々力交差点
071 等々力交差点
等々力交差点を渡り、右側の勝沼等々力簡易郵便局を過ぎるなど約210m歩くと、左側のヤマザキデイリーストアの前に、大きな古民家の「ほうとう」で有名な「皆吉」があり昼食に立ち寄りました。
10時47分~11時45分、昼食=ほうとう「皆吉」(右側)
072 ほうとう・皆吉
最初は皆吉ということが分からず、「大きな古民家だ」と云っていたのですが、地図を確認すると、この古民家(約130年の歴史がある建物)が皆吉ということが分かりました。
皆吉は11時開店ということで開店まで待つのですが、既に2組が並んでおり、3組目に並びました。
開店までに5組が並び、待っている時に注文取りがあり、私は野菜ほうとう、Mさんはきのこほうとうを注文しました。
※お品書き
072-1 おしながき
開店となり順番に店内に入り、私とMさんは靴を脱ぎたくなかったので、土間のテーブル席に座り、配膳を待ちましたが、出来上がるのに時間を要し、配膳をされたのが入店してから20分してからでした。
待っている間にも入店があり、私達に配膳された頃には平日にも関わらずほぼ満席状態になっていました。
※野菜ほうとう

073 野菜ほうとう
配膳された出来立てのほうとうをフーフー云いながら食すと、薄味の味噌煮込みのほうとうはさっぱりとした味で噂どおり美味しく、スープを少し残しただけで全て食べ切りました。
約1時間、昼食を味わい、皆吉を出発しました。
皆吉を出て路地を隔てたところに延命地蔵堂が建っており、杉御坊と文政の常夜燈が建っていました。
11時47分、延命地蔵堂・文政の常夜燈(右側)
075 延命地蔵堂・文政の常夜燈・杉御坊
延命地蔵堂から約300m歩くと、右側にロリアンワイン(白百合酒蔵)のワイン工場があり、食べたばかりですが試飲出来るというので、立ち寄りました。
11時50分~11時58分、ロリアンワイン(右側)
076 白百合酒造・ロリアンワイン
建物に入ると先客はおらず私とMさんだけで、従業員も急いでそれぞれの配置に着き、ワインの試飲を勧められました。
今日はこの10㎞近く歩くため、少しずつ試飲させて頂きました。
※試飲場
077 試飲会場
私はほとんどワインを飲むことはありません(現役の頃、ワインで酔いつぶれた苦い経験があり、それ以来ワインを飲むのを避けています)。
久し振りに飲んだワインはとても美味しく、その中でこのワインが一番気に入りました。
※美味しかったお奨めワイン
078 辛口の赤ワイン
※ワイン工場
079 ワイン樽
旅が遅れているため、試飲の時間を短縮して先に進みました。
ロリアンワインを出て直ぐの右側に、甲州市から山梨市に入る市境標識が建っていました。
11時59分、市境標識(甲州市から山梨市)=右側
080 山梨市市境標識
ロリアンワインを出発して途中、上栗原交差点を真っ直ぐ渡り、左側の富士植木山梨支店を過ぎた先の小さな分岐を道なりに左に進むなど、約1.1㎞歩くと左側に大戸屋研修センターの前に小さなお社を祀った神社があり、道路端でしたが帽子を取って一礼して通り過ぎました。
12時13分、小さな神社(右側)
081 小さい神社
小さな神社から約230m歩くと、分岐があり、右に進みます。
※分岐(右)
082 分岐(右)
分岐から約20m先に十字路があり、道中は真っ直ぐ(黄色矢印)に進むのですが、私達は十字路を右折(白色矢印)して大宮五所大神に立ち寄りました。
※十字路分岐(右折)
083 分岐
12時16分、大宮五所大神
084 大宮五所大神・鳥居
神社には明和・安政年間の絵師が描いた浮世絵風芝居の絵馬が奉納されているのですが、見ることはできませんでした。
※絵馬奉納の説明板
087 絵馬の解説
また、神社の境内に山梨市天然記念物のクロマツが植生されていました。
086 クロマツ(山梨市天然記念物)
神社を出て右折した十字路に戻り、十字路を右折して道中に戻り約20m歩くと、道中は直角に左折しています。
その左折する角に旧旅籠の源屋だった源屋園があり、敷地に名残りの松が建っていました。
12時22分、源屋園(右側)
088 旧旅籠・源屋
新しく建てられた住居の屋根を見ると、姓入りの鬼瓦が備えられていました。
※姓入りの鬼瓦
089 鬼瓦(名入り)
直角に左折して約40m歩くと国道411号が通っており、国道をそのまま真っ直ぐに横切り(※1)、細い道を約150m進むと日川の土手道に合流(※2)し、道なりに右に進みます。
(※1)国道411号を横切る
090 分岐(直進)
(※2)日川の土手道に合流
091 分岐(右)
日川の土手道を約110m歩くと、右折すると下栗原交差点に通じる新日川橋(北詰)の十字路となり、真っ直ぐ横切って進みます。
※新日川橋(北詰)
092 分岐(直進)
十字路から約300m歩くと正面右手に電波塔があり、その手前の右に入る道を右折します。
※分岐(右折)
093 分岐(右折)
土手道を右折して約45m歩くと再び国道411号に突き当り、左折しましす。
※分岐(左折)
094 分岐(左折)
国道411号を約150m歩くと、右側に上杉ボデーがあり、その真向いに道中碑が建っていました。
12時37分、道中碑(左側)
095 旧街道標柱
旧道中碑から約150m歩くと左側に日川警察官駐在所があり、その先隣りに明治天皇小休所址碑が建っていました。
12時42分、明治天皇小休所址(左側)
096 明治天皇小休所址
址碑は、道路から90度左向きに向いて建っており、何故このような向きに設置したのか分かりません。
址碑から約70m歩くと農機具販売の店があり、見たことがない機器が展示されていたので、記録に残しました。
※農機具販売店(右側)
097 農業機械
農機具販売店から約150m歩くと、プロレスのジャンボ鶴田さんや小説家の林真理子さんを輩出し、ラグビーや高校野球でも全国大会に出場している日川高校に通じる交差点があり、そのまま日川高校を右側に見て通り過ぎました。
12時45分、日川高校入口交差点(右側)
098 日川高校前交差点
日川高校入口交差点から約120m歩くと右側に旧家の大きな家があり、道路の反対側に石鳥居のある石塔群がありました。
※大きな家(右側)
099 旧家の大きな家
※石鳥居と石塔群(左側)
100 鳥居と石塔群
鳥居のある石塔群から約130m歩くと、右側に異形の枝ぶりになった松が植生されている家がありました。
12時49分、異形の松(右側)
101 異形の松①
102 異形の松②
松の家から約90m歩くと一町田中交差点となり、道中は左折(黄色矢印)するのですが、右に曲がる(白色矢印)と田安陣屋跡があり、見学するために右折しました。
12時51分、一町田中交差点(右折)
103 一町田中交差点
交差点から約110m歩くと左側に水上稲荷神社があり、神社の前に田安陣屋跡碑が建っていました。
12時53分、田安陣屋跡(左側)
104 田安陣屋跡
※水上稲荷神社・本殿(左側)
107 水上稲荷神社・本殿
水上稲荷神社に参拝し、歩いてきた道を交差点まで戻り、一町田中交差点を真っ直ぐに横切って進みました。
※一町田中交差点(陣屋跡からの戻りは白色矢印のように直進。黄色矢印は陣屋跡に立ち寄らなかった場合の旧道中の道順)
108 一町田中交差点
一町田中交差点を横切った道は、約200mで日川の土手道に突き当り、右折して進みます。
※分岐(日川土手道=右折)
109 分岐(右折)
土手道を約130m歩くと日川に架かる日川橋があり、左折して日川橋(北詰)を渡ります。
なお、歩道が進行右側のため、道路を渡って右側を歩かないと交通量が多いので危険です。
13時01分、日川橋(北詰=左折)
110 分岐(日川橋北詰)左折
※日川橋
111 日川橋
日川橋を渡りきったところを左折するため、車の往来を確認して道路を渡り、日川南側の土手を歩きます。
※日川橋(南詰=左折)
112 分岐(日川橋南詰)左折
ほとんどの先人が歩かれた旧甲州道中は、日川橋を渡った南詰を通り過ぎて左側の甲斐犬の犬舎前(六花荘)を右折しているのですが、旧道は左折して約80m先の細い階段道を下り、田中旧道を歩きます。
※田中旧道入口(右折)
113 分岐(右折・階段下り)
※細い階段道を下り、下ったところを右折して田中旧道に入ります。
114 階段下り
※田中旧道の眺め
115 田中旧道
右側の甲斐犬の犬舎(犬舎の前はあまり人が通らないのか、凄い勢いで吠えられました)の横を通り過ぎ、車道真っ直ぐに渡りました。
※甲斐犬の犬舎横(直進)
116 分岐(直進)
甲斐犬前の道路から約50m進むと、右側に白山神社があり、境内に球形道祖神がありました。
13時11分、白山神社(右側)
117 白山神社
※球形道祖神(右側)
118 球形道祖神
白山神社を出て土手道に沿って約750m歩くと、右側に大きな石碑と白壁で中が三層になった土蔵が建っていました。
13時21分、宮下翁頌徳碑・白壁の土蔵(右側)
119 宮下翁頌徳碑・白壁の蔵
石碑から約230m歩くと土手道に突き当り、左に進みます。
※日川土手道分岐(合流=左折)
120 分岐(左折)
※モーテル・リバーサイドホテル(左側)
121 リバーサイドホテル
土手道を約300m歩くと国道411号に合流し、合流する左側に街道碑が建っていました。
13時29分、甲州桃太郎街道碑(左側合流点)
122 分岐・甲州桃太郎街道碑
旧道中は国道411号の合流地点から約600m先の県道314号の基点となる交差点まで幹線道路沿いを歩くのですが、真ん中付近までの約300mは歩道がない右側の車道を歩くので、大型車が走ってくると巻き込まれないように注意して歩かないといけない危険ゾーンです。真ん中から交差点までの約300mは歩道が出来ています。
13時36分、笛吹橋交差点(右折)
123 分岐(笛吹橋西)右折
※笛吹川に架かる笛吹橋
124 笛吹橋
13時39分、石和温泉郷東入口交差点(左折)
125 石和温泉郷東入口交差点
交差点を左折して国道411号を約110m歩くと笛吹橋西バス停があり、その前を右折して松並木に沿って左側に下ります。
※分岐(笛吹橋西バス停前)
126 分岐(右)
旧道中は笛吹川沿いに植生された松並木に沿って約300m歩くと、松並木の終わりのところで国道411号から分岐した道に合流します。
※笛吹川沿いの松並木(左側)
127 松並木
※合流(杉寿司手前)=右方向
128 分岐
合流地点の道路左側に笛吹川と呼ばれる語源となった笛吹権三郎像と球形道祖神が建っていました。
13時48分、笛吹権三郎像・球形道祖神(左側)
129 笛吹権三郎の碑・球形道祖神
笛吹権三郎像から約170m歩くと右側からの道と合流する直前の左側のブロック塀に沿った細い道に左折します。
※分岐(左折)
130 分岐(左折)
細い道を約50m歩き、最初の右折できる道に曲ります。
※分岐(右折)
131 分岐(右折)
細い道を歩くと右側に三井美容室があり、店舗を過ぎた先(右折から約170mの地点)を右折して、直ぐ(約10m)に左折するS字形に進みます。
132 分岐(直進)
S字状の地点からは真っ直ぐの道で、約290m歩くと小路の十字路があり、右前方にあった金魚の養殖池が無くなり、池は埋め立てられて売地になっていました。
また、金魚の養殖池の約50mくらい手前の右側にあったテアトル石和という映画館も倒産したのか建物は取り壊されていました。
14時02分、金魚の養殖池跡(右側)
133 金魚養殖池跡
無くなった養殖池跡の十字路から約500m歩くと、五差路が交差する地点となり、左側のかどや(食堂)と右側の積みブロック塀の間の道を進みます。
14時04分、五差路(左方向)
134 合流(左)
五差路から約90m歩くと左側の依田石材店の先で国道411号と合流し、右方向に進みます。
※合流(右方向)
135 合流(右)
合流地点から約120m歩くと、右側に遠妙寺があり、参道に江戸末期に建築された仁王門が建っていました。
14時09分、遠妙寺・仁王門(右側)
136 遠妙寺・仁王門
※石和歴史散策
136-1 解説
遠妙寺を出て約30m先に赤い鳥居の普賢願生稲荷堂がありました。
14時11分、普賢願生稲荷堂(右側)
137 普賢願生稲荷堂
普賢願生稲荷堂から約180m歩くと高速バス停があり、バス停の斜め前に石和本陣跡の標板が建っていました。
14時14分、石和本陣跡(右側)
138 石和本陣跡
本陣跡のところで車の往来の合間を縫って道路の反対側に移動して約70m歩くと、石和小林公園があり、公園の中央に小林中翁の居宅跡があり、右側に文庫蔵がありました。
14時16分、小林中翁の像(左側)
139 小林中翁の像
※小林中翁の文庫蔵(像の右側)
140 小林中翁の文庫蔵
石和陣屋跡が石和南小学校の校門前にあるというので、公園の中を通り見に行きました。
14時18分、石和陣屋跡(右側)
141 石和陣屋跡
陣屋跡を記録に残し、公園内を通って県道301号の旧道中に戻り、先に進みました。
公園を出て約130m歩くと石和温泉駅入口交差点があり、柏尾交差点で出会った夫婦が云っていた「石和温泉まで歩いて、温泉に入って帰ります」という言葉を思い出しながら交差点を渡り、先に進みました。
14時24分、石和温泉駅入口交差点
142 分岐(石和温泉駅入口)
※笛吹警察署北交差点(直進)
143 分岐(笛吹警察署北交差点)
笛吹警察署北交差点から約110m歩くと甲運橋東詰交差点があり、真っ直ぐに渡ると甲運橋があり、交差点から甲運橋のあたりに石和一里塚があったと伝えられています。
14時27分、石和一里塚跡付近(?)
144 石和一里塚跡(甲運橋付近)
甲運橋を渡ると笛吹市から甲府市に入る市境標識が建っていました。
14時28分、市境標識(笛吹市から甲府市)=右側
145 甲府市市境標識
市境標識から数メートル先の右側に、道標が国の管理地内に残っていました。
14時28分、道標(右側)
146 道標
道路は道標の先でY字路になっており、旧道中は左に進みます。
※写真は歩いてきた方を見たところ
147 分岐(左)
甲府市に入った国道411号は城東通りと呼ばれ、甲府警察署の基点まで続きます。
Y字路を左に進み約200m歩くと平等川に架かる平等橋があり、そのまま渡りました。
※平等橋
148 平等橋
平等橋を渡り約280m歩くと奥藤第二分店があり、店舗の前に「とりもつ神社」があるというので、見に行きました。
※奥藤第二分店(右側)
150 奥藤
14時35分、とりもつ神社(右側)
151 とりもつ神社
とりもつ神社は平成23年12月に建立され、お社の前に以下のように記されていました。
「みなさまの縁をとりもつ神社」
この神社は皆様の良縁をとりもつ事を祈願して建立されたものです。
縁から生まれるものは人と人との絆。皆様により良きご縁が結ばれますようお祈り致します。
また、店舗の前の駐車場には、一風変わったトイレが建っていました。
※一風変わったトイレ
152 トイレ
奥藤第二分店から約60mでアリア入口交差点があり、交差点を過ぎた右側に山梨県青少年センターがあり、その脇に「信光の館」跡があると史料に記されていましたが、Mさんに聞くことなくそのまま通り過ぎました。
そしてアリア交差点から約260m先の右側にローソンがあり、その前に歴史を漂わす家があり、改装しているところでした。
どのように改装されるのか、期待したいと思います。
14時41分、旧家(左側)
153 旧家の長屋門
154 旧家の建物
旧家から約80m歩くと甲運小入口バス停があり、和戸町由来碑と石碑群がありました。
14時43分、和戸町由来碑・石碑群(右側)
155 和戸町由来碑
甲運小入口バス停から約800m歩くと横根跨線橋南交差点があり、真っ直ぐ渡りました。
156 横根跨線橋南交差点
横根跨線橋南交差点から約210m歩くと左側のカクイチの真向いに二宮金次郎像と常夜燈が建っていました。
14時57分、二宮金次郎像・常夜燈(右側)
157 二宮金次郎碑
二宮金次郎像から約230m先の松原交差点、さらに約100m歩くと十郎川に架かる十郎大橋があり、橋を渡って約350m歩くと青梅街道の終点(追分)となる山崎三差路交差点です。
15時05分、山崎三差路
158 山崎三叉路
旧甲州道中は交差点を真っ直ぐ(白色矢印)に進むのですが、青梅街道に設置されている中央線の踏切を渡ってみたいと思い右折(黄色矢印)して青梅街道を進みました。
山崎三差路から約50m歩くと「中央本線第4青梅街道踏切」があり、記念に渡りました。
※中央本線第4青梅街道踏切
159 中央本線第4青梅街道踏切
青梅街道は新宿の角筈を基点に青梅市を経由して、ここ山崎三差路交差点が終点です。
甲州道中の旅で、新宿の角筈を経由してきているので、基点と終点を記録に残すことができ良い思い出を作ることができました。
踏切を渡り約10m先の左側に、摩利支天尊堂がありました。
15時07分、摩利支天尊堂(左側)
160 摩利支天尊堂
お堂の直ぐ隣り(横根交差点の手前左側)に、球形道祖神が建っていました。
※球形道祖神(左側)
161 球形道祖神
歩いてきた青梅街道を山崎三差路に戻り、終点から青梅方面に向けて記録に残しました。
※青梅街道終点からの眺め
162 青梅街道
山崎三差路から約10m進むと右側に山崎刑場跡と供養塔・六地蔵が祀られていました。
15時09分、山崎刑場跡・供養塔・六地蔵(右側)
163 山崎刑場跡
※供養塔と六地蔵
164 供養石塔・六地蔵
山崎刑場跡から約130m歩くとY字路の分岐があり、分岐点に酒折宮日本武尊御・・跡社標が建っていました。
また、ここは酒折宮の旧参道口でもありました。
15時12分、酒折宮日本武尊御・・跡社標(分岐点)
165 酒折宮日本武尊碑
旧甲州道中はY字路を左に進みます。
分岐から210m歩くと左側に箱根駅伝などで有名な山梨学院大学丸善キャンパスがありました。
15時14分、山梨学院大学丸善キャンパス(左側)
166 山梨学院大学・正門
近代的な建物が並ぶ山梨学院大学を左に見ながら約260m歩くと、今日の到着地である「酒折駅前交差点」に着きました。
15時16分、酒折駅前交差点(到着地)
167 酒折駅前交差点(到着地)
交差点で恒例の到着式を行い、約200m先の酒折駅に向かいました。
【帰路】
15時20分、酒折駅着
168 酒折駅
乗車する酒折駅は甲府駅の2つ手前の駅で、特急列車は停まりません。
※電車を待っている20分くらいの間に特急が2本通過しました。
そのため16時台は2本と30分間隔です。
15時42分、酒折駅発
169 乗車列車
ホームのベンチに腰掛けて電車を待っている間、小学生の子供達がホームを駆け回って遊んでいました。
170 酒折駅ホーム
定刻に着いた30%くらいの乗車率の6両編成の電車に乗り、帰路に着きました。
ホームで待っている時に、Mさんから頂いた栄養ドリンクが効いたのか、座っていても睡魔に襲われることなく目を閉じて、今日の旅を思い出しながら乗っていました。
大月駅で多くの人が乗降した以外は、山行帰りの人もほとんどおらず、カタコトカタコトと各駅停車の電車で帰ってきました。
アルコールが苦手なMさんは真っ直ぐ家に帰って病み上がりの奥さんの食事を作るとのことなので、私も弁当を買って帰ろうかと考え飲食街に寄らないで家に帰りました。
【総評】
事前に調べた時の情報では、大変なところはないと考えていましたが、観音堂旧道のトンネル上の山越えは距離は短かったのですが、下りの急傾斜は細道の上、滑りやすかったので、神経を集中させて降りました。
トンネルを潜れば楽なのですが、できるだけ旧古道をトレースしたいと考えているので、この先の旅でも同じようなことに遭遇しても古道を歩きたいと思います。
また、今回の旅で、甲州市から笛吹市に入る日川橋で、川の名前が「日川」から「笛吹川」に変わりました。
なかなかこの場面に遭遇しないので、今回の旅の記念になりました。
そして、街道も日川橋を渡ったところで左折し、田中旧道を歩く甲州道中を知ることができるなど、とても良い旅ができました。
追記すると、昼に食べた皆吉のほうとうは、機会を作ってまた食べに行きたいと思います。

【次回の予定】

次回(第11回)は12月15日(火)に「酒折駅前交差点から韮崎・本町交差点までの16.17㎞」を旅する予定です。
今年最後の街道旅なので、Mさんと会話を楽しみながら自動車に気を付けて旅をしたいと思います。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 快晴  
【宿場】(24)阿弥陀海道宿⇒(25)黒野田宿⇒(26)駒飼宿⇒(27)鶴瀬宿
【行程】歩行距離=11.40㎞ 総距離=117.38㎞  
笹子駅前交差点⇒(2.24㎞)⇒旧道入口⇒(4.05㎞)⇒笹子峠⇒(2.21㎞)⇒大持沢橋⇒(1.83㎞)⇒天狗橋⇒(1.07㎞)⇒R20大和橋西詰交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第9回旅の宿場)
第9回宿場
 ↓旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第9回全体ルート
 ↓第9回の旅ルート
  (笹子駅前交差点
⇒ R20大和橋西詰交差点)
第9回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
今日は甲州道中で一番厳しいと云われている笹子峠(標高=1,096m)を越えます。
そのため、同行者のMさんと打合せを行い、12日の天気予報で朝6時から15時の間に☂マークがあった場合は中止し、次回の旅予定としている11月13日(金)まで延期することにしました。
さて、前回の旅からラジオ体操で知り合ったMさんと一緒に旅をすることになり、今回もそれぞれが旅の準備を行って旅に臨むことになり、私は今までと変わることなく先人のHPなどの情報を参考に、史跡の場所を地図に書き込んだり、道中の道案内を用意しました。
また、街道旅は長距離用のウォーキングシューズ(TVなどで通販されているウォーキングシューズは短距離用)で良いのですが、山道で足首を保護するためにトレッキングシューズを履くことにしました。
※街道旅でトレッキングシューズを履くのは、旧東海道の箱根東坂越え以来です。
《準備》
地図や史跡場所などの地図書き込みは数日前に終了し、ザックも8日前のハイクで使用したものをそまま利用したので、行動食(菓子パン)を用意するだけで済みました。
また、水分はスポーツドリンク(600cc)、水(600cc)、麦茶(350cc)を用意して朝を迎えました。

目覚ましの音楽で目を覚まし、洗面、血圧・体重測定、旅の身支度を整えましたが、数日前から左足の膝の具合が悪く途中で悪化しなければと願いながらの準備になりました。
《移動》

Mさんとの待ち合わせは6時15分ですが、コンビニで昼食のおにぎりを買ったり、駅でトイレを済ませたりしようと考え少し早く家を出発しました。
長袖Tシャツ・半袖Tシャツ・アウタージャケットを着て家を出発しましたが、自転車を走らせると思ってた以上に肌寒く感じ、チョッキをもう1枚着ても良かったかなと思いました。
※Mさんに聞いたら、公園の温度は12℃だったそうです。
しかし、家に戻ることもできずそのまま自転車を走らせ近くのコンビニに立ち寄り、昼食のおにぎりを買って最寄り駅に向かいました。
最寄り駅でトイレを済ませ駅構内でMさんと合流し、出発地に移動しました。
07時56分、笹子駅着
006 笹子駅
《無人駅の改札機が故障》
笹子駅で下車し、改札口に来ると自動改札機が故障しているため、パスモに出札記録をつけることができません。
乗降客が少ない笹子駅は無人駅のため、備え付けの連絡電話で確認すると、そのまま下車して下さいと云われ、改札付近に溜まっていた人達に伝達され改札を通りました。
帰りの甲斐大和駅も無人駅だったため、最終下車駅の立川駅でパスモの記録登録と精算をしてもらったのですが、私達の後ろに並んだ人も同じように笹子駅からの精算をしていました。
【=旅=】
08時02分、笹子駅前交差点(出発地)
007 笹子駅前交差点(出発地)
笹子駅を出て数十m先の笹子駅前交差点に行き、Mさんにお願いし出発の看板を掲げて写真を撮る出発式を行い旅をスタートしました。
交差点を渡り約50m歩くと右側に中央線の下を潜るトンネルがあり、トンネルを潜って通過します。
009 笹子駅JR隊道
トンネルを潜って約100m歩くとR20に合流し、右に進みます。
010 隊道出口・20号合流
真っ直ぐのR20を約160m(JR笹子変電所前付近)歩くと正面左側に、これから歩く笹子峠と思われる山が見え(白丸印)、「あのあたりを越えて行くのか」と気を引き締めました。
011 笹子峠方面の眺め
そして約190m先の日向橋を渡り、橋から約80m歩くと右側に奈良屋があり、斜め手前に宿名と同じ「黒野田バス停」がありました。
08時15分、黒野田バス停(右側)
012 黒野田バス停
ここで汗が出てきそうな気温になってきたので、衣服調整(アウタージャケットを脱ぐ)と帽子をバンダナに交換し、約50m歩くと左側の火の見やぐらの処に石積のお地蔵様が祀られていました。
08時19分、笠懸地蔵(左側)
013 笠懸地蔵
※笠懸地蔵・解説
014 笠懸地蔵・解説
笠懸地蔵から約40m歩くと左側に立派な門のある赤い屋根の大きな家があり、門の前に明治天皇の碑が建っていました。
08時21分、黒野田宿本陣跡(天野家)=左側
016 天野本陣跡・全景
家の前に家主の天野啓吾さんがおられ、
・旧時代の住まいにこれから工事が行われる
・二階は住まいになっていない
などの話しを聞かせて下さいました。
本陣を出発して約90m歩くと新道と旧道の分岐があったのですが、持っている地図に分岐を明確にしていなかったため、分岐を左折しないで新道を約30m進んだところでMさんから指摘され、地図を確認して分岐に戻りました。
08時29分、黒野田橋手前分岐(左)
017 分岐(黒野田橋手前)
分岐を左に進むと直ぐに旧黒野田橋があり、橋を渡ってまたR20に合流しました。
※旧黒野田橋
018 旧黒野田橋
合流して約40m歩くと右側に普明院があり、門前の両側に一里塚碑(日本橋から25番目の一里塚)が建っていました。
08時31分、黒野田一里塚碑(右側)
019 黒野田一里塚跡・全景
※黒野田一里塚(石碑)
020 門前・右の石碑
※黒野田一里塚(標柱)
021 門前・左の標柱
一里塚碑から約20m歩くと、左側に107㎞距離標が建っていました。
08時33分、107㎞距離標(左側)
022 107㎞距離標
距離標から約500m歩くと笹子川に架かる屋影橋があり、橋を渡ったところに馬頭観音の石像群がありました。
08時40分、屋影橋
023 屋影橋
08時42分、馬頭観音石像群(右側)
024 馬頭観音石碑群
石像群から約100m歩くと右側に笹子温泉の建物がありましたが、玄関のカーテンが閉まり人の気配がなかったので、帰ってきて調べたら平成17年に廃業されたとのことです。
08時44分、笹子鉱泉(右側)=廃業
025 笹子鉱泉
笹子鉱泉の真ん前のドライブイン・しらかばは、昔懐かしいカマドから煙を思い出させる調理場から煙を立てて開店準備をしていました。
※ドライブイン・しらかば(左側)
026 笹子鉱泉真向いのドライブイン
ドライブインから約300m歩くと、公民館前バス停の先に108㎞距離標が建っていました。
08時50分、108㎞距離標(左側)
027 108㎞距離標
距離標から約70m歩くと定食屋はらだがありましたが、右側に立っている看板は残っていますが、左側にある店舗は看板もなく閉まっていたので廃業になったようですが、その先隣りの「やまびこ」は営業していました。
やまびこから約260m歩くと中橋分岐があり、分岐の真ん中に新中橋バス停があり、分岐を左に進みます。
08時57分、中橋分岐(左)
028 新中橋分岐(左)
分岐を左の県道212号に入り約80m歩くと左側にゴミ集積所があり、旧街道はそれに沿って左折します。
※ここを左折しないで真っ直ぐ進んで道なりに左折して歩いている人もおりますが、正式にはこの場所を左折します。
08時59分、県道212号分岐(左折)
029 分岐(左折)
※石垣の間を歩く旧道
030 旧道
県道212号から斜め左に分岐した旧道は、約110mでまた県道212号に合流し、左に進みます。
09時02分、県道212号合流(左)
031 県道合流(左折)
分岐合流してやまぐち橋を渡り、右側の新田下バス停を過ぎた石垣と石垣の間の道を右折します。
032 県道分岐(右折)
右折する曲り角に、甲州街道の道標が建っていました。
09時06分、県道212号分岐(右折)
033 分岐した道
県道212号を右折すると、登りがハッキリと分かる道となりました。
舗装された50m程登ると水路にポリバケツが置いてあり、流れる水量を調節するダムの役目を果していました。
09時07分、ポリバケツダム(左側)
034 ポリバケツダム
舗装路は分岐から約120mで、その先から林道歩きになりました。
035 沢沿いの旧道
林道を150m登ると右側に砂防ダムが出来ており、それを左に廻り込むように進むと、林道整備に大型のブルドーザが入っていました。
09時11分、砂防ダム(右側)前
036 砂防ダム
※林道整備中(ブルドーザで拡幅)
037 工事中の旧道(右)
※整備中の林道(クローラのわだち)
038 工事中の旧道
道の右側を流れる川から遠征してきたのか、沢カニが整備中の道を歩いていました。
※沢カニ(白丸印)

039 沢かに
ブルドーザで拡幅された林道が終わると、本格的な林道歩きとなり、樹に付けられたテープを目印(黄色)に歩くようになりました。
09時19分、林道最初の目印(黄色)
040 旧道
林道には所々に黄色テープが付けられ、道も踏み固められた道があり、良く見て歩けば迷うことはありません。
なお、ピンクのテープも付けられているので、間違わないようにして下さい。
ピンクのテープに沿って歩かなかったので、どのような経路になるのかわかりません。
※黄色テープ
041 目印
※林道(県道合流手前)
042 県道に出る手前
09時25分、県道合流(右折)
043 県道に合流
県道212号に合流したら右折して県道を進みます。
県道を約150m歩くと美久保橋があり、橋を渡ります。
09時29分、美久保橋
044 新田沢・美久保橋
美久保橋を渡り、ヘアピンカーブの県道を歩くと左側に遊歩道案内地図と矢立の杉まで800mの案内看板が建っている処を左折して、登りの林道を進みます。
09時35分、美久保橋先県道分岐(左)
045 県道分岐(左折)
※美久保橋先県道分岐口
046 分岐した旧道
※林道(分岐口から約5分)
047 林道
09時43分、木橋
048 木橋
木橋を渡り三軒茶屋跡(本陣)に着く直前の右側に国土地理院の一等水準点があり、水準石が埋設されていました。
09時44分、一等水準点(899.84m)=右側
84m)
このような処に一等水準点があるとは思わなかったので、少し驚きました。
水準点から約60m(1分)歩くと、右側に石垣に囲まれた三軒茶屋跡(本陣)と明治天皇野立所跡があり、石碑が建っていました。
09時46分~09時51分、三軒茶屋跡・明治天皇野立所跡
051 茶屋碑・明治天皇野立跡碑
明治天皇野立所跡に建てられた顕彰標板には、以下のとおり記されていました。
顕彰の記
過ぐる明治十三年六月十九日大帝本縣御巡幸に際し
畏れ多くも此の地天野治兵衛家に御野立あらせられ
聖蹟を永久に残させ給へりと雖も時代の変遷と文化の
発達による中央線の開通は此の地を過ぐる者をして
絶無ならしめ為めに聖蹟も又口碑に傅ふるに過ぎざりき
聖蹟の主  天野治兵衛氏
之を慨嘆する事多年其の効空しからず 陸軍大将
菱刈閣下の御揮毫を得て記念碑を建立し以て之を
永久に傅へんとす 昭和十二年十一月七日
※明治天皇御野立所跡記念碑除幕式における
笹子村長天野五六様祝辞より抜粋
ここでザックを降ろし、水分補給および行動食(スポーツ羊羹)などを食べる休憩を取りました。
また、休憩していると3組(男2人、男1人、男女3人)の街道旅の人が来られ、
・今日は何処まで歩くの?
・今日の旅は何日目?
などの話しをし、一人で旅をしている人には「ゆっくり旅で宜しかったらご一緒にどうぞ」と声を掛け出発しました。
09時55分、木橋
052 木橋
木橋を渡り約150m登り坂を歩くと、矢立の杉が立っていました。
09時57分~10時01分、矢立の杉(左側)
054 矢立の杉碑
矢立の杉の周りは整備され、展望デッキや歌碑が建っています。
矢立の杉は、樹高約28m、根廻り14.8m、目通幹囲9m、幹は地上約22mで、折損した幹の中は上まで空洞となっている。梢頭の数枝は風害によって白骨化している上に、幹の空洞内は昭和4年の火災で木炭化している。
この木は甲斐国誌、甲斐叢記などの古い本に記され、江戸時代末期の浮世絵師・葛飾北斎や二代目歌川広重の名画にも残されているなど、古来有名な木であるとともに、スギの巨樹として山梨県でも有数だそうです。また、樹齢1000年を超す矢立ての杉は、戦国時代合戦に赴く武士が必勝を祈願して、この木に矢を射ったことからその名前がついたと云われている。甲州街道が開通してから人々の往来が盛んになり、旅人たちの憩いの場になっていました。
※展望デッキからの眺め

056 矢立の杉
※歌碑(矢立の杉)=右側 
057 矢立の杉記念碑
矢立の杉 作詞・作曲=大地 良、唄=杉 良太郎
右側の回転盤を廻すと、矢立の杉の解説が流れます。
また、展望デッキで、二人の記念にしようとシャッターを押して頂きました。
059 矢立の杉
見学を終え、先に進むのですが、道標どおりで良いのかと思わせる細い道を進むのですが、先人のHPにこの細い道を進むと記されていたので、躊躇なく歩を進めました。
10時01分、矢立の杉分岐(左)
060 矢立の杉・分岐
道は踏み固められていたので、道を迷うことはないのですが、本当に江戸時代の人が通ったの?と云いたくなるくらいの細い道と、①急坂を下って木橋を渡る、②やぶ漕ぎに近い状態、③急登、④急坂下りして県道に合流します。
①急坂を下って木橋を渡る
061 急坂⇒丸太橋
②やぶ漕ぎに近い状態
062 藪漕ぎ?
③急登
063 急登
④急坂下り
064 急坂
10時18分、県道に合流
065 県道・合流
最後の急坂下りでは、私達より年配のご夫婦の奥さんが苦労されていましたので、「ペタっと足裏を地面に付ければ登山靴は滑らないから大丈夫ですよ」と助言し、急がずにご夫婦で楽しんで歩いて下さいと挨拶して別れました。
県道を歩きながら木々の色付きを見ると、標高1,000m付近の笹子峠付近は紅葉が少し始まってきたところです。
※紅葉の始まり(県道合流から450m地点)
066 紅葉が始まる
色付き始めた紅葉を眺めながら県道の坂道を登り、ヘアピンカーブを過ぎると正面に笹子隊道(トル)が見えてきました。
10時30分、笹子隊道入口
067 笹子トンネル入口
旧街道はトンネルの手前に建っている笹子隊道碑の前を右に入って山越えします。
※笹子隊道碑
068 笹子隊道碑
また、隊道に入る手前の右側に夫婦連れのワンボックスカーが停まっていて、衣類を干していたので、
E=ここでキャンプですか?
男=山に登ってきて乾かしているんです
E=笹子雁ガ腹摺山ですか?
男=そうです。直ぐそこですよ。これから登るのですか?
E=私達は街道旅で、笹子峠を越えるだけです
と、会話して別れ、峠に向けて出発しました。
※笹子隊道脇の旧街道入口
069 笹子峠入口
峠道は直ぐに急登となり、息を整えながら登りました。
※急登
070 笹子峠の急登
峠まではしばらく歩くだろうと思っていたのですが、感覚的にはあっという間に着いた感じで、「え、もう峠に着いたの」と云いそうになりました。
10時37分、笹子峠

071 笹子峠
※峠の道標を右に行くと、笹子雁ガ腹摺山です。
峠で記念写真を撮ったりして記録に残し、峠の下りに入りました。
※笹子峠の下り坂
074 笹子峠からの急坂
峠を下るとT字路となり、右折(白矢印)すると天神宮があるというので、参拝に立ち寄りました。
10時40分、天神宮分岐

075 天神社への分岐(右)
分岐から約50m歩くと、右側に赤い鳥居が建っており、その奥に小さい祠が祀られていました。
10時41分、天神宮(右側)
076 天神社
天神宮を参拝し、T字路の分岐に戻り、分岐を黄矢印方向に進むと、坂を下って県道に合流し、県道を横切ってガードレールの間を下ります。
10時46分、県道合流(峠道から見る)
078 県道横切り①
※県道から見る
081 県道横切り②
私とMさんは県道を左に60m進み、笹子隊道の出口を見に行きました。
トンネルは反対側の出口が見え、隊道の出口に大月市市境標識(トンネル口左側)が建っており、トンネルに向かって右側に甲州市市境標識が建っていました。
10時47分、笹子隊道出口
079 笹子トンネル出口
さて、県道を横切ってガードレールの間から入る処に戻ると、ガードレールの脇に道標が建っており、道は急坂になっていました。
082 入口の急坂
最初の急坂を過ぎると少し緩やかな下りとなり、また県道が見えてきました。
083 県道合流手前
踏み固められた道を下ると、県道に合流する処に甘酒茶屋跡の標柱が建っていました。
10時53分、甘酒茶屋跡(右側)
084 県道合流点と甘酒茶屋跡碑
※甘酒茶屋跡標柱
085 甘酒茶屋跡碑
旧街道は県道に出ないで県道との境に設置されたガードレールに沿って進みますが、道が狭いので「ここでいいのかな」と歩みを停めて地図を確認しました。
086 ガードレール脇を進む

087 ガードレール脇の旧道
細い道を下って行くと、左側に緑色の「甲州街道峠道」と記された道標が建っているので、「この道で間違いない」と確信しました。
10時57分、緑色の道標(左側)
088 道標
緑色看板の道標の処で合流した林道を約140m歩くと、右側に白地看板に緑文字で「甲州街道峠道」と書かれた道標が建っており、道標に沿って右に下っていきます。
10時59分、分岐道標(右側)
089 分岐(道標を右)
※林道①
090 林道
※林道②
091 林道の旧道
11時03分、林道③(丸太橋)
092 丸太橋
※林道④
093 旧道
11時06分、林道⑤(沢渡り)
094 沢渡り
11時10分、林道⑥(笹子沢川に架かる丸太橋)
095 丸太渡り
白地(裏面)の標識を見ながら下ってきて標識を見ると、右=甲州街道峠道、左=自害沢天明水と記されているので、自害沢天明水に行ってみようかと思いMさんと相談すると、距離が分からないのと、自害沢という何とも薄気味悪いネーミングに行くことを割愛し、峠道を進むことにしました。
11時15分、分岐道標(右)
096 分岐
甲州街道峠道を進むと、谷側に防護柵が設置されてた明るくなった草地の道となりました。
097 柵が設置された旧道
途中、倒木した箇所が2ケ所ありましたが、支障なく歩くことができました。
098 倒木箇所
緩やかな下り坂を歩いていると、滝のように流れる水の音が聞こえてきたので、木立の間から眺めてみると、砂防ダムから流れ出る水の音でした。
11時20分、砂防ダム前のベンチ(左側)
099 奥に砂防ダム
旧道は防護柵に沿ってヘアピンカーブを曲がるのですが、曲がり角にベンチが2つ設置されていましたが、苔むしていて敷物を敷かないと座れない状態でした。
ヘアピンカーブを曲がると、一直線に緩やかな階段状になった坂道を下ると、笹子峠の峠道が終わり県道に合流し、左側に清水橋が架かっていました。
100 下ってきた階段道
笹子峠道終点の右側には峠碑が建てられており、車止めは休憩するのに良いベンチ代わりになりました。
ここでザックを降ろし、水分補給したり、峠越えで疲れた足を休めて英気を養いました。
11時21分~11時27分、県道合流笹子峠道終点

102 県道合流・分岐
※笹子峠碑
103 笹子峠碑
《笹子峠碑》
徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約55里)を開通させました。笹子峠はほぼその中間で江戸から約27里(約100㎞)の笹子宿と馬飼宿を結ぶ標高1,056m、上下3里の難所でした。
峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が20頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等がありました。また、ここの峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和61年2月12日、次のような唄が作られ発表されました。
「 〔甲州峠唄〕 作詞=金田一春彦 作曲=西岡文明
 あれに白いは コブシの花か 峠三里は 春がすみ
 うしろ見返りゃ 今来た道は 林の中を 見え隠れ
 高くさえずる 妻恋雲雀 おれも歌おうか あの歌を
 ここは何処だと 馬子衆に問えば ここは甲州 笹子道 」
この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和62年5月、清水橋から峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました
と記されていました。
休憩を終え、合流した県道を歩き出すと直ぐに清水橋が架かっていました。
そして、旧道は今日のゴール地点のR20号まで、約4㎞県道を下っていきます。
11時27分、清水橋 
104 清水橋
清水橋を渡り道なりに右にカーブし、約210m先の2つのヘアピンカーブを曲がった右側(清水橋から約350m)に桃の木茶屋跡があり、標柱が建っていました。
11時32分、桃の木茶屋跡(右側)
105 桃の木茶屋跡
桃の木茶屋跡から約450m県道を下ってくると、大持沢橋があり、橋を渡って道なりに右に曲がって進みます。
11時38分、大持沢橋
106 大持沢橋
大持沢橋から約300m県道を下ると左側の少し高いところに飯田コンクリートといういう会社があり、コンクリート製品が積まれていました。
11時43分、飯田コンクリート入口(左側)
107 飯田コンクリートの工場
飯田コンクリート入口付近から約260m歩くとT字路のような分岐となり、右に直角に曲がります。
左に行くと山の中に入っていきますので、気を付けて下さい。
ヘアピンカーブを右に曲がって約230m下ってくると天狗橋があり、橋の手前の右側に津島大明神の祠が祀られていました。
12時04分、津島大明神(右側)
108 津島大明神
直ぐ先の天狗橋を渡ると旧街道は左折(黄色矢印)するようにほとんどの資料に記されているのですが、天狗橋を渡って右折(白矢印)すると「日影一里塚」があると云うので、Mさんに「行ってみないと分かりませんが、行ってみたいので」と了解を頂き、半信半疑の状態で行くことにしました。
12時05分、天狗橋
109 天狗橋
天狗橋を渡って右折すると動物除けのネットが設けられており、「開けたら閉めること」と記された注意書きにしたがって扉を開閉して中に入りました。
12時06分、動物除けネット
110 動物除け柵
資料に「コンクリート道を3分(約200m)」と記されていたので、そのとおりコンクリート道を進みました。
111 最初のCo道
コンクリート道が終わると、グチャグチャ道となりました。
112 泥土道
資料ではコンクリート道が終わってから約50m先と記されていましたが、約100mのグチャグチャ道を歩き易いところを選びながら歩くと、左側に日本橋から28番目の一里塚があり、馬飼一里塚と記された白い標柱が建っていました。
※馬飼一里塚は、「以下、日影一里塚と表示します」
113 日影一里塚碑の眺め
12時11分、028日影一里塚跡(左側)
115 日影一里塚・解説
半信半疑で見に来たのですが、資料に記されていたとおりだったので、Mさんに「無かったらどうしようと思っていましたが、史跡があってホッとしました」と話しました。
また、一里塚碑が建っている道はまだ先に続いているので、「この道が旧街道なの?」と疑問に思いながら来た道を戻りました。
甲州道中は古道と新道があり、日影一里塚碑が建っていた道が古道なのかもしれません。
来た道を戻ると、グチャグチャ道とコンクリート道の境付近の右側(日影一里塚に向かう時は左側になる)に、国土地理院の一等水準点がありました。
12時16分、一等水準点(697.88m)
88m
コンクリート道を通り、動物除けネットを開閉し、天狗橋を渡った分岐に戻り、地図に記された黄色矢印方向に進みました。
12時19分、天狗橋分岐
118 分岐
分岐から約20m(日影上バス停の手前)先の右側に、芭蕉句碑が建っていました。
12時20分、芭蕉句碑(右側)
119 芭蕉句碑
芭蕉句碑から約70m歩くと左側に消火栓があり、その手前に馬飼宿脇本陣跡の標柱が建っていました。
12時22分、馬飼宿脇本陣跡(左側)
120 脇本陣碑
脇本陣跡から約100m歩くと左側に、馬飼宿本陣跡(標柱)と明治天皇御小休所跡(石碑)があり、それぞれ碑が建っていました。
12時24分、馬飼宿本陣跡(左側)
122 本陣跡碑
※明治天皇御小休所跡
123 明治天皇御休所跡
本陣跡から約20m先の左側に旧馬飼宿絵図が建っていました。
12時26分、馬飼宿絵図(左側)
124 馬飼宿碑
絵図から約80m歩くとバス停の手前に左に下る道があり(分岐入口右側に道標が建っている)、旧街道は左に分岐します。
12時28分、日影分岐(左入る)
125 分岐(左)
旧街道を下って行くと左側に、旧柏屋、旧大黒屋、旧吉野家と、江戸時代の旅籠跡だった家並みが続いていました。
12時30分、馬飼宿の旅籠跡の家並み(左側)
126 馬飼宿の街並み
大黒屋は、現在サンガムという軽食喫茶の店として旅人の立ち寄り処として利用されています。
※私とMさんは行動食を持参し、甲斐大和駅に行く途中で立ち寄るかもしれないので立ち寄りませんでしたが、道中で出会った数組は立ち寄ったことをこの先で休憩している時に聞きました。
大黒屋から約20m歩くと、三叉路の真ん中に大きな松の木が建っていました。
年輪を感じさせる大きな松の木でしたが、特に史跡としての指定は受けていないようで、解説標板等は立っていませんでした。
※大きな松の木(三叉路中央)
127 松の木
旧街道は松の木を右側に見ながら右カーブしする細い舗装路を下ると古道橋があり、橋を渡って右側の大平建設の脇を通って坂道を下っていきます。
128 旧道
緩やかな坂を下っていると、目の前に中央高速の橋桁が見え、走る車を見ていると手前の下り線が1トラス分、奥の上り線より高くなっていとが分かりました。
今まで何回も走っていますが、このような構造になっているとは知らなかったので、今度車で通る時は意識して走りたいと思います。
12時37分、中央高速の眺め(右側)
129 中央高速の眺め
中央高速の橋桁の下を潜って約20m歩くと、左側に首なし地蔵群がありました。
12時39分、首なし地蔵群(左側)
130 首なし地蔵群
時間が13時近くになってきたので、他に良い場所がなく、地蔵群の隣りのコンクリートに座って昼食にすることにしました。
12時38分~12時56分、昼食
131 昼食
※持参した昼食
132 昼食
昼食を食べていると、私達の前を歩いていた人達が目の前を通り過ぎるので、
E=あれ、かなり前を歩いていたと思うのですが?
2人組=離れた別の処に食べに行ったので
E=そうですか。今日はどちらまで歩くのですか?
2人組=勝沼までです
E=気を付けて
と云って見送りました。
すると、少しして一人旅の人が目の前を通りすぎるので、2人組と同じように
E=何処かに立ち寄ったのですか?
一人旅=大黒屋で食べてきました
E=そうですか
一人旅=夫婦連れ(矢立の杉を過ぎた県道合流の処で出会った)が私が出る時に入ってきました
E=今日はどこまでですか?
一人旅=勝沼まで行く予定です
E=気を付けて
と云って別れました。
昼食を食べ終わり、細い下り坂を約170m下ると、今日の到着地に到着しました。
134 20号合流手前
今日の到着地である「R20大和橋西詰交差点」に着き、Mさんにお願いして到着の看板を掲げて到着式を行い、今回の旅を終了しました。
12時58分、R20大和橋西詰交差点(到着地
136 R20大和橋西詰(到着地)
【帰路】
到着地のR20大和橋西詰交差点を旧街道とは反対の大和橋方向に約50m歩くと日川に架かる大和橋を渡り、約100m先の甲州市大和町徳波歩道橋を潜った先でR20を横切り、県道203号を甲斐大和駅に向かいました。
137 帰路の分岐
県道に入ると地域のお祭りで、子供神輿とすれ違いましたが、賑やかに担ぐ子供達を見て、私が同じ年頃にお神輿を担いで地域を練り歩くと大人からご褒美としてお菓子をもらえるので、それに釣られて担いで歩いた時のことを思い出しました。
138 地域のお祭り
R20を横切ったところから約300m歩くと、左側に諏訪神社があり立ち寄りました。
13時10分、諏訪神社(左側)
139 諏訪神社
諏訪神社には4面が彫り物が施された本殿と初鹿野の大杉跡があるのですが、まず先に本宮に行きお賽銭をご奉納して参拝し、Yumiさんの病気平癒をご祈願しました。
4面が彫り物が施された本殿
141 本殿
本殿の周囲に刻まれた彫り物は、竹林の七賢人、上り龍、下り龍等で、彫り物はとても巧妙にできており、その華麗さは類を見ないもですが、野ざらしに近い状態になっているのはとても残念です。本殿は県指定文化財となっているので、大切に保存して頂きたいと思いました。
彫り物
142 本殿の彫り物
初鹿野の大杉跡
143 初鹿野の大杉跡
大杉は笹子峠の矢立杉(北都留郡大月市笹子町)、甲斐奈神社橋立の大杉(東八代郡一宮町)と共に甲州街道の三本杉といわれた巨木で、明治36年に鉄道が開通し、その振動と蒸気機関によるばい煙のためか、樹勢が衰えかけたので、名木をして永く大杉の存続を願い鉄道省より老樹慰謝金200円で培養保護に努めたが、神社の境内に枝葉繁茂して雄大な景観を誇っていた大杉は樹勢が衰えついに枯死し2,400円で払い下げられて伐られたました。
・樹幹の周囲目通し=二丈八尺(8.48m)
・樹幹の根周囲=三丈八尺(11.5m)
・樹高=約十七間半(31.8m)
・樹齢=371年
諏訪神社を出て県道を駅に向けて歩くと、Mさんから「昼食を食べましょう」と声がかかり、R20に出る手前の食事処に立ち寄りました。
13時20分~13時47分、食事処あまの
145 昼食(食事処あまの)
店には入ると男性4人組がお祭りの宴会をしているところで、私達は窓の近くの席に座り、私は生ビールと冷し(中華)そば、アルコールがダメなMさんは冷し(中華)そばを注文しました。
Mさんと今日の旅の思い出を語りながら私は咽喉を潤し、そばでお腹を満たしました。
食事処を出て県道に戻り、約100m歩いた甲斐大和駅前の跨線橋を渡り、右折した左側に武田勝頼公の像が建っていました。
13時53分、武田勝頼公の像
147 武田勝頼像
13時58分、甲斐大和駅発
当初は14時30分発の立川行きに乗る予定にしていたので、朝の笹子駅での自動改札機の故障でパスモが乗車状態になっているのを直してもらっておこうとMさんが云われたので、甲斐大和駅に行くとこの駅も無人駅でパスモを直すことができないため、自動改札を通さずに下車駅で正規の形にしてもらうことにしてホームに降りて電車を待つことにしました。
ホームに降りると電車が停まっているので、車掌さんに行先を聞くと「高尾行き」と聞き、「乗って帰りましょう」と乗車すると、1分もしないで電車が発車しました。
Mさんと顔を見合わせて、「グットタイミングでしたね」と二人とも笑顔になりました。
※停まっていた電車はホームの上り線側ではなく、下り線側に停まっていたので甲府方面に行く電車とばかり思っていました。
下車駅でパスモの精算を行ってもらい、私はジバングの切符を買うためにMさんと別れ、ビュープラザに向かいました。
ところが長蛇の列で買うまでにかなり待つことになるため、後日改めて買いに来ることにしビュープラザを出て、4日に注文した靴下を石井スポーツに受け取りに行き、帰る途中にスーパーで夕食の弁当を買い、Yumiさんの処には立ち寄らないでそのまま家に帰りました。
【総評】
今日は、快晴の天気に恵まれ、雨の翌日にもかかわらず湿度も低く、ほとんど汗を流すことなく快適に歩くことができ、標高差約500mの笹子峠を越えました。
峠越えは、急登あり、急坂あり、細い丸太橋を渡ったり、道なき道を歩いたりと、「これが街道?」と思わせる大変な部分もありましたが、無味乾燥の舗装路を歩いているより遙かに変化に富んでいて楽しい旅をすることができ、一緒に歩いてMさんも喜んでいました。
また、甲州道中旅をスタートしてから初めて3~4組の街道ウォーカと一緒になるなど、賑やかな旅となりました。

【次回の予定】

次回(第10回)は11月13日(金)に「国道20号大和橋西詰交差点から酒折駅前交差点までの17.90㎞」を旅する予定です。
笹子峠を越えた旅は、これからは舗装路の旅となり、山道を歩く楽しさはなくなりますので、Mさんとの会話を楽しみながら自動車に気を付けて旅をしたいと思います。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】  晴れ一時曇り 
【宿場】(18)猿橋宿⇒(19)駒橋宿⇒(20)大月宿⇒(21)花咲宿⇒(22)初狩宿⇒(23)白野宿⇒(24)阿弥陀海道宿
【行程】歩行距離=14.63㎞ 総距離=105.98㎞  
R20駒橋入口⇒(2.36㎞)⇒大月駅前⇒(3.48㎞)⇒大月警察署前⇒(2.97㎞)⇒R20初狩駅前⇒(3.43㎞)⇒白野旧道出口⇒(2.39㎞)⇒R20笹子駅前交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第8回旅の宿場)
第8回宿場
 ↓旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第8回全体ルート
 ↓第8回の旅ルート
  
R20駒橋旧道入口 ⇒ 笹子駅前交差点)
第8回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
今日は6月28日に第7回旅を行ってから約2ケ月半振りの第8回の街道旅(前回の到着地である「駒橋宿・R20駒橋旧道入口」から「阿弥陀海道宿・笹子駅前」までの14.63㎞)で、今回からラジオ体操で知り合ったMさんと一緒に歩くことになり二人旅になりました。
一人だと歩いていても話し相手がいないので、黙々と歩くことになってしまったり、史跡を見落としてしまったりしましたが、二人だと適度に話したり、お互いに史跡を確認したりできるので、二人の利点を生かして旅をしたいと思います。
《準備》
地図や史跡場所などの地図書き込みは数日前に終了し、ザックも2日前のハイクから着替えを外し、行動食(菓子パンとジュース)を用意するだけで終わりました。
また、水分は600ccのスポーツドリンクと600ccの水を冷凍したペットボトルを持参することしました。
目覚ましの音楽で目を覚まし、洗面、血圧・体重測定、旅の身支度を整え、靴は緩やかな勾配の坂道を約280m(出発地標高=321m、到着地標高=600m)上りますが山の中ではないので、ウォーキングシューズを履いて自宅を出発しました。
《移動》
ザックを自転車に乗せ、長袖シャツを着ていても少し寒く感じるほど朝の空気は冷えており、ラジオ体操の前のウォークやランニングをしている人達の間を抜け、最寄り駅に向かいました。
最寄り駅の駐輪場に自転車を置き、最寄り駅から電車を乗り継いで出発地に向かいました。
001 立川駅・発車時刻
《前回旅の補完》
今日は猿橋駅から笹子駅前までの14.63㎞の旅を行うのですが、前回(H27.06.28)の旅で021鳥沢一里塚跡を見過ごしてしまったため、旅を始める前に鳥沢駅(猿橋駅の1つ手前)で下車して探しに行きました。
021 鳥沢一里塚跡(右側)
200 鳥沢一里塚の場所
鳥沢駅で下車し、約80m歩くとR20号の駅入口交差点となり、交差点を渡って東京方向に向かって左側を約50m歩いた文扇堂(閉店)の前に、日本橋から21番目の鳥沢一里塚跡があり、標柱が建っていました。
江戸から京に向かって来る時は進行右側で、文扇堂の先隣りの浜田屋食堂を目印にすると良いと思います。
朝の交通量の多い時間ですが、車の合間を縫って一里塚碑を写真に撮り、鳥沢駅に戻りました。
駅に戻り掲げられている時刻表を見ると、直ぐに電車が入線するというので、Mさんに「急ぎましょう」と声を掛け、階段を走って下り、発車間際の電車に飛び乗りました。
07時41分、鳥沢駅発
07時44分、猿橋駅着

005 猿橋駅・北口
猿橋駅から出発地に向かう途中、駐車場の脇にコスモスの花が満開になっていました。
秋になったことを教えてくれました。
006 季節の花・コスモス
【一人旅 ⇒ 二人旅】
今回の旅から相棒ができ、相手が女性のアベック旅なら天にも昇るウキウキ気分になるのですが、男二人のおかま旅になりました。
二人だと一人で歩く自由さはなくなりますが、旅の間話し相手がいない寂しさがなくなります。
特に私は相方だったYumiさんが、4月中旬に階段から落ちて外傷性脳挫傷で入院したことが契機となって歩行困難な状態となり、6月から特養ホームに入所したため日々一人の生活をしているので、自由さよりも話し相手がいることは何よりも嬉しいことです。
相方は私より1学年上のMさんで、これからブログの中に登場してまいりますので、よろしくお願いします。
Mさんは、H26.01からH26.12の1年で奥方と二人で旧東海道を踏破されました。
【=旅=】

07時50分、R20旧道駒橋入口(出発地)
007 R20駒橋旧道入口(出発地)
暑い夏が過ぎ、街道旅の季節がやってきました。
前回の旅で終了した国道20号の旧道駒橋入口(山梨中央自動車販売センター前)に立ち、今回から相方となったMさんに恒例の出発式の写真を撮って頂き、旅をスタートしました。
旧道入口から約700m歩くと、左側に巨大な導水管が設置されていました。
08時01分、東電駒橋発電所(左側)
008 駒橋発電所導水管
駒橋発電所は、1907(明治40)年に東京電燈が山梨県北都留郡廣里村(当時)の駒橋に建設した水力発電所で、出力1,500kWの、当時としては日本最大の発電所でした。東京(早稲田変電所)までの76kmを55kVの特別高圧線で送電を行い、その後本格化する高電圧長距離送電の草分けとなったそうです。現在も3台の水車発電機の内、経年による劣化が著しい1号機と2号機を撤去し、それに代わる新たな水車発電機1台(新たな1号機)が設置され、最大出力も従来の21,200kWから1,000kW増加し、22,200kWとなりました。
旧道は駒橋発電所に沿って左側の細い道を上ります。
  分岐(左側)
009 分岐(左折)
駒橋発電所の分岐から約130m歩くと、第5甲州街道踏切がありました。
踏切に来ると、右方から水の流れる音が聞こえ、Mさんに「滝がありますが、見に行きますか?」と聞くと、二つ返事で「行こう」ということになり、Uターンして滝を見に行くことになりました。
08時04分、第5甲州街道踏切
010 第5甲州街道踏切
踏切から約20m戻ると下に下る舗装された道があり、木の葉で滑らないように気を付けて歩き、下の道に出て橋の中程まで行って滝の全貌を眺めると、比較的大きな滝だったのでビックリしました。
なお、坂を下って降りた道は、東電駒橋発電所に沿って左側に分岐しないで真っ直ぐに行った道です。
白線=踏切から戻って左折する時、黄色=踏切に行かないで右折する時
011 寄り道①
  下り坂の途中
012 寄り道②
08時09分、滝(左側)
013 滝
滝は想定していたのより落差があり隠れた名所のように思い滝の名前を調べましたが分からず、東海道の松並木と同じように「駒橋大滝」と勝手に命名しました。
桂川に架かる橋から駒橋大滝を見た後、下ってきた道を今度は登ると、踏切の遮断機が降りてカンカンと警報音が鳴っていたので、電車が走ってくる方向にカメラを向けて待っていると、普通列車が走り抜けて行きました。
08時13分、第5甲州街道踏切
014 第5甲州街道踏切
踏切を渡り約70m歩くとR20号に合流し、R20号は約30mで右に分岐して駒橋宿に入りました。
08時15分、R20旧道駒橋宿分岐(右折)
015 分岐(右折)
現在の駒橋宿には往時を偲ばせる景観はまったくなく、現代の建物が立ち並んでいました。
016 駒橋宿の現在
R20旧道駒橋宿分岐から約260m歩くと大月公民館駒橋分館先の右側に、尼王大権現が祀られており、境内から一礼して失礼しました。
08時21分、尼王大権現(右側)
017 厄王大権現
尼王大権現から約70m歩くとR20に合流しました。
08時24分、R20合流
018 分岐(合流)
R20を約120m歩くと右側に元旅籠の橿屋(かしのや)があるというので、気を付けて歩いていると叔母さんがいたので「元旅籠だった橿屋さんはこの辺りですか?」と聞くと、「ここです」と教えて下さり、門柱に「かしのや」(白丸印)と記されていました。
08時26分、元旅籠・かしのや(右側)
019 橿屋(旧旅籠)
かしのやから約230mくと正面に満北亭大月店があり、その手前の分岐を右に進みます。
020 駒橋上宿分岐(右折)
分岐を約70m歩くと、右前方に大月の山である「岩殿山」が目の前に現れました。
021 岩殿山
分岐から約180m歩くと駒橋跨線橋があり、跨線橋の下を潜って旧道は直進します。
08時35分、駒橋跨線橋
022 駒橋跨線橋
跨線橋を過ぎ約270m歩くと左側に大月郵便局があり、郵便局を過ぎたあたりからさつき商店街が始まります。
以前は商店街の入口を示すアーチが建っていたのですが、現在は撤去されていました。
そして大月郵便局から約300m歩くと、右側にログハウスを模したJR大月駅がありました。
08時43分、JR大月駅(右側)
023 大月駅
大月駅の駅前通りになまこ壁が美しい旧家があるというので、目をさらのようにして探しましたが見付かりません。
「場所が違うのかな」と思いながら停まっていたタクシーの運転手さんに旧家の印刷物を見せると、「建物は取り壊して無くなり、現在はトヨタレンタになっているよ」と教えて下さいました。
また、時代の流れの中で、有形文化財になるような建物がなくなりました。
024 なまこ壁のある家の跡地
そして駅前ロータリー横(西側)の旧道沿いに明治33年創業の旅館・濱野屋がありました。
08時46分、濱野屋(右側)
025 明治3年創業の旅館・浜野屋
濱野屋から約120m歩くと看板の電話番号を見ただけで歴史を感じる木村屋菓子舗があり、長く続いてほしいお店です。
08時49分、木村屋菓子舗(右側)
026 木村屋菓子舗
木村屋菓子舗から約130m歩くと大月二丁目交差点となり、旧道はR20に合流します。
08時52分、R20合流
027 分岐(合流)
旧道は右側の大月市役所を過ぎた先を右折(合流した大月二丁目交差点から約210m)するのですが、右折する左側の大橋屋と滝口商店の間に、明治天皇御招所址(本陣跡)に石碑が建っていました。
08時56分、本陣跡・明治天皇御招所址(左側)
028 明治天皇御招所址碑&本陣
分岐(白線=旧道、黄線=追分道標)
029 分岐(右折)
私達は分岐を右折しないで、分岐(本陣跡)から約140m先の大月橋東詰交差点を真っ直ぐに渡った処の富士街道追分碑を見にいきました。
08時58分、富士街道追分碑(左側)
030 富士街道追分
追分碑を見た後、旧道への戻りは右側の交差点を渡り、明治天皇御招所址の分岐まで戻らないで、約70m先の脇道を左に入り、富士急大月線に沿って120m歩いて旧道に出ました。
脇道を左折して旧道に入り、約40m歩くとJRを跨ぐように架かる昭和橋を渡り、直ぐ先の交差点(正面左側=㈲カネデン)を左折します。
09時02分、分岐(左折)
031 昭和橋分岐(左折)
交差点から約170m歩くと新大月橋が架かっており、渡ったところから下花咲宿に入りました。
09時07分、新大月橋(R20方向の眺め)
032 新大月橋
新大月橋を渡って約300m歩くとR20に合流し、合流地点から約180m歩くと左側に日本橋から24番目の下花咲一里塚があり、跡碑が建っていました。
また、同じ敷地内に芭蕉句碑が建っていました。
09時14分、024下花咲一里塚跡(左側)
033 下花咲一里塚跡碑
下花咲一里塚・解説
034 下花咲一里塚・解説
《解説》下花咲一里塚は江戸より24番目の24里(約94.2Km)を示すもので、かつて市内にあった一里塚中、古文書、地名、現状などを総合してその存在が確認される唯一のものであると共に、県内の現甲州街道沿いにその面影を留めるものとして、他には見られない貴重な史跡です。
現在の一里塚跡は、国交省甲府工事事務所創立70周年記念事業の一環として復元されたものです。

09時16分、芭蕉句碑(左側)

036 芭蕉句碑
一里塚跡の道路反対側にコンビニ・ファミリーマートがあり、トイレ休憩に立ち寄らせてもらいました。
09時17分~09時21分、トイレ休憩
037 下花咲一里塚道路真向い
一里塚跡から約190m歩くと、右側に花咲下宿のバス停があり、旧宿場名を使っていたので、街道ウォーカには嬉しくなります。
038 下花咲宿バス停
バス停から約200m歩くと右側にファミレス・ガストがあり、その先隣りに本陣跡(星野家)が建っていました(白丸印)。
039 星野本陣の場所
09時28分、本陣跡(星野家)=右側
040 星野本陣・全景
本陣跡は見学できると云うので楽しみにしていたのですが、現在は見学中止にしていて中を見ることはできませんでした。
※「見学は休止しています」と張り紙が貼ってあったので、戸は開かないと思いながら引き戸を引くと開いたので、中を覗きこんでいると、家人が出てきて「何か用ですか」と聞かれ、「すいません、開かないと思っていたら開いたので中を見ていました」と云って直ぐに戸を閉めましたが、ビックリしました。
また、本陣跡の前に、本陣碑と明治天皇花咲御小休所跡碑が建っていました。
09時29分、明治天皇花咲御小休所跡(右側)
041 跡碑
《解説》星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家で、下花咲宿の本陣で、幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には25町歩ほどの広大な田畑を所有し、養蚕では百貫ほどの収穫があったと伝えられています。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保6年(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。再建の年月を示す資料は未発見ですが、嘉永5年(1852)に記された家相図によると、間取りと規模が現在の母屋と一致しており、天保末からこの間にかけて再建されたと考えられています。現在の母屋は、焼失以前のものと比べると、規模は小さくなりましたが、間取りと部屋数は変えず、街道により近づけて建てられました。
また、明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸する時に御小休所にあてられ、江戸時代から続く荘厳なたたずまいは、由緒ある歴史を今に伝えています。
さて、本陣跡を出てR20を歩くと、花咲宿のレリーフが埋められていましたが、時間が経過したためかなり傷んでいました。
※R20の歩道には同じリレーフが埋められていましたが、他のものはもっと傷みが激しくほとんど絵柄などは見れない状態でしたので、新しいものに交換して下さるよう行政の方にお願いしたいところです。
043 花咲宿・歩道バネル
本陣跡を出て約200m歩くと、96㎞距離標が道路の反対側に建っていました。
09時36分、96㎞距離標(左側)
044 96㎞距離標
距離標から約140m歩くと、中央高速道路の大月IC入口があり入口を横切りましたが、一番手前はカーブしていて走ってくる車が良く見えないのと、車も人が渡っていることが少ないためスピードを落とさずに走ってくるので、車を良く確認して渡らないと危険な場所です。
09時38分、中央高速大月IC入口
045 中央高速・大月IC出入口
大月IC入口交差点を渡ってから約450m先の右側にセレモニーホール花咲があり、そこから約50m歩くと右に入る道があり、右に入って約20m歩いた右側に廿三夜碑、左側に石碑群がありました。
09時47分、廿三夜碑(右側)
046 廿三夜碑
廿三夜とは、三夜講といい、正月、5月、9月、11月(または、正月、6月、9月、11月)の23日夜に講員が集まって飲食を共にしながら月の出を待つ講です。
09時47分、石碑群(左側)

047 石像群
石碑群を見て、来た道を約20m戻って旧道に出て約180m進むと、左側にコンビニ・セブンイレブンがあり、休憩しました。
09時50分~10時00分、休憩
048 セブンイレブン(休憩)
水分補給するとともに、行動食で持参したスポーツ羊羹を食べました。
同行のMさんにもと思ったのですが、賞味期限が切れているので、万一のことを考えて私一人で食しました。
休憩を終え出発すると、中央高速大月JCTの富士吉田線の高架下(上り線)に97㎞距離標が建っていました。
10時04分、97㎞距離標(左側)
049 97㎞距離標
大月JCTの高架橋を潜った左側に、尾曽後峠の道標が建っていました。
10時05分、尾曽後峠道標(左側)
050 尾曽後峠道標
97㎞距離標から約200m歩いた右側に「手打ちうどんふじもと」があり、開店していたら食べたかったのですが、通った時間が早く開店していませんでした。
※店舗の駐車場に入る所に、97.2㎞距離標が建っていました。
10時07分、手打ちうどん・ふじもと
051 手打ちうどん店
手打ちうどんの店から約120m歩くと三軒屋交差点、交差点から約110m歩くとエネオスのガソリンスタンドがあり、GSの手前から右手を眺めると宇宙船のような形をしたNECの工場が見えました。
  NEC日本電気大月工場
052 NEC工場
宇宙船のようなNECの工場を眺めながらGS(エネオス)から約100m歩くと右側に大月警察署があり、さらに大月警察署から約500m先に桂川を跨ぐ真木橋が架かっていました。
97.7㎞距離標のところを左折し、JRの下を潜って線路沿いに歩くのが正式な甲州古道のようですが、真木橋付近で桂川を渡る道がないため、R20が旧道になっています。
10時18分、真木橋
053 真木橋
真木橋を渡って約130m進むと歩道橋が併設された真木交差点があり、歩道橋の下に石碑が建っていました。
10時21分、真木交差点(白丸が石碑)
054 真木交差点
  親鸞聖人碑
055 親鸞聖人碑
石碑から約350m歩くと、桂川の支流に架かる初月橋がありました。
10時27分、初月橋
056 初月橋
橋を渡ったところの右側に「お食事 いなだや」があり、右側が食堂、左側が居酒屋になっており、本日は定休日になっていました。
※開店していたら立ち寄って昼食を食べようと思っていたのですが、休みではどうにもなりません。
なお、此処で食べないと、この先笹子駅手前の笹一酒造まで食べるところはありませんので、注意して下さい。
  お食事・いなだや
057 いなだや食堂
いなだやの前を通って約400m歩くと、旧道は左折して源氏橋を渡ります。
10時34分、分岐(左折)
058 源氏橋(左折)
源氏橋からの眺め(甲府方面)
059 源氏橋の眺め①
源氏橋からの眺め(甲府方面)
060 源氏橋の眺め②
源氏橋を渡った所を右折し、細い道に入ります。
分岐(右折)
061 分岐(右折)
JRの線路に沿って①背丈より高くなったススキを眺めながら歩くと、③甲州砕石の骨材生産工場の中に入り、道なりに工場敷地内を進み、短い坂道を登って合流する道をそのまま歩くと④第7甲州街道踏切がありました。
①ススキの中を進む
062 旧甲州道中①
②JRの線路脇
063 旧甲州道中②
③甲州砕石の骨材生産工場
064 甲州砕石工場内
④第7甲州街道踏切
065 第7甲州街道踏切
踏切に着くと遮断機が降りていたので、走ってくる電車を撮ることができました。
電車の入った写真を撮るために待機することなく、自然の流れの中で少ない本数の電車の入った写真を撮ることができ良かったと思います(贅沢を云えば、特急ならなお良かったのですが)。
電車が通過し踏切を渡ると、約10m先の右側に歌碑が建っていました。
10時52分、聖護院道興歌碑(右側)
066 聖護院道興歌碑
歌碑から約220m歩くとR20に合流し、合流した10mくらい先の右側に101.1㎞距離標が建っていたので(白丸印)、約100mの100㎞距離標を記録に残そうと考え旧道を外れて距離標に向かいました。
分岐・合流(白線=旧道・黄線=100㎞距離標)
067 合流
10時56分、100㎞距離標(左側)
068 100㎞距離標
100㎞距離標から100m戻ると101.1㎞距離標がガードレールに付けられ、数m手前に同じ距離標が設置されていました。
同じところに2つの距離標がありましたが、見た目にも正確なのは手前の距離標と思います。
10時59分、101.1㎞距離標(左側)
1㎞距離標
101.1㎞距離標から約80m先の右側に、奥脇本陣跡がありました。
11時01分、本陣跡(奥脇家)=右側
071 奥脇本陣
本陣の建物の右側の玄関には「みどう」の文字が掲げられていました。
072 右側・みどう
建物の左側には本陣の門が残されていました。
073 左側・本陣門
そして、本陣の前のR20沿いに、山本周五郎の石碑が建っていました。
11時04分、山本周五郎誕生之碑(右側)
074 山本周五郎誕生之地碑
本陣の門のところから旧道に出て約30m進むと、右側に秋葉常夜燈と廿三夜碑が建っていました。
11時06分、秋葉常夜燈・廿三夜碑(右側)
075 廿三夜碑
秋葉常夜燈は明治40年に建立されたものです。
道路の反対側の100.2㎞距離標の約10m先の左側に、脇本陣跡(天野和彦家)がありました。
11時07分、脇本陣跡(天野和彦家)=左側
076 脇本陣・天野家?
脇本陣跡から約100m歩くと、初狩駅前交差点となり、左側の跡地にコンビニ・ローソンが建物を新築するとともに、加盟店オーナーを募集していました。
11時13分、初狩駅前交差点
077 初狩駅前交差点
11時を過ぎたので、Mさんに「何処かで昼食を食べましょう」と話し、初狩駅前に行けば食べる店が1軒くらいあるだろうと考え初狩駅に向いました。
歩きながら食べる店があるかなと思い、近くにいた男の人に「駅前に食べる所はありますでしょうか?」と聞くと、「いや、ないね」と期待外れの答えが返ってきてガッカリしました。
続いて、「この先の甲州街道に食べる処はありますか」と聞くと、同じように「ないね」とさらにガッカリする答えが返ってきたので、Mさんに「食べる所を探しながら先に進みましょう」と話し初狩駅前交差点の戻り、旧道を先に進みました。
初狩駅前交差点から約200m歩くと、一目富士の宮川橋があり、左の方角を見ると雲に覆われて富士山は見えませんでした。
11時17分、宮川橋
078 宮川橋の一目富士
※一目富士=宮川橋から南の方角に2つの山の間から富士山が見える
宮川橋から約160m歩くと、左側に石造りの歴史を感じる家があり、有形文化財の指定を受けていました。
11時19分、石造りの家(左側)
079 歴史的建造物(有形文化財)
石造りの家から約60mの初狩小学校東交差点を過ぎると歩道橋があり、歩道橋の先の右側に芭蕉句碑の石碑が建っていました。
11時22分、芭蕉句碑(右側)
080 芭蕉句碑
※道路の反対側には大月市消防団第二分団の建物があり、芭蕉句碑の左側の道路を越えたところには初狩小学校があります。
芭蕉句碑から約400m歩くと、右側に本陣跡(小林茂家)があり、家の西側に明治天皇御小休遺跡碑が建っていました。
11時31分、本陣跡(小林茂家)=右側
081 中初狩本陣(小林茂宅)
  明治天皇御小休遺跡碑(右側)
082 明治天皇御小休遺跡碑
小林本陣から約350m歩くと右側に初狩公民館神戸分館があり、さらに約100m先の唐沢橋手前の左側に武田家を裏切った小山田信茂の首塚がある標板(白丸印)が建っていました。
11時38分、首塚標識(左側)
083 首塚案内標
小山田佐兵衛尉信茂は、主である武田勝頼を裏切って弓を引いたとして、織田信長に甲斐善光寺で斬首されました。
首塚は少し離れた処にあるので、立ち寄りませんでした。
※この場所は唐沢橋を越えたところで気が付き戻ってきたため、間違わなければ掲載している時間は少し早くなります。
小山田信茂の首塚標識の直ぐ後ろの川に架かる唐沢橋を渡ると、約20m先の左側の石垣の上に秋葉常夜燈と石碑が建ち並んでいました。
11時39分、秋葉常夜燈・石碑群(左側)

084 石像群
そして右斜め前方に、歴史を感じるレンガ造りの蔵の家がありました。
11時40分、レンガ造りの蔵(右側)
085 レンガ作りの蔵
私が首塚の標識に戻ったり、石像群やレンガ造りの蔵の家などを写真に撮ったりしている間に、Mさんは笹一酒造の看板付近まで進んで遅れた私を待っていて下さいました。
カーブの多い甲州道中の中で長い直線道路となると景色が広がり、正面に峰の山(911.2m)が見えました。
2m)
笹一酒造の看板から約100m先の左側に、102㎞距離標が建っていました。
11時48分、102㎞距離標(左側)
087 102㎞距離標
距離標の先で道路は右に曲って船石橋を渡り、渡った先で左に曲がるクランク形になっています。
船石橋を渡って道路が左に曲がる所の左側に、石碑が建っていました。
11時50分、御船石所在地碑(左側)
088 御船石所在地碑
石碑を後に歩いていると正面の中央線高架を特急が走るのが見え、急いでカメラのシャッターを押しました。
列車はこの後、R20を越した処で短いトンネルに入り、笹子トンネルに向かっていきます。
089 トンネルに入る列車
一方、石碑から約650m進むと右側にシマダトレーディングがあり、会社の手前の細い道(黄色線)が甲州古道なのですが、途中で道がなくなっているため、現在はR20をそのまま真っ直ぐに進みます。
11時59分、分岐(直進) 黄矢印方向は行き止まり
091 甲州古道の入口
旧古道の分岐から先は歩道がないため、大型車が走って来ると離れて走ってと云いながら歩きました。
旧道はJRの高架橋を潜り上り坂を右に大きく曲りながら進み、約240m歩くと滝子川が流れており、川を渡った所を右折して白野一里塚に向かいます。
①白野一里塚への分岐(右折)
092 白野一里塚案内①
②分岐から約10mでY字路を滝子川に沿って右に進む
093 白野一里塚案内②・分岐(右)
③JR高架橋を潜る(右側は滝子川)
094 白野一里塚案内③
④中央高速のガードの手前左側に一里塚碑
095 白野一里塚・全景
日本橋から25番目の一里塚があり、白塗りの標柱が建っていました。
12時06分、025 白野一里塚跡(左側)
096 白野一里塚跡碑
一里塚跡碑からR20に戻る途中、シマダトレーディング付近から眺めたJR高架橋の短いトンネルが見えました。
098 トンネル出口からの眺め
R20に戻り約40m歩くと分岐があり、分岐を右に進み白野宿に入ります。
12時11分、分岐(右折)
099 分岐(右折)
分岐を右に入って約30m歩くと、右側に白野三宿の最初のバス停がありました。
12時12分、白野下宿バス停(右側)
100 白野下宿バス停
ここも駒橋宿と同じように往時を偲ばせる建物はなく、現代風の建物が続いていました。
101 白宿の現在の眺め
下宿バス停から約200m進んだ左側に、二つ目の白野中宿バス停がありました。
12時15分、白野中宿バス停(左側)
102 白野中宿
バス停の左側先に笹子公民館白野分館があり、約30m先の右側に元旅籠のよろず屋がありました。
12時17分、元旅籠・よろず屋(今泉高義家)=右側
103 旧旅籠よろず屋敷(今泉高義家)
元旅籠から約90m歩くと宝林寺参道の石柱が建っており、その手前に脇本陣跡がありました。
12時19分、脇本陣跡(天野家)=右側
104 天野脇本陣跡
宝林寺参道入口(右側)
105 宝林寺参道
宝林寺参道入口から2軒目のブロック塀に囲まれた今泉家があり、ここが今泉本陣跡で現在も子孫の方が住んでおります。
12時21分、本陣跡(今泉家)=右側
106 今泉本陣跡
今泉本陣跡から約20m歩くと3つ目の白野上宿バス停があり、設置されていたベンチで持参した行動食を食べ空腹をいやしました。
12時21分、白野上宿バス停(右側)
107 白野髪宿バス停
持参した行動食(これにプラスしてスポーツ羊羹も食べました)
108 行動食
12時21分~12時40分、昼食
109 休憩
空腹を少しいやし再スタートをして約80m歩くとR20に合流し、約70m進むと右側に子(ね)神社があり、Mさんの了解を得て参拝に立ち寄りました。
12時43分、子神社参道入口(右側)
110 子神社参道
参道は真っ直ぐ進み突き当りを右に回り込むようにして境内に入ると、正面に本殿が祀られいました。
  子神社・本殿
111 子神社・本殿
本殿前に立つとお賽銭箱がありません。
今日お参りに立ち寄った神社も同じようにお賽銭箱は正面の扉の中に置いてあり、扉に開閉する小窓を開けて奉納するようになっていました。
お賽銭泥棒対策のために講じられているのだと思いますが、いやはや不徳を積む人が横行する時代になりました。
私は小窓からお賽銭をご奉納し、子神社の神様にYumiさんの病気平癒を、旧東海道夫婦二人旅と同じように声を出してご祈願しました。
子神社の参拝を終え、R20に戻り約30m歩くと大鹿川橋があり、橋を渡ると約30m先に分岐があり、右折して進みます。
12時48分、分岐(原入口バス停前)=右折
112 分岐(右折)
右折して約70m進むとJRのガードがあり、ガードを潜った処を左折します。
JR中央本線のガード(潜って左折)
113 分岐(左折)
ガードを潜った左側に立石坂の立石の標柱が建っていました。
12時50分、立石坂の立石の標柱(左側)
114 立石坂の立石標柱
立石は資料でガードを潜った先で見れるようなことが記されていたので、ガードを潜ってJRの線路に沿って左折して坂を登って線路の反対側が見れるようになっても、資料に記されていた立石は見れません。
「無いな」と思いながら資料に記されていたことを思い出すと、立石はガードを潜って右折すると見れたのかな思いましたが、歩いて来たところを戻って見に行くのは取り止めました。
立石坂の立石=ガード手前左側の石井工業で聞くと、石碑の場所は教えて下さるようです。
左折して坂を登るなど約350m歩くと、原公民館の手前の右側の石垣の上に万霊塔が建っていました。
12時54分、万霊塔(右側)
115 万霊塔
《解説》万霊塔は三界有縁無縁のありとあらゆる精霊達を供養する塔で、三界とは、私達が悟りを得て仏に成るまでの間に、延々と生まれ変わり死に変わりするこの世あの世をまとめて、大きく三つに分けた世界のことだそうで
①欲界(よっかい)
あらゆる欲望や目に見える形に囚われた世界(現在の我々の世界もこの一部)
②色界(しきかい)
欲望は無いが、目に見える形、物質に支配された世界
③無色界(むしきかい)
沃欲や物質を超越した精神世界だが、未だ完全な悟りではない世界
で、三界の万霊とは「一万の霊」ではなく、「全ての霊」という意味だそうです。
万霊塔から約350m歩くと、右側に稲村神社があり境内に合体道祖神があるというので立ち寄りました。
13時02分、稲村神社(右側)
116 稲村神社
境内の右側に合体道祖神が祀られていました。
118 合体道祖神
《解説》信濃の道祖神は男女両神が寄り添っているすの双体道祖神ですが、笹子の合体道祖神は男根と女陰の自然石と丸石を合わせたもので、甲州でも珍しいものだそうです。
稲村神社もお賽銭箱は外に出ておらず、本堂の中に置かれているようです。
また、参拝は少し前に行ったばかりなので、本堂に一礼して失礼させて頂きました。
神社を出ると、斜め左側に親鸞上人念仏塚が有りました。
13時05分、親鸞上人念仏塚(左側)
119 親鸞聖人念仏塚
《解説》塚の前に葦ケ池があり、親鸞上人がここの地頭宅に立ち寄った時、地頭宅の娘が修行僧に心を寄せましたが、思いが叶わず葦ケ池に身を投げたと聞き、念仏供養小石に名号を書いて池に投げると娘の霊は成仏し、観世音大士となり白虎の先導で空を飛び伊豆の手石浜へ行ったそうです。
念仏塚から約170m歩くと、左折する分岐があり、左折しました。
13時09分、分岐(左折)
120 分岐(左折)
現在の甲州旧道は左折していますが、本来の旧道はこの分岐を左折しないで直進していたのですが、JRの線路が敷設に伴い旧道が分断され、左折して進むようになりました。
分岐を左折して約30m歩くとJRのガードの手前で左に進む分岐があり、左に約15m進むと左側のブロックの上に葦ケ池碑が建っていました。
13時10分、葦ケ池碑(左側)
121 葦池の碑
葦ケ池碑から旧道に戻り約20m歩くとJRのガードがあり、ガードを潜った(黄色線)処を右折しました。
※現在の旧道は、黄色線のところは右折せず、そのまま真っ直ぐに約50m先のR20号に出て右折します。
122 JRガード
黄色線の処を右折したのは、側溝に沿ったあぜ道を線路際まで歩いたところに、JRの線路敷設で分断された旧道が残っていたからです。
以下は、線路際からの旧道の道案内ですが、①と②は旧道ではありません。
また、手前勝手ですが、この道は線路際を歩くので、通る時は列車が来ない時を選んで安全を第一にして下さい。
①ガードを潜った処の側溝に沿って右折
123 旧道案内①
②側溝に沿って線路際に登ります
124 旧道案内②
旧道は、②の石垣の処に住んでいるご主人に確認しました。
③線路際のロープを潜ります=Mさんが立っている処から旧道です
125 旧道案内③
④使われなくなった甲州旧道
126 旧道案内④
⑤R20号に合流(右の石垣の先はNTT東日本笹子電話交換センターです)
127 分岐(合流)
⑥105.2㎞距離標(左側)=合流地点
2㎞)
R20に合流して約400m歩くと、R20が左にカーブする分岐があり、旧道は真っ直ぐに進みます。
13時25分、分岐(直進)
129 分岐(直進)
直進した旧道はこれまでR20に沿って左に曲がって(黄色線)笹子川に架かる笹子橋を渡っていたのですが、現在は車両通行止めとなっていて直進するようになっています。
ここを直進するのが本来の旧道で、笹子小学校の開校に伴って旧道が通れなくなり、黄色線の方向に替えられていました。
しかし時代の変化で、小子化の進行により笹子小学校が廃校となり、元の旧道が通れるようになりました。
①白線=本来の旧道、黄色=今までの旧道
130 分岐(右方向)
②旧校舎の脇を通って旧校庭を歩く
131 旧笹子小学校内
③分岐を左側に進む(旧校庭の出入口)
132 分岐(左折)
④左に約60m歩き、ガードレールに沿って左折
133 分岐(左折・笹一酒造方向)
⑤左折して約70m歩くとR20と合流
134 分岐(右折=正規の道)
※白矢印=旧道を笹子駅に向かう、黄矢印=笹一酒造に向かう
私とMさんはR20を横切って道路の反対側に渡り、今日の到着地である笹子駅前交差点に向かわないで、アルコール派の私は試飲、ノンアルコール派のMさんは空腹を癒すことを目的に約110m、R20を東京方面に戻って笹一酒造に向かいました。
13時34分~13時58分、笹一酒造(右側=東京方向に向かって)
135 笹一酒造
酒造本館の左端に笹子峠から湧き出している御前水があり、乾いた咽喉を潤わせて頂きました。
  
御前水(笹一酒造)
136 御前水
  
御前水・解説
137 御前水パネル
敷地内の酒遊館に立ち寄り、私は2種の笹一を試飲させて頂き、Mさんとざる蕎麦を注文し空腹を癒しましたが、Mさんの要望に応えてもらえるトッピングが何もなく、食べただけで何も土産に買うことなく酒造を後にしました。
また、駐車場の脇にギネス登録されている太鼓があるというので、駐車場付近を探しましたが見当たりのせん。
酒造の方に聞くと、「太鼓の皮の貼り替え修理中で、2年は戻らない。世界一の太鼓の皮はなかなかないんだよ」と云われ、残念ながら世界一の大太鼓は見ることができませんでした。
R20を道路を横切った場所まで戻り(約110m)、本来の旧道に戻った分岐から約110m歩いた左側に笹子餅で有名なみどりやがあり、立ち寄りました。
14時03分、みどりや(左側)
138 笹子団子・みどりや
笹子餅は食べるのが今回が初めてのため、旅の終わりにお土産に買って帰ろうと考えていたので、店の看板を見て躊躇なく中に入りました。
笹子餅は緑色のおまんじゅうで、私は5個入り買い(写真の左側)お土産にしました。
  笹子餅
139 笹子餅
笹子餅を買ったみどりやから約40m歩くと、今日の到着地である「笹子駅前」交差点となり、Mさんにお願いして到着の看板を掲げて到着式を行い、今回の旅を終了しました。
14時07分、笹子駅前交差点(到着地)
141 笹子駅前交差点
【帰路】
笹子駅前交差点で到着式を行い笹子駅に向かおうとすると、駅ロータリーの左手に笹子隊道記念碑が建っていました。
14時09分、笹子隊道記念碑(左側)
142 笹子隊道記念碑
  笹子隊道記念碑の由来
143 解説
笹子隊道記念碑を記録に残してから笹子駅に向かい、列車の到着を待ちました。
14時10分、笹子駅着
144 笹子駅
駅舎で列車の時間を待っていると川崎の方から甲府駅まで自転車で走る若者がおり、しばらくの間話しをして過ごしました。
若者はこの後、笹子旧道を走って峠を越える話してましたが、車がほとんど通らなくなった旧道(私達が歩く予定の歩道ではなく、旧自動車道です)なので、走れる道路状態になっていてくれたら良いですが、結果は分かりません。
14時36分、笹子駅発
列車はまだ山行帰りの人が乗車する前だったため、Mさんと並んで座り疲労回復の睡眠に入り、今日はYumiさんの処には立ち寄らないで途中のスーパーで夕食の弁当を買って家に帰ってきました。

【次回の予定】

次回(第9回)は10月12日(月)に「笹子駅入口交差点から国道20号大和橋西詰交差点までの11.40㎞」を旅する予定です。
この旅は、小仏峠以上に厳しい行程(歩いている人が少ないので古道が分かるのかどうかと、標高差が大きいことです)になるのではないかと考えているので、山歩きの支度をして臨みたいと思います。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 快晴
【宿場】(15)野田尻宿 ⇒ (16)犬目宿 ⇒ (17)鳥沢宿 ⇒ (18)猿橋宿
【行程】歩行距離=12.38㎞ 総距離=91.35㎞  
西光寺前分岐⇒(3.92㎞)⇒君恋温泉⇒(3.32㎞)⇒R20鳥沢合流⇒(3.35㎞)⇒R20猿橋旧道入口⇒(1.79㎞)⇒R20駒橋旧道入口

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第7回旅の宿場)
第7回宿場
 ↓旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第7回全体ルート
 第7回の旅ルート
  (西光寺前分岐
⇒ R20駒橋旧道入口)
第7回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
今日は6月13日に引き続いて、今月2回目の旅をしました。
同じ月に2回目の旅をしたのは、4月に旅が出来なかった分を取戻し、秋の再開(9月)前に猿橋まで旅を進めておきたいと考えていたからです。
しかし、梅雨真っ只中のこの時期、直前まで天気が曇り一時雨などと良くなかったため、旅の二日前までは出発を諦めていました。
ところが、急に天気が回復し、前日(27日)の朝になると一転して晴れとなり、出発することにしました。
《準備》
地図や史跡場所などの地図書き込みは数日前に終了し、ザックも前週のまま使用することにし、前日の「にこにこ麻雀」の帰りにスーパーに立ち寄って昼食のおにぎりと行動食(菓子パン)を準備しました。
目覚ましの音楽で目を覚まし、洗面、血圧・体重測定、旅の身支度を整え、靴はアップダウンはありますが山の中ではないので、ウォーキングシューズで歩くことにしました。
今日の旅は、前回の到着地である「野田尻宿・西光寺前分岐」から「猿橋宿・R20駒橋旧道入口」までの12.38㎞を歩き、木造の旧猿橋を渡るのが楽しみです。
《移動》
ザックを自転車に乗せ、半袖シャツで外に出ると少し寒く感じるほど朝の空気は冷えており、ラジオ体操を終えた公園を走り最寄り駅に向かいました。
最寄り駅の駐輪場に自転車を置き、最寄り駅から電車を乗り継いで出発地に向かいました。
08時25分、上野原駅着
上野原駅でトイレを済ませバス停に行くと乗車する「不老下」行きのバスが停車しており、車内で待たせてもらうと、山行に向かう7~8人のグループと夫婦連れの2組、および通勤客が1人乗り出発しました。
08時45分、上野原駅バス停発
002 上野原駅バス停
バスは上野原しないで通勤客を降ろすとノンストップ状態となり、途中の権現山和見入口で夫婦連れが下車し、グループは終点の不老下まで一緒でした。
09時10分、不老下バス停着
003 不老下バス停
ここから前回の到着地である「西光寺前分岐」まで約580m歩くのですが、ずーと上り坂です。
朝の初っ端から上り坂はやめてくれと云いたのですが、自分に「さー、行こう」と心の中で号令を掛け出発しました。
バス停から約500mの上り坂を歩くと、ショートカットできる分岐があり右折しました。
004 分岐(右折)
右折して住宅地の細い生活道路を約60m上ると、先ほど歩いていた道に合流し、右折して約20m進むと前回の到着地である「西光寺前分岐」に着きました。
005 分岐(右)
ザックを降ろし、水分補給して乱れている呼吸を整え、帽子の代わりにバンダナ(頭や顔の汗を吸い取ってくれる)を巻き、持参した看板を取り出し出発式の準備をしました。
最初は出発地を入れた場所にカメラをセットすることが難しいため、私が写っていない出発式にしようかと思っていると、分岐の直ぐ脇の家の方が庭にいたので、「すいません、シャッターお願いできませんでしょうか」と図々しくお願いし、出発式の看板を掲げている写真を撮って頂きました。
【=旅=】
09時20分、出発地(西光寺前分岐)
007 出発式①
西光寺前の分岐を歩き出すと、道は西光寺の裏手を廻り込むように進み、西光寺を過ぎたあたりの左側に竹林が植生されていて、陽射しを遮ってくれるので歩き易い道になりました。
009 西光寺裏の竹林
竹林を過ぎると左側に中央高速に架かる北久保橋があり、道標に沿って北久保橋を渡ります。
09時27分、中央高速道路・北久保橋(左折)
010 分岐(左折)
橋の途中で東京方面を見ると談合坂SA・下り線の出口があり、SAから切れ間なく車が出てきていました。
↓北久保橋から東京方面の眺め(談合坂SA・下り線)
011 中央高速・上り線談合坂SA
北久保橋を渡って約30m歩くと舗装路から土の道となり、さらに約80m歩くと県道30号に合流しました。
012 舗装から砂利道
県道30号に合流すると、道路向かい側に道標が建っており、犬目・鳥沢方面に向かいました。
 
↓分岐・県道30号合流(右折)
013 合流(右折)
09時32分、分岐・合流の道標(左側)
013-1 合流・道標
合流してから約150m歩くと、右側のブロックの上に一里塚跡碑が建っていました。
09時34分、019荻野一里塚跡碑(右側)
014 019荻野一里塚跡碑
荻野一里塚は、日本橋から20里(78.5Km)・19番目のものです。 五街道は徳川家康によって制定された東海道・中仙道・奥州街道・日光街道・甲州街道で、二代将軍秀忠が一里塚の制を定め、永井白元・本白光重の二人を一里塚の奉行に任命して、全国の果てから果てまで一里塚を築かせました。一里塚は街道の両側に五間四方(82.5m2)の大きさで築かれた塚で、その上にエノキ・ケヤキ・松・モミなどの木を植え目印としました。植えられた木はエノキが多かったのですが、荻野一里塚は松が植えられたようです。一里塚は、明治34年、中央線が開通して交通機関が汽車に代わるまで、旅人が江戸からの距離を知って、もう一里、もう一里と塚を楽しみに旅をしたり、人夫や馬を借りるときの駄賃をきめる基準にしていました。また、暑いときはひと休みする木陰に利用したり、にわか雨には雨宿りの場ともなっていました。
一里塚碑から約50m先の右側に、一里塚・解説パネルが建っており、パネルの後ろに階段が備えられており(白矢印)、一里塚跡碑まで行けるようになっていました。
016 荻野一里塚・解説
一里塚解説パネルから約110m歩くと、左側に入る道があり、その先に「山の上美術館」がありました。
※写真の黒矢印は、旧道の進行方向を示している。
09時39分、山の上美術館(左側)
017 山の上美術館入口
旧道は上り坂が続いており、進行左側を見ると快晴の空に、綺麗な山々が眺められ、疲れを癒してくれました。
018 権現山方向の眺め
上り坂の旧道を中央高速に沿って約400m歩くと右側に「荻野バス停」があり、バス停からさらに約170m歩くと右側に中央高速の上を跨ぐ通路があり、左端を水路のごとく水が流れていました。
長い間、中央高速道路を走っていましたが、頭上に水路が有ったとは知りませんでした。
09時48分、水路のある高架通路(右側)
019 水路のある橋
水路のある高架橋から約50m歩くと矢坪橋があり、右折して橋を渡りました。
09時49分、矢坪橋
020 分岐(矢坪橋)
橋の中程のところから甲府方面を眺めると、富士山の頭部が見えました。
まったく予期していなかったので、見えた時は嬉しくなりました。
 ↓富士山(矢坪橋中央部付近からの眺め)
021 矢坪橋からの富士山の眺め
矢坪橋を渡ると十字路となり、旧道は直進します。
022 矢坪橋の分岐(直進)
橋を渡った十字路の右角に「棚頭の仁王像」の案内標識が建っていましたが、片道約700mの案内を見て少し遠すぎると割愛しました。
023 棚頭の仁王像・案内
仁王像は高さ約2.3m、トチ材の寄木造で、赤く彩色されている。やや素朴ですが非常に力強い表現が特徴で、北都留郡でも希有な仁王像だそうです。作者・製作年代は不明ですが、江戸時代末期、相州鎌倉の富五郎による作とか、江戸時代後期の延享から安永年間、旧秋山村の宮大工・俗称日光三左衛門による作とも言われています。本像は傷みが激しかったため、平成13年から2ヵ年にわたり解体修復されまたそうです。
仁王像を見に行くのを割愛し、先に進むと十字路から約30mの右側に石塔が建っていました。
09時53分、大乗妙典日本廻国供養塔(右側)
024 供養塔
供養塔から約30m歩くと、右に上る道(矢坪坂)があり、旧道は矢坪坂を上ります。
 ↓県道30号矢坪坂入口(右)
025 分岐(右)
右側の矢坪坂を約10m上ると、右側に「矢坪坂の古戦場跡」碑と旧甲州街道の道標が並んで建っていました。
09時54分、矢坪坂の古戦場跡(右側)
026 矢坪坂の古戦場跡碑&道標
〔解説〕
長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。
 この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い昔戦場となったところである。
享禄3(1530)年4月23日相模国の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻めこみ矢坪
坂に進んだ。
一方、小山田越中守の手勢が坂の上で待ちかまえ、両者は坂をはさんで
対峙し、やがて激戦が展開された。同所一帯は南西に切り立った崖と北面に山腹を臨み道が入り組んでいる要害の地である。この戦いは多勢に無勢、ついに小山田氏は敗退となり、富士吉田方面に逃げた。現在、つわものどもが夢の跡をしのぶ影もない。ただ、たまに矢じりなどが掘り出される
ことがあったという。また付近に五輪塔四基、宝篋印塔一基があるが、この戦の関係のものかどうか定かでない。
坂を上っていくと右に少し戻るような坂がありますが、旧道は真っ直ぐ進みます。
027 分岐(直進)
さらに坂を上っていくと峠道のような下から登ってくる道が交差する十字路となり、ここも真っ直ぐに進みます。
028 分岐(直進)
やがて武甕槌(たけみかづち)神社
の鳥居がありましたが、神社はかなり上のようなので、鳥居の前で一礼して通り過ぎました。
09時59分、武甕槌(たけみかづち)神社・鳥居=右側
029 武甕槌神社・鳥居
鳥居を過ぎると直ぐに最後の民家がありましたが、
民家の庭と見間違える道となりますが、真っ直ぐに行くと、いよいよ森の中へと旧道は進んで行きます。
030 分岐(直進)
防護柵で保安された暗い森の中を進みますが、江戸時代はこのような防護柵などなかったので、一歩間違えば命の危険がある道で、怖かったことと思います。
031 古道の状況
そして道を進むと、案内板にあった宝篋印塔が右側に建っていました。
10時02分、宝篋印塔(右側)
032 宝篋印塔
石塔を過ぎた辺りから森から出て、展望が開けたフェンスに守られた道になり、遠くに談合坂SA・上り線が見えるようになりました。
033 転落防止フェンス
 ↓中央高速道・談合坂SA・上り線(白囲み付近)
034 談合坂SA・上り線
旧道は、この先でフェンスがなくなり、再び道は分岐(良く見ないと分からないので要注意です)します。
真っ直ぐ行くと県道に降りてしまうので、右に少し上へ向かう草の道へ進むのですが、進むほどに坂道は急になり、草が生い茂った道になりました。
 ↓分岐(右)
035 分岐(右)
そして、旧道(白矢印が進行方向)の右側に矢坪金比羅神社参道道標
が建っており、神社に通じる参道(黒矢印)は草ぼうぼうのやぶ漕ぎ道になっていました。
10時05分、矢坪金比羅神社参道道標(右側)
036 矢坪金比羅神社・参道
旧道は右側に参道碑を見てそのまま通り過ぎると、転落防止柵にベニヤを貼り付けた道となり、柵がなかったらかなり怖い道になります。
038 古道の状態
そして柵がなくなり、森の中に入って数十m歩くと防護フェンスに変わった処の左側に「座頭転がし」の標板が、その数m先に「この上 天王様」の標板がそれぞれ建っていました。

座頭ころがしとは、鎌倉時代、盲人の座(組合)として当道座があり、これは平家物語を語る琵琶法師の集団で、その中に階級として検校、別当、勾当、座頭があり、一般の人々が按摩や、琵琶法師を呼ぶとき座頭と言うことが多かったようです。
座頭というと、勝新太郎の座頭市のイメージが座頭のイメージと繋がっており、きっと盲人の座頭がここを通り、石につまずいて崖下へ転落下のではないかと想像します。
それほど、この道は難所であったことと思います。
10時10分、座頭ころがし(左側)
039 座頭ころがし碑&天王様案内
 ↓座頭転がし碑(左側)
040 座頭ころがし碑
 ↓天王様碑案内(左側)
042 天王様・案内
道は再び登りとなり、草の上を気持ちよく進むと、土の道が舗装になり新田集落に入りました。
10時15分、新田集落入口
043 新田部落入口
集落に入り約120m歩くと右側にひと際目立つ門構えの家があり、門の左側に「旧甲州街道新田宿 尾州の殿様定宿家」と看板が掲げられていました。
10時17分、尾州大納言定宿家(米山家)=右側
044 尾州大納言御常宿地(米山家)
046 尾州大納言宿泊家パネル
新田集落を出る手前の左側に、「山日YBS」の鉄塔が建っていました。
047 山日YBS鉄塔
鉄塔を左に見ながら旧道を下ると県道30号に合流し、道路の反対側に「安達野バス停」があり目印になると思います。
 ↓県道30号合流(安達野バス停=左側)
048 合流(安達野バス停)
合流して約20m進んだ右側に犬目宿碑と道標が建っていました。
10時23分、犬目宿碑・道標(右側)
049 犬目宿碑・道標
道標から約80m歩くと左側に、昔懐かしい2階に外縁側のある家(佐藤家)がありました。
050 旧家の建物(佐藤弘家)
斜め前方には、辺りを
威圧するような大きなビル、隣りにはログハウス風の家と、近代的な建物から歴史のある家が一カ所で眺められる全国的にも珍しい場所でした。
近代的なビルは、石垣エンジニアリングというコネクター端子の金型製作の専門メーカーですが、外観を見ていると結婚式場のような建物です。
写真には残していませんが、石垣エンジニアリングの道路を渡った反対側にはログハウス風の家が建っています。
051 石垣エンジニアリング
石垣エンジニアリングから上り坂を300m歩くと、左側に「下宿野菜売場」があり、どれでも100円で売っていました。
私は荷物になるのと、料理にはあまり関心がないため、そのまま通り過ぎました。、
052 下宿野菜売り場
無人の野菜売場の隣りの上條家の石垣に、地元の英雄である犬目兵助の墓の案内板が掲げられていました。
10時31分、犬目兵助の墓・案内看板(左側)
053 犬目平助墓地案内標板
案内板が掲げられている石垣に沿って坂道を上ると、左側に犬目村兵助の墓がありました。
054 犬目平助の墓
〔犬目村の兵助〕
天保4(1833)年の飢饉から立ち直ることができないのに、天保7(1836)年の大飢饉がやってきました。その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、餓死者が続出する悲惨な状況となりました。各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀昔りの交渉をしても効きめはないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。称して、『甲州一揆』といわれています。このときの兵助は40歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、この一揆首謀者は、当然死罪です。家族に類が及ぶのを防ぐための『書置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されています。一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、さらに伊勢を経ていますが、人々の善意の宿や、野宿を重ねた一年余の苦しいたびの様子が伺えます。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3年に71歳で没しています。
兵助の墓から旧道に戻り約40m歩くと、右側の白倉家の入口脇に牛頭観世音碑が建っていました。
10時35分、牛頭観世音碑(右側)
055 牛頭観世音
観世音碑から約20m先の道路反対側に、犬目宿直売所があり、宿場絵図と犬目宿碑が建っていました。
 ↓犬目宿案内絵図
057 犬目宿絵図
私の探し方が悪かったのか、案内板に記されていた「本陣跡」、「問屋場跡」、「明治天皇御小休所跡」の史跡(標柱など)は見付けることはできませんでした。
10時36分、犬目宿碑

056 犬目宿碑
犬目宿碑から約90m歩くと左側に奈良家があり、駐車スペースの脇に兵助の生家の標板が建っていました。
なお、兵助の遺品である「旅日記と離縁状」が、兵助の生家である水田屋(奈良尚文氏)に保管されているそうですが、予約なしでは見せてもらえないだろうと思い、そのまま先に進みました。
10時39分、兵助の生家(屋号=水田屋)・左側
058 犬目兵助の生家(奈良家の前)
 ↓歩いてきた犬目宿の眺め
060 犬目宿の眺め(歩いた道を振り返り)
生家から約170m、右にカーブしながら歩くと、右側の宝勝寺入口脇に石球のオブジェが飾ってありました。
061 石球のオブジェ
そして、宝勝寺に入る坂道を過ぎた右側に、旧道案内と境内からの富士山眺望のことが記された看板が建っていました。
062 旧甲州街道案内図
私は寺院に上る坂道を歩くのが嫌で、そのまま素通りしました。
そして約240m歩くと右側に入る道があり、入口に鳥居が建っていました。
10時50分、白馬不動尊・鳥居
063 白馬不動尊の鳥居
鳥居を過ぎて斜め前方を見上げると、高台に古民家風の建物と東屋が見えてきました。
ここは瀧松苑という予約制の蕎麦店ですが、店舗に入る車の入口はロープで入れないようになっていたので、営業時間前なのかもしれません。
064 瀧松苑(蕎麦店)
瀧松苑入口から約140m歩くと、県道から右に上って行く道があり法面ブロックに「甲州街道古道」と記された道標が掲げられており、旧道は県道から分岐してこの道を上ります。
ただ、掲げられている道標は、ブロックと同色になるくらい汚れているので、気を付けないと見逃してしまうため、瀧松苑を過ぎてから最初の分岐した上り道です。
10時53分、君恋坂分岐(右)
065 分岐(右)
 ↓分岐入口に掲げられた道標
066 分岐・道標
古道らしい風情が残った道で、木立が陽射しを遮り、涼しく感じながら歩くことができました。
067 古道の状態
木立を抜けると左に進みたくなるのですが、塀に沿って真っ直ぐ進みます。
069 分岐(直進)
すると数十mで左側に「君恋温泉」の看板が立っており、反対の右側に温泉の建物が建っていました。
10時58分、君恋温泉(左側)
070 君恋温泉
 
↓君恋温泉建物(右側)
071 君恋温泉
温泉の建物の前を過ぎると道が分岐しており、「5街道Googleマップ」は真っ直ぐになっていたので、右の土道を進みました。
左は舗装路で県道30号に突き当たるのですが、かなり遠回りになります。
072 分岐(右)
土道に入ると歩いた跡は残っているので、これで良いのだろうと思いましたが、少し不安になる感じです。
073 古道の状態
やぶ漕ぎしそうな道を下っていくと、古道らしき道を進むため窪地を左に曲りながら渡ります。
074 古道の状態
窪地を渡って左に進むと約100mで国道30号に合流しました。
国道に合流する前に道標が立っていましたが、道標の後ろ側を歩くので、この道標は合流口に立っていると分かり易いと思います。
11時04分、分岐・合流(右)
075 合流地点
県道に合流する手前の左側に石碑が建ってした。
 ↓不動明王石碑(左側)
076 不動明王碑
県道30号に合流したところから左に曲がりながら約80m歩くと、左側に本橋から20番目の一里塚跡がありました。
11時05分、020恋塚一里塚跡(左側)
077 020恋塚一里塚
078 恋塚一里塚・解説
一里塚跡から約190m歩くと分岐する道があり、旧道は分岐して右に進みます。
079 分岐(右)
分岐を右に入ると直ぐに山住神社の参道(階段)があり、参拝に立ち寄りました。
11時08分、山住神社(右側)
080 山住神社・鳥居
階段を上り、境内の奥に本殿があり、ザックを降ろし、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅の安全を祈願させて頂きました。
神社を出て馬宿という集落に入りましたが、小さい集落で約150m歩くと民家が終わり森の中に入り、道を下ります。
081 古道(直進)
森の中に入ると石畳の道となり、東海道で歩いた石畳を思い出しました。
この石畳はコンクリートなどで補強することなく、自然の状態を残しているので、往時を偲ぶことができるのですが、距離が40mくらいと短いことがとても残念です。
 ↓石畳の道
082 古道・石畳道
石畳の道が終わるとザレ道となり、坂を下ると再び県道30号に合流します。
11時15分、県道30号合流
083 合流
合流してから約60m歩くと左前方に夏の富士山が姿を見せてくれました。
宝勝寺で歌川広重や葛飾北斎が絶賛した富士山の眺望をしなかったのですが、現在はこの地の方が絶景ポイント(私が勝手に設定)のように思います。
 ↓富士山絶景ポイント(左方向)
084 富士山の眺め(県道30号)
絶景ポイントから約10m歩くと、上野原市から大月市に入る市境の標柱が建っていました。
11時17分、大月市境標柱(左側)
085 市境標識(大月市)
市境標柱から約600m坂を下ると、右カーブする手前の右側(法面ブロックの中)に馬頭観世音の石碑が建っていました。
11時24分、馬頭観世音石碑(右側)
086 馬頭観世音碑
馬頭観世音の先で旧道は右に曲り、さらに左に曲がった左側に山谷バス停があり、道はT字路となり、左折して進みました。
 ↓山谷バス停分岐(左折)
087 合流・分岐(山谷バス停)
T字路から約210m旧道を下ると、右に分岐する道があり、分岐の道を進みます。
088 分岐(右)
右に分岐した下り坂を進むと約130mで、再び県道30号に合流するのですが、分岐を通り過ぎると約400m歩くようになります。
11時31分、分岐・合流(右折)
089 合流・分岐(右)
分岐・合流から約240m舗装の坂を下ると、右に入る道があり右折しました。
分岐・合流から右に入れる道はここが最初ですが、この道に入る街道ウォーカは公開されているHPなどを見る限り居ません。
私はこの甲州道中旅で使用している「5街道Google地図・甲州街道編」をトレースしているので、分岐を右折しましたが、右折せずに直進しても約450m先で合流します。
 ↓分岐(右折)
090 分岐(右)
分岐を右折すると約20mでまた二又があり、左折して進みます。
091 分岐(左)
ザレ道を真っ直ぐに下り、左に墓地がある辺りに来ると、正面に富士山の頂上部分が見えました。
093 古道から富士山
 ↓ズームで撮影
094 ズーム
富士山が見えたあたりから約110m坂を下ると、旧道は再び県道30号に合流し、右折して県道を進みます。
11時40分、分岐・合流(右折)
095 合流(右)
分岐・合流して坂を約160m下ると、橋のところから道は左に曲がり、橋を渡った右側に中野神社前バス停があり旧道は道なりに左にカーブして下っていきます。
11時42分、分岐(中野神社バス停)=左折
096 分岐(中野神社前バス停=左)
中野神社前バス停を過ぎた先の木蔭で、ザックを降ろし水分補給と行動食として持参したスポーツ羊羹を食べ、英気を養いましたが、大月市長&市会議員選挙が始まったのか、休んでいる間、候補者名の連呼をずーと聞かされました。
立ったまま約5分の休憩を終え、ザックを背負って出発しました。
約170m歩くと、右にカーブする道と直進する分岐となり、旧道は細い道を真っ直ぐ急坂を下って行きました。
11時50分、分岐(直進)
097 分岐(左=直進)
車の交差が難しい細い急坂を約210m下ると、県道30号に合流する手前のT字路に突き当ります。
098 古道の状態
T字路をS字を描くようにして県道30号に合流すると、中央高速道路の高架下となり、高速道路の左手は渋滞情報で有名な中野トンネルがあり、トンネル名はこの中野集落に由来しているそうです。
099 合流・分岐
旧道は県道30号に合流すると、中野トンネルに入る直前の中央自動車道の高架
を潜ります。
11時54分、中央高速道路高架下
100 中央高速道の高架橋
高架を潜ると、その先には大きな道路標識が掲げられており、国道20号が近いことを知らせてくれました。
旧道は緩やかな下り坂となっており、中央高速の高架を潜ってから約240m歩くと、国道20号に突き当りました。
11時58分、R20分岐・合流(中野入口バス停)
102 R20鳥沢合流
R20に突き当たった道路真向いに古久屋生花店、店舗から約10m先に中野入口バス停があり、屋根付きのベンチが設置されていたので、左右を確認して道路を横切りバス停に行きました。
12時00分~12時15分、昼食(中野入口バス停)=左側
103 中野入口バス停
このように屋根付きのバスで食事をするのは、旧東海道夫婦二人旅で、雨中の鈴鹿峠を越えて土山宿に行く時、十楽寺バス停以来で、その時の情景を思い出しながらバス停に入りました。
昼食は持参しないで街道の飲食店で食べたかったのですが、昼食がどのあたりになるのか分からないのと、飲食店があるのかどうかが分からなかったため、おにぎりとお茶を持参したのですが、鳥沢駅の近くに飲食店があり、持参しなくても良かったようです。
 ↓昼食(おにぎり・お茶)
104 昼食
食後、携帯三脚を取り付けセルフタイマーで、旅の記念として記録に残しました。
105 バス停内
昼食を食べている時からツバメがバス停の近くを行き来しているので、何処かに巣でもあるのかと思っていたら、自分が座っているバス停の建物にありました。
私が巣の近くに座っていたため、ツバメが巣(白丸)に近付けなかったようで、申し訳ないことをしてしまいました。
106 バス停内のツバメの巣
昼食を食べ終えて約140m歩くと、左側に日本橋から87㎞の距離標が建っていました。
12時19分、87㎞距離標(左側)
108 87㎞距離標
鳥沢宿には出桁造り(だしけたづくり)の家がまだ沢山残っており、街道を歩きながら楽しませてもらいました。
109 出桁軒裏造りと連子格子の家
※出桁造り(だしけたづくり)は、梁または腕木を側柱筋より外に突出して、その先端に桁を出した構造です。
鳥沢宿に残る出桁軒裏造りの家を眺めながら歩いていると、右側に歴史を感じる店舗の小林畳店(87㎞距離標から約240m)があり、記録に残しました。
12時24分、史を感じる店舗(右側)
110 歴史を感じる畳店
小林畳店の道路反対側に、ディズニーなどのキャラクターが門柱の頭部に飾られていました。
111 門柱にディズニーの飾り
112 門柱のディズニー(右) 
113 門柱のディズニー(左)
キャラクターが飾られた門から約250m先にJR鳥沢駅入口の案内看板が掲げられており、さらに約50m歩いた交差点を左折した先に鳥沢駅がありました。
※021鳥沢一里塚
鳥沢駅入口を案内する標識が掲げられている辺りの進行右側に、日本橋から21番目の一里塚である「021鳥沢一里塚」と記された標柱が建っているとのことです。
私は進行左側を歩いたのと、この辺りに一里塚跡碑があることを知らなかったため、完全に見過ごしてしまいました。次回の旅の時、確認できたらと思います。
《H27.09.15 追加確認》
鳥沢駅入口交差点の手前約50mの右側の文扇堂(閉店)の前に鳥沢一里塚跡の標柱が建っていました。
200 鳥沢一里塚の場所
201 鳥沢一里塚跡碑
鳥沢駅入口
114 鳥沢駅入口標識
12時29分、JR鳥沢駅(左側)
115 鳥沢駅
202 鳥沢駅
鳥沢駅入口から約270m歩くと上鳥沢バス停があり、バス停の後ろに明治天皇
駐蹕地碑が建っていました。
12時34分、明治天皇駐蹕地碑(右側)
118 明治天皇駐 地(井上本陣跡)
蹕(ちゅうひつ)とは蹕(さきばらい)を駐めるという意味だそうで、明治天皇碑の中では珍しい表記です。
また、こ明治天皇の碑がある場所は、井上本陣の跡
で、現在も子孫の方が住んでおられるようです。
12時35分、本陣跡(井上家)=右側
120 井上本陣跡(現井上家)
本陣跡から約140m歩くと右カーブする処の右側に西ノ宮神社の参道入口があり、そこから約30m先に右に入る分岐があり、旧道は分岐する右側を進みます。
 
↓分岐(右側)
121 分岐(右)
分岐を右に約80m進むと左側に三共工業があるので、目印にすると良いと思います。
旧道は右にカーブしながら坂を下ると橋が架かっていますが、橋の手前の分岐道手前の右側に、馬頭尊の碑が建っていました。
12時42分、馬頭尊碑(右側)
122 馬頭観世音碑
旧道は分岐を道なりに左に進み橋を渡りますが、橋の辺りが横吹沢です。
12時43分、横吹沢

123 横吹沢
横吹沢の橋を渡り、左にカーブしながら坂を上り約180m歩くと、右側の高台に横吹団地が見えました。
高台に建っているので、眺めは良いと思いますが、毎日この坂を上り下りすることを考えると、とても私には住めないなと思いながら通り過ぎました。
124 高台に建つ横吹団地
横吹団地を過ぎたところで左を見ると、大月の町の中を流れて相模湖に至る桂川が見えました。
125 桂川の眺め
そのまま坂を下ってR20に合流する左側に横吹団地入口バス停があり、旧道は合流したR20を右方向に進みます。
12時47分、R20合流横吹出口

126 合流(横吹団地入口バス停)
R20を歩くと右側に「弁当惣菜きたむら」があると先人のHPに写真入りで記されていましたが、店舗が入っていたと思われる建物は残っていましたが、残念ながらシャッタービルになっており、看板もなにもありませんでした。
「商売を長く続けることは大変ことだな」と思いながら、廃墟となったビルの前を通り過ぎました。
R20合流横吹出口から約550m歩くと、左側に日本橋から89㎞距離標が建っていました。
12時54分、89㎞距離標(左側)
127 89㎞距離標
距離標から約60m歩くと、左側に鳥沢消防団の建物の前、正面に自販機のある家ところで分岐しており、ここが袴着旧道入口で右に進みます。
先人のHPでは正面(自販機のある建物)に前田商店があったのですが、数年前に廃業し、残されていた赤い看板もなくなっていました。
12時56分、袴着旧道入口(右方向)
128 分岐(右・鳥沢消防団前)
旧道に入って約40m歩くと、また二又の分岐があり、カーブミラーが両側に建っている左に進みます。
129 分岐(左)
分岐を左に約140m歩くと直進は行き止まり、右は道跡はあっても林の中に入って行き、左の細い下り坂は木が倒されている上にほとんど歩いた形跡のない状態のところになりました。
13時00分、道がない

130 分岐(左の下り)
手元の地図を確認すると、右の道は中央本線が単線だった頃の橋台が残っていると云うので、まず先に見に行くことにしました。
ところが人がほとんど歩いていない道をやぶ漕ぎしながら約110m歩くと、右側に苔むした橋台があり、左側にも橋台が残っていました。
13時02分、中央本線旧線の橋台(右側)
131 旧線の橋台
橋台を見てから同じ道を引き返し、元の突き当りの処に戻り、もう一度地図を確認して木が倒されている左の細い下り道に足を踏み入れました。
倒された木をどけ、先が見通せないほどのやぶ状態の道を50~60m進むと、R20が見え出ることができました。
なお、道はやぶ漕ぎ状態でしたが、踏み固められた状態になっていました。
私達の先人が歩いた道なので、大月市でもっと大切に保全してほしいと思います。
 ↓倒された木をどけて歩き始めた時
132 古道の状態
 ↓中間地点
133 古道の状態
13時05分、袴着旧道出口(R20に合流)
134 古道の出口
出口を右に進むと約10mで宮谷橋を渡り、約290mR20を歩くと左側に切り板で出来たウルトラマン人形が立ち並んでいました。
ウルトラマンが好きな店主なのかも知れません。
13時12分、ウルトラマンが棲む店(左側)
135 ウルトラマンが勢揃い
ウルトラマンが棲む店から約100m歩くと、宮谷入口交差点があり、さらに約260m進むと蛇骨沢がありました。
13時17分、蛇骨沢
136 蛇骨沢
蛇骨沢から約90m歩くと、左側の民家の前に日本橋から90㎞の距離標が建っていました。
13時18分、90㎞距離標(左側)
137 90㎞距離標
距離標から約170m歩くと「真っ直ぐ甲府・勝沼・中央道、右小菅」の道路標識が左側に建っています。それにしたがって
そうしたら「小菅方面」へ進みます。真っ直ぐ行くと新猿橋になりますので、ご注意下さい。
13時21分、分岐目印の道路標識
138 分岐の目印の道路標識
道路標識から約30m先に右に分岐する県道505号があり、旧道は右に進みます。
13時22分、R20猿橋旧道入口

139 分岐(右)
分岐入口から約120m歩くと左側に「居酒屋食堂仙台屋」があり、さらに進むと左側に足の高さの石垣があり、石垣の切れ目から左に入ると下る階段があり、階段を下ると旧猿橋が架かっています。
13時25分、旧猿橋入口
140 猿橋入口
141 猿橋入口前の看板右側に猿橋中学の看板と通学路階段があります
142 猿橋入口←旧猿橋の入口(左側)
↓階段上からの眺め
143 猿橋①
階段を下りた踊り場の左側に芭蕉の句碑が建っていました。
13時27分、芭蕉句碑(左側)
144 芭蕉句碑
句碑には、「うき我を 淋しからせよ 閑古鳥 はせを」と記されているそうですが、私にはまったく読めませんでした。
句碑を左に見て、顔を右に向けると旧猿橋が目の前にあります。
猿橋の由来は下段に由来の写真を掲載してありますので、ご参照下さい。
現在の旧猿橋は昭和59年8月に完成したもので、今年(平成27年)で31年になります。
アーチ型の木橋は、見ているだけで心が安らいでくるので、日本の大事な遺産として残してほしいと思います。
13時27分、旧猿橋

146 旧猿橋
 ↓記念に残したいと、通行している人に撮って頂きました
148 旧猿橋
 ↓左側の眺め(手前=八ツ沢発電所一号水路橋・後方=新猿橋)
150 猿橋からの眺め
※八ツ沢発電所一号水路橋は、明治45年に建設された八ツ沢発電所に送水するために造られた水路橋で、橋は鉄筋コンクリートで作られており、橋の両水門には赤レンガが使用されている。
 ↓旧猿橋の下からの眺め

152 猿橋の眺め
旧猿橋を渡ると右側に猿橋の由来を記した標板が建っており、その右隣りに明治天皇がこの場所で着替えをした御召換所跡碑が、橋を渡った左側に猿橋碑が建っていました。
 
↓猿橋の由来(右側)
153 猿橋・解説
154 猿橋の碑←猿橋碑(左側)
155 明治天皇碑←明治天皇御召換所跡(右側)
昼食を食べてからほとんど休みなく歩いてきたので、猿橋由来の標板脇に設置されているベンチに座り、水分補給と行動食のスポーツ羊羹を食べ休憩しました。
そして、橋を渡った正面
には国定忠治が逗留し広重も昼食をとったという大黒屋があり、忠治蕎麦が名物になっているそうです。
また、橋を渡った左側に公衆トイレがありましたので、休憩するにはもってこいの場所だと思います。
↓大黒屋(左側)=ここは2階で、店舗は橋を渡った正面の1階
156 大黒屋
旧猿橋の後、旧道は1階の大黒屋を左に見て、猿橋の由来碑の左脇から階段を上がって道路に出ます。
一方、桂川渓谷を眺めながら猿橋公園に行くと、大月市郷土資料館があり、ここ経由でR20の旧道に合流することもできます。
私は旧道をそのままトレースして歩くため、資料館には立ち寄りませんでした。
さて、階段を上って道路に出たら左に進むと写真上の処となり、その先の左側に厚焼煎べい製造元と記された駿河屋があり、立ち寄りました。
13時40分、駿河屋(左側)
157 駿河屋(せんべい店)
店に入り陳列されている商品を見て、店舗推奨の味噌せんべいと木の実せんべいを私とYumiさんのお土産に買いました。
※Yumiさんには味噌せんべいを特養に持参し、2回に分けて食べてもらいました(なお、木の実は硬かったので止めました)
158 駿河屋・おせんべい
駿河屋を出て道路を横切り進行右側の歩道を歩くと交差点となり、右折して進みました。
13時43分、新猿橋西交差点(右折)
159 分岐(新猿橋西交差点・右)
交差点からR20を約700m歩くと、右側に紅富士太鼓道場の建物がありました。
道場はシャッターが閉まっていたので、中の様子は分かりませんが、大きな建物なので一度見てみたいと思いながら通り過ぎました。
13時50分、紅富士太鼓道場(右側)
160 紅富士太鼓道場
紅富士太鼓は、山梨県大月市で活動している和太鼓チームで、 ギネス認定されている世界平和太鼓の専属チームだそうです。メンバーは3歳から~70歳まで、大月を拠点に山梨県山梨市、及びネパールに支部があり、海外メンバー加え約70名で構成されています。
 ↓R20から桂川の眺め=右側(川の真ん中に釣り人がいました)
161 R20から桂川の眺め
桂川を眼下に眺めながら歩くと宮下橋南詰交差点があり、交差点を渡った右角にセブンイレブン、その隣りに円行寺と続き、円行寺を過ぎた右側に廿三夜碑が建っていました。
13時57分、廿三夜碑(右側)
164 廿三夜碑
石碑の先、右側に三嶋明神があり、参拝に立ち寄りました。
13時58分、三嶋明神(右側)

165 三嶋大明神
本殿でお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒を祈願した後、境内の奥に行くと簡易屋根のついた土俵がありましたが、手入れが行き届かないのか荒れた状態で、ほとんど利用されていないようでした。
166 相撲の土俵
三嶋明神を出てR20を渡り、そのまま真っ直ぐ約130m歩くと、JR猿橋駅北口に出ます。
今日の旅は三嶋明神角で終らせても良いのですが、R20がこの先で左に90度近く曲がっているため、次回の行程を考え今日の旅の到着地をこの先の山梨中央自動車販売センターのあるR20駒橋旧道入口にしました。
三嶋明神を出て、R20を約110m歩くと右側に阿弥陀寺があり、入口角に日本橋から22里目の一里塚碑(白丸)が建っていました。
※一里塚碑は、周りに建っている石碑より小さく、細いので、注意して下さい。

167 021猿橋一里塚跡碑
14時04分、022殿上(猿橋)一里塚跡碑
168 猿橋一里塚跡碑
一里塚碑から約100m歩くと、今日の到着地であるR20駒橋旧道入口に着きました。
Yumiさんが居れば到着の看板を持って「到着式」を行うことができるのですが、私一人であることと、撮って頂ける人が居ないため、ガードレールに看板を立て掛けて到着式を行いました。
14時07分、到着地(R20駒橋旧道入口)

170 到着地
次回は「↑の写真」の道路を渡った所から出発します。
帰路】
今日は、到着式の後、左側の階段を降り約100m離れたJR猿橋駅に向いました。
169 R20駒橋旧道入口(到着地)
また、到着式の写真を撮り終えると、それに合せたかのようにデジカメの電池が切れ、猿橋駅の改札に行く階段手前のベンチにザックを降ろし、持参した予備のデジカメ電池と交換しました。
172 JR猿橋駅

14時19分、猿橋駅発
乗車した電車は、帰りとしては少し早い時間だったので、ボックス席ではなくベンチ式の椅子に座り、上野原駅を過ぎたところで寝てしまったようで、気が付いたら高尾駅に着く少し前でした。
最寄り駅に着いた時は、雨が降り出しそうな黒い雲が空を覆っていたのですが、ザックの中にハイク用の合羽が
入れてあるからと、駅前から自転車でYumiさんが入居している特養ホームに向かいました。


【次回の予定】
次回(第8回)は7月と8月の暑い時期を休みして秋口となる9月13日(日)に「猿橋駅・R20駒橋旧道入口から笹子駅入口交差点までの14.63㎞」を旅する予定です。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 快晴
【宿場】(11)吉野宿⇒(12)関野宿⇒(13)上野原宿⇒(14)鶴川宿⇒(15)野田尻宿
【行程】歩行距離=11.37㎞ 総距離=78.97㎞  
藤野駅前交差点⇒(2.22㎞)⇒境沢橋⇒(2.44㎞)⇒R20新町交差点⇒(3.26㎞)⇒中央高速横断橋⇒(3.45㎞)⇒西光寺前分岐

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第6回旅の宿場)
第6回宿場
 ↓
旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間) 
第6回全体ルート
 ↓第6回の旅ルート
 
(藤野駅前交差点 ⇒ 西光寺前分岐)
第6回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
今日は5月10日以来、約1ケ月振りに旅をしました。
天気は曇り一時雨との予報でしたが、旅の日が近づくにしたがって晴マークが出てくるようになり、直前では雨の心配よりも猛暑になるとのことでした。
《準備》
地図や史跡場所などの地図書き込みは数日前に終了し、ザックも前週のまま使用することにし、前日の夕方スーパーに行き行動食(菓子パン)を購入し、昼食のおかずとしてゆで玉子、ウインナー炒め、ミニトマトを小さいタッパーに入れて持参することにしました。
目覚ましの音楽で目を覚まし、洗面、血圧・体重測定、旅の身支度を整え、靴は坂道はありますが、ウォーキングシューズを履くことにしました。
今日の旅は、前回の到着地「吉野宿・藤野駅前交差点」から「」野田尻宿・西光寺前分岐」までの11.37㎞を歩く旅で、途中中央高速の談合坂SAの近くを通ります。
《移動》
07時50分、藤野駅着
駅の改札を出て真っ直ぐに約70m歩くと、今日の出発地の「藤野駅前交差点」です。
直ぐに出発式の準備を行い、デジカメに小型フレキシブル三脚を取り付けてセルフタイマーで出発看板を掲げた写真を撮り、出発式を行いました。
【旅】
07時56分、出発地(藤野駅前交差点)

001 出発地(藤野駅前交差点)
07時59分、緑のラブレター(左側)
002 緑のラブレター
藤野在住の芸術家 高橋政行が「森と湖からのメッセージ」をコンセプトに、1989年に製作したオブジェ「緑のラブレター」で、横26m☓縦16m(25mプールサイズ)の大きなラブレターを、緑の大きな手が持っているように見えます。
08時04分、70㎞距離標(右側)
003 70㎞距離標
出発地から道中の右側を歩いて来たのですが、70㎞距離標から約20m先の横断歩道を左に渡り、左側の道を下ります。
08時05分、分岐(左側を下る)
004 分岐
坂を下ると道が半分くらいになり、両側を柵に囲われた道(道中案内①)を進みます。
 ↓道中案内①
005 道中案内①
舗装が終わり土の道になったところで「この道でいいの?」と不安になり、一度上の写真の場所まで戻り地図で再確認し、「道がなければ戻ろう」と腹をくくって前に進みました。
 ↓道中案内②
006 道中案内②
土の道を約230m歩くと線路脇を上る道になり、下から見ると「行けるのかな?」と不安になるのですが、大丈夫でした。
 ↓道中案内③
007 道中案内③
ここまで来て、持参した地図どおりであったことが分かりホッとしました。
道中は、左からの道と合流したところからさらに約50m上り、線路を跨ぐ陸橋を渡ります。
 ↓道中案内④
008 道中案内④:陸橋
 ↓道中案内⑤(抜け道)
009 道中案内⑤
陸橋を渡ると右にクランク形に約80m歩いて車道に出て、車道を左折して40m歩くのですが、柵の一部が取り除かれて歩けるようになっていたので、素直に真っ直ぐ抜け道(道中案内⑤)を通り40mで車道(道中案内⑥)に出ました。
 
↓道中案内⑥
010 本陣跡碑
そして車道に出て約20m先の右側に本陣跡碑が建っていました。
ところが本陣跡碑の建ち方が、進行方向から見ると背中になっていますので、気を付けないと見過ごしてしまいます。
08時18分、関野本陣跡(右側)
011 関野本陣跡
関野本陣は延宝2年(1,674年)に設置され、往時の近辺は奥三保とも桂里とも呼ばれ、関野宿は諏訪番所を通り甲斐の国に通じる最後の宿場だったので、大変重要視されていました。明治21年と、その後の2回の大火で本陣及び宿場町が焼失してしまい、当時の面影を残す建物はなくなってしまいました。
本陣跡碑から約80m歩くと、右側に増珠寺の入口がありましたが、時間が早かったのか扉は閉まっていました。
08時21分、増珠寺入口(右側)
012 増珠寺・入口
寺院の立て看板の横に「力士追手風喜太郎」碑が斜面に建っていました。
 ↓力士追手風喜太郎碑(右側)
013 力士追手風喜太郎碑
追手風喜太郎は、関野宿出身の力士で、江戸時代後期の天保2 (1831) 年に4代目追手風を襲名し、同7(1836)年に西の大関となり、幕内を15年、29場所務めました。また、後の横綱・雲龍久吉を育てるなど、相撲界に大きな功績を残しました。

追手風喜太郎が江戸時代末の文久3(1863)年に寄進したものは、青竜(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)、玄武(げんぶ)の四神の彫刻と剣形の装飾品及びのぼり5本で、生家が保管し見学は出来ません。
寺院入口から約110m歩くと小渕歩道橋があり、歩道橋の下を潜ってさらに20m進むと分岐があり、右方向の上り道を進みました。
08時23分、小渕歩道橋
014 小渕歩道橋
08時24分、分岐(右の上り道)
015 分岐
上り坂を約140m歩くと、今度は左方向に下がる道があり、右角に道標(御留坂)が建っていました。
08時26分、分岐(左の下り道)
016 分岐
 ↓道標(御留坂)=右側
017 御留坂碑
御留坂を約74m下ると国道20号線に合流します。
08時29分、分岐・合流(右折)
018 分岐合流
国道20号線を約65m歩くと石像が立ち並ぶ石材屋さんがあり、目を楽しませて下さいました。
08時31分、昭和建石(左側)
019 建石店
ところが目の保養をしたまでは良かったのですが、石材屋さんを過ぎたら信号「名倉入口」まで行くところを地図読みを間違えてしまい、明泉学園相模湖セミナーハウスの先を左折して九十九折の坂道を下ってしまいました。
途中で地元の方に「境沢橋はこの先ですか」と聞くと、「境沢橋はこの上の道路をもう少し先にいった名倉入口から行くんですよ」と教えられ、道を間違えたことに気が付きUターンして急坂を上り返し、約120m先の名倉入口交差点に行きました。
08時40分、名倉入口
020 分岐・名倉入口交差点
交差点の分岐を左側の道に入ると、分岐入口左側に道標が建っていました。
 ↓道標(下小淵下)=左側
021 下小淵下碑
名倉入口交差点から約230m下ると、境川に架かる境沢橋があり、橋が神奈川県と山梨県の県境だそうです。
08時43分、境沢橋
022 境沢橋
境沢橋を渡り今度は約100m坂を上ると県道520号線に合流し、右折してさらに坂を上り続けました。
08時45分、分岐(右折)
023 分岐
分岐合流から乙女坂を約600m登ると、右側の石垣の上に番所跡と左側に史跡案内絵図が建っていました。
この乙女坂は旧東海道の小夜の中山と同じように、ここでひと休みしないと歩けないくらいきつい上り坂でした。
08時53分~09時00分、諏訪関跡・諏訪番所跡(右側)
024 諏訪関跡・諏訪番所跡
諏訪番所は、別名境川番所とも呼ばれ、甲斐国の表玄関にあたり、平時は通行人やその荷物、輸送品などの検査や取り締まりが行われ、合戦時には防備の機能をもっていた甲斐国24関の一つです。 
↓諏訪番所跡・解説(右側)
025 諏訪番所跡・解説
 ↓史跡案内図(左側)
026 史跡案内図
諏訪番所跡で水分補給の一服休憩を行い、出発しました。
番所跡は直ぐ先の左側に角屋ハウジングがあるので目印になると思います。
そして右側の上野原自動車教習所を横に見ながら、番所跡から約650m歩くと右側に船守寺があり立ち寄りました。
09時07分、船守寺(右側)
027 船守寺
船守寺は、弘長元(1261)年5月12日、日蓮が伊豆流罪法難の時、荒波が洗う俎(まないた)岩より日蓮を救い、罪人の名をきせられ流されたる日蓮を己が命をも顧みず、漁具を納めし洞窟内に30数日匿って、人目を忍びつつ給仕した船守弥三郎誕生の地です。
 
↓船守弥三郎誕生の地碑
028 船守弥三郎誕生の地碑
寺院を出て約30m歩くと左側の自販機が立ち並ぶ前の空き地で、地元の奥方連が廃品回収の作業を行っていました。
 ↓廃品回収作業(左側)
029 廃品回収作業中
そして道路を隔てた反対側(右側)に諏訪神社があり、参拝に立ち寄りました。
09時09分、諏訪神社(右側)
030 諏訪神社
鳥居を潜って参道を歩き、本殿にお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒をご祈願しました。
東海道の時と同じように周りに人がいないので、声を出して奏上しましたが、とても気持ち良く参拝することができました。
神社を出て約240m歩くと右側に白壁の蔵が建っている立派な門構えの家があり、表札に屋号の「油屋」と記されていました。
09時18分、屋号・油屋(右側)
031 屋号・油屋
屋号「油屋」から約120m歩くと、右側に石碑でできた甲州街道碑が建っていました。
09時20分、甲州街道碑(右側)
032 甲州街道碑
石碑から約110m歩くと中央高速道路に架かる諏訪橋があり、歩いてきた東京方面とこれから歩く甲府方面の写真を記録に残しました。
09時23分、諏訪橋(右側=東京方面の眺め)
033 中央高速諏訪橋・東京方面
諏訪橋を渡り約80m歩くと右側に疱瘡神社があり、鳥居の左側に一里塚・解説の標板が建っていました。
09時25分、疱瘡神社(右側)
035 疱瘡神社・塚場一里塚
 ↓疱瘡神社・解説
038 疱瘡神社・解説
神社の本殿脇を通ると土を盛ったものがあり、標板の解説によるとこれが一里塚跡だそうです。
09時25分、017塚場一里塚跡(右側)

037 塚場一里塚跡
 ↓塚場一里塚・解説
036 17塚場一里塚跡碑
塚場一里塚跡を出て約450m歩くと新町交差点があり、交差点付近で「花井番所跡」について尋ねましたが、古くから住む人を含めて誰も分かりませんでした。
09時33分、新町交差点
039 新町交差点
交差点の左側を真っ直ぐに進むと、約110m先の右側に酒まんじゅうの店があり、車の往来を確認して道路を横切り店に入りました。
09時40分、酒まんじゅう・東山(右側)
041 東山酒饅頭店
上野原市は酒まんじゅうが名物で、観光協会から頂いたパンフレットにも入った店も掲載されており、おやつに食べようと2個(@85円)買いました。
 ↓手作り酒まんじゅう製造中
040 東山酒饅頭店
酒まんじゅうを買うトイレに行きたくなり、また左右を確認して道路を横切り、60m先の左側にあるコンビニ(デイリー)に入りトイレを借り、昼食の時に飲むお茶を買いました。
新町二丁目交差点を渡り、約270m歩くと明誠高校入口交差点があり、右折しました。
09時53分、明誠高校入口交差点(右折)
042 日大明誠高校入口交差点
交差点を右折すると、3軒目に細田と表札の掛かった家があり、ここが脇本陣跡です。
09時54分、脇本陣跡(細田家)=右側
043 脇本陣(細田家)
細田家を記録に残して交差点に戻り歩を約60m進めると、右側にホテルルートインがあり、この場所が旧若松屋の後で、脇本陣だったところです。
09時56分、脇本陣跡(若松屋)=右側
044 脇本陣(若松屋跡):現ルートインホテル
道路の反対側に渡ってホテルの写真を撮りながら、
E=このホテルが脇本陣の跡ですか?
店主=そうです。明治の頃のマップをあげよう
と、「明治13年頃の私たちの町 上野原宿」というイラストマップを下さいました。
09時58分、ファミリーショップ・ハラダ(左側)
045 古地図を下さった店
道路を左から右に横切り約90m歩くと本町1丁目バス停があり、消防団の建物に沿って右折すると、本陣跡がありました。
10時01分、分岐(本町1丁目バス停前)=右折
046 本陣跡の入口
10時02分、本陣跡(右側)
047 本陣跡
門構えを見ただけでも当時の豪華さが伝わってきます。
現在は、門を潜った奥に子孫の方が住んでいるようです。
 
↓本陣の子孫が暮らしている住居
048 本陣跡:藤田家
本陣跡から道中に戻り、約110m歩くと本町交差点があり、「上野原の大けやき」を眺めに右折しました。
10時05分、本町交差点(右折)
049 本町交差点
大けやきを眺める道順は、交差点を右折して約100m先の右側のスコールという会社の前を左折します(交差点から最初の左折できる道)。
 ↓分岐(左折)
050 分岐(大けやき)
左折して約40m歩くと、右側の家の間から大ケヤキが見えます。
10時07分、大けやき(右側)
051 大けやき
さらに約20m歩くと右側に上野原小学校に入る階段があり、校庭に入る扉のところまで行くと間近に見ることができます。
 ↓分岐(左折)
052 上野原小に繋がる道
帰りは階段を降りて約110m真っ直ぐに進むと、旧道中に出ます。
そして約30m歩くと歩道橋が架かっている分岐となり、一番左側の道を進みます。
10時11分、分岐(左折)
053 分岐(左折)
左折して歩く道には木食上人加持水井の碑があるというので、左右をキョロキョロしながら歩きましたが、見付けることが出来ないうちに次ぎの分岐(約450m先)に来てしまいました。
この分岐は三方向に道があり、左に進む道なりはダメ、右側の上り道もダメ、道中は下り気味に入る真ん中の小道を進みます。
10時18分、分岐
054 分岐(真ん中)
道中案内⑥の写真のところから約80m歩くと、左に分岐する道がありますが、真っ直ぐに進みます。
 ↓道中案内⑦
055 分岐(右側)
道はそのまま歩道橋に繋がっており、歩道橋を渡ります。
 
↓道中案内⑧(歩道橋を渡る)
056 道案内
歩道橋を渡ったら、歩道橋を下り、下りた処を左折します。
 ↓道中案内⑨
057 道案内
ガードレールと防護柵に挟まれた道を進むと、細い下り坂の道となります。
 ↓道中案内⑩
058 道案内
道は大向バス停の後ろを下り、バス通りの横断歩道を渡り、反対側の細い道に入ります。
10時27分、分岐(道路横断)
059 分岐
道は階段で、九十九折のバス通りを横切りようになっています。
 ↓道中案内⑪
060 分岐入口
 
↓道中案内⑫(後ろを向いての写真)
061 060の道を出口から
バス通りをそのまま約80m下ると、鶴川に架かる鶴川橋がありました。
10時30分、鶴川橋
062 鶴川橋
右側を見ると釣り人が大勢来ており、釣り糸を垂らして釣りを楽しんでいます。
 ↓鶴川橋からの眺め(進行右側)
063 鶴川橋からの東方向の眺め
左を見ると、中央高速の高架橋見えます。
 ↓鶴川橋からの眺め(進行左側)
064 鶴川橋から中央高速方面の眺め
強い日射しの中、汗を拭きながら左右をキョロキョロ見渡しながら橋を渡ると、右側に木柱の甲州街道碑が建っており、さらに約50m歩くと同じ右側に鶴川宿碑が建っていました。
10時32分、鶴川宿碑(右側)
065 鶴川宿碑
橋を過ぎると旧道中は上り坂となり、約110m歩くと左側に鶴川神社入口のバス停があり、史跡見学と参拝に立ち寄ることにしました。
10時36分、鶴川神社参道入口(左側)
066 鶴川神社入口
入口を入り、赤い鳥居を潜り、参道の急階段を上ると、中段の踊り場があり、旗差し石みたいなものがありました。
10時37分、鶴川神社・鳥居
067 鶴川神社・鳥居
 ↓参道階段・中段
068 階段・中段の丸石
中段からさらに急階段を上ると本殿があり、お賽銭を奉納しYumiさんの病気平癒を声を出してご祈願しました。
本殿の右横に「駒つなぎの石」があり、説明板が建っていました。
10時40分、駒つなぎ石
069 駒つなぎ石
参拝を終え、登ってきた階段を降りるのですが、思いのほか階段幅が狭く、転げ落ちないように慎重に下りました。
 
↓神社の階段上からの眺め
070 鶴川神社・参道階段
境内に建てられていた標板に、小澤家のことが記されていたので、神社入口前の小澤家に立ち寄りました。
E=石があった小澤さん宅でしょうか?
小=隣りとその隣りの三軒が小澤姓で、石は隣りとの境にあったのです
E=あの電柱の辺りですか
小=そうです。隣りが何の石か分からず河原に捨てたので、大切な石だということを話し、有志で神社に奉納したのです
と、神社に奉納した経緯を聞かせて下さいました。
10時45分、駒つなぎ石が置かれていた場所(白丸)・右側
071 駒つなぎ石があった場所
小澤家を出て約65m歩くと、右側に問屋場跡?(若松屋)がありました。
10時48分、問屋場跡(?)=若松屋(右側)
072 問屋場跡?
問屋場跡から約40m歩くと、左側に立派な邸宅があり、脇本陣跡(加藤家)のようです。
10時49分、脇本陣跡(加藤家)=左側
073 本陣跡(加藤家)
 ↓脇本陣・母屋
074 本陣跡
加藤家を出て約90m歩くと右側にマンション明鶴があり、左折してその前の道に入ります。
10時51分、分岐(左折)
075 分岐(左折)
左折した道を約60m歩くと、ショートカットする形で左折した時の舗装路に合流し、左折して坂を登ります。
そしてこの坂は、中央高速道路に突き当たるまで続きます。
 ↓分岐・合流(左折)
076 分岐・合流
分岐合流して約80m歩くと、左右に分かれる分岐があり、右側を進みます。
※左に行っても少し遠回りになりますが、同じ道に合流します。
 ↓分岐(右側)
077 分岐(右側)
分岐から約550m歩くと、右側にログハウス風の家が建っていました。
11時03分、ログハウス風の家
078 ログハウス風住宅
上り坂はまだ続いており、フーフーと息を切らしながらさらに約180m歩くと、中央高速脇の道路に突き当り右折しました。
11時05分、分岐・合流(右折)
079 分岐(右折)
分岐合流したところから東京方面を眺めると、鶴川橋から見えた高架橋が下に見えるので、かなり登ってきたことが分かり、息が切れたり、汗をかいたりするはずです。
 ↓分岐合流から見た中央高速・東京方面
080 中央高速の眺め
分岐合流を右折して約90m坂を下ると中央高速と同じ高さになり、ここからまた約120m坂を上ります。
 ↓中央高速と同じ高さ
081 中央高速と同じ高さ
坂を上ると中央高速を跨ぐ橋があり、左折して陸橋を渡ります。
11時10分、鳶ケ崎橋
082 鳶ケ崎橋
 ↓中央高速・甲府方面
083 甲府方面の眺め
 
↓中央高速・東京方面
084 東京方面の眺め
鳶ケ崎橋を渡ると、左側の斜面にあじさいの鼻が咲き乱れていました。
 ↓道路脇のあじさい(左側)
086 道沿いの紫陽花
綺麗なあじさいの花を眺めながら、涼しい木立の道を約180m歩くと左側に一里塚跡があり、跡碑が建っていました。
11時16分、019大椚一里塚跡碑(左側)
087 18大椚一里塚跡
 ↓大椚一里塚・解説
088 一里塚・解説
ここでひと休みしたかったのですが、日陰もない炎天下で休みたくなかったので、跡碑を写真に撮って先に進みました。
そして約50m歩くと木立の日陰があり、ザックを降ろし水分補給と上野原の町で買った酒まんじゅうを1個食べてエネルギー補給をしました。
11時18分~11時21分、休憩(左側)
089 休憩した木陰
 ↓酒まんじゅう
090 酒饅頭
酒まんじゅうは2個食べられたのですが、昼食が間近だったので、1つにしました。
短い休憩を終え、ザックを背負って出発し約200m歩くと、右側の土手に廿三夜碑が建っていました。
11時24分、廿三夜碑(右側)
091 廿十夜碑
廿三夜碑から約250m歩くと、左側に大椚宿発祥の地碑が石灯篭と一緒に建っていました。
11時30分、大椚宿発祥の地碑(左側)
092 大椚宿発祥の地
発祥の地碑から約170m歩くと左側に「神職 鈴木」と職名が記された表札がありました。
このような表札は見た記憶がなく珍しいので、写真に残しました。
11時31分、職名入りの表札(左側)
093 職名入り表札
鈴木家から約120m歩くと左側に吾妻神社があり、境内の涼しい場所で昼食を食べることにしました。
11時34分、吾妻神社(左側)
094 吾妻神社・境内
境内には竹細工のベンチがあり、駅のコンビニで買ったおにぎり、自作のおかず、お茶ボトルをザッキクから取り出し食べ始めました。
11時34分~11時53分、昼食
095 昼食
すると、参拝を終えた女性が近くに来られ、
E=甲州道中を歩いているのですか?
女=そうです
E=私は藤野駅から歩いてきました
女=私も同じです
E=え、そうですか。私は7時50分着の電車です
女=私は8時10分頃です
E=途中で抜かれたのですね。抜かれたのは道を間違えたりした時かな
女=今日はどこまで歩くのですか?
E=私は西光寺という野田尻宿までです
女=私は大月まで行く予定なのですが、1時間くらい遅れているので、鳥澤駅で止めるかもしれません
E=大月までですか?凄いですね
女=8時間は歩きますので
と云って、歩いて行きました。
私は木蔭の涼しいベンチに座り持参した昼食を綺麗に食べ、セルフタイマーで記念写真を撮って記録に残しました。
 ↓杉の大木(境内)
097 吾妻神社・境内
昼食タイムでエネルギーを補充し、午後の旅に出発しました。
出発して約130m歩くと左側の民家の門柱が石で、苗字が彫られていたので、記録に残しました。
11時55分、石門(小澤家)=左側
098 門石
小澤家から約100m歩くと、右側に花壇があり、あやめが咲いていました。
花壇は他にも植生されていましたが、開花していたのはあやめだけでした。
 ↓道路端の花壇(右側)
099 花壇のあやめ
花壇を過ぎると道は下り坂となり、下り坂の中間点辺りに「談合坂SA 1㎞」と標示されていました。
12時01分、談合坂SAまで1㎞地点(右側)
100 談合坂SAまで1㎞地点
一番下った処は高速道路を潜れるようになっていますが、甲州古道は曲がらずに真っ直ぐ坂を上ります。
そして、約180m坂を上ると、左側に史跡跡碑と芭蕉句碑が建っていました。
12時05分、長峰の史跡碑&芭蕉句碑(左側)
101 長峰の史跡・芭蕉句碑(右)
長峰の史跡は、戦国時代に武田信玄の家臣であった上野原の加藤丹後守が出城ともいうべき砦を長峰の高地に築き、甲斐国の東口を北条の侵略から守るためこの砦で監視しました。同所は、古道を八ツ沢・大椚と上り、さらに西へ少し行ったやや高めの丘の上にあり、当時の交通の要所あったので、東口から軍勢が攻め込む時、必ずここを通らなくてはなりませんでした。
同所は要害に適していたばかりではなく、水にも恵まれていたので、常に番兵が見張りに当たっており、敵襲があった場合は、ここで早馬を飛ばして本城や陣屋まで急報したそうです。
砦は岡上の平坦地に作られた。北側は仲間川に面する崖となり、それをさらに削って堀り切りにした。南面には陣門と呼ぶ木の柵を立てて守りを固めたそうです。
また、柵の東側に濁り池(長峰の池)があり、ヒシの群生があったそうで、西北部には殿の井戸と呼ばれる泉がありましたが、現在はこの真ん中を中央高速が通り、面影はまったくなくなりました。
そして、史跡跡碑から約10m離れた処に、砦跡石碑と解説板が建てられていました。
12時07分、長峰砦跡(左側)
104 長峰砦跡
 ↓長峰砦・解説
106 長峰砦・解説
砦跡からさらに約350m坂を上ると左側に野田尻宿碑が建っており、野田尻宿に入ります。
12時11分、野田尻宿碑
107 野田尻宿碑
ここでカメラの異変に気が付きました。
写真を撮ろうとすると液晶画面の右上が黒くなっているので、カメラを確認したら部品の一部が剥がれてレンズの処に落ちており、揺すっても動かず、修理に出さないと取れそうもありません。
カメラのことは帰ったらどうするか考えることにし、これから先の写真に黒く影が入っても仕方ないと諦めました。
宿碑の処を右折して中央高速に架かる新栗原橋を渡りながら甲府方面を眺めると、談合坂SAが見えました。
12時13分、中央高速・談合坂SA(白丸)
108 談合坂SA(新栗原橋)
 ↓新栗原橋
109 新栗原橋
新栗原橋を渡り、道なりに約700m歩くと野田尻宿に入ってきました。
12時23分、野田尻宿の眺め
110 野田尻宿の眺め
現野田尻集会所から約140m歩くと右側に明治天皇小休所跡碑が建っており、併せてここが本陣跡とのことですが、史跡は何も残っていませんでした約。
12時27分、本陣跡・明治天皇小休所跡(右側)
113 本陣跡
本陣跡から約40m先の右側に宿碑のパネルが、道路の反対側の左側は石碑で建っていました。
12時28分、野田尻宿碑(右側)
111 野田尻宿碑
12時28分、野田尻宿碑・案内図(左側)
112 野田尻宿碑
宿碑から約40m歩く犬嶋神社の赤い鳥居が建っており、参道を通って本殿に参拝しました。
12時34分、犬嶋神社(右側)
114 犬嶋神社
犬嶋神社の参拝方法は同じで、お賽銭をご奉納し、神社の神様にYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
この場所は地図を見ると談合坂下り線(東京⇒甲府方面)SAですが、野田尻宿からは眺めることはできません。
神社の参拝を終え、甲州古道に戻り約180m歩くと分岐があり、道標に沿って犬目宿方向に真っ直ぐ進みました。
12時38分、分岐(直進)
115 分岐(直進)
 ↓分岐・道標
116 道標
分岐・道標から約100m歩くと、西光寺前分岐となり到着しました。
117 西光寺前分岐
西光寺に到着すると1組のご夫婦がいたので、ご主人にシャッター押しをお願いし、今日の到着式を行いました。
12時42分、西光寺前分岐(到着地)
118 到着地(西光寺前分岐)
 ↓西光寺・全景
120 西光寺
【帰路】
西光寺前分岐の処で酒まんじゅうと水分補給を行い、帰るために乗車するバス停に向かいました。
13時00分、西光寺前分岐発
分岐から約15m歩くと石垣とゴミ箱の間に細い道があり、地図では行かれるようになっていたので、地図通りに進みました。
 ↓バス停への分岐①=左折
121 バス停への分岐
約60m歩くと県道30号に出たので、左折してバス停に向かって坂道を下りました。
 ↓バス停への分岐②=左折
122 バス停への分岐
約500m、坂道を下ると右側に「不老下バス停」がありました。
ただ、次回はこの不老下バス停から西光寺前分岐まで坂道を上らなくてはいけないので、気が重くなります。
 ↓不老下バス停(右側)
123 不老下バス停
バス停の前には交通安全を願った石像が祀られており、公園のように整備されていました。
 ↓バス停前の交通安全公園
124 バス停前の交通安全公園
今日は乗り遅れないように考えていたため、予定より早くに動いたのでバス停で1時間以上待つことになりました。
バスは思ったとおり10分くらい前に到着し、5分前に乗車扉が開き、バスに乗りました。
14時18分、不老下バス停発

私一人を乗せて出発。
この後、何人の人が乗るのだろうと考えていると、次のバス停で一人、その次のバス停でも一人と、終点までに6人の人を乗せました。
バスは停車しないバス停が多く、時刻表よりも早く終点の上野原駅に到着し、最後に下りたのは私を含めて3人でした。
運転手さんに次回乗る時に備えて乗車場所を確認してからバスを降り、JR上野原駅に入って行きました。
14時37分、上野原駅着
 ↓上野原駅バス停
126 上野原駅バス停
駅のベンチに座り電車を待っていると、徐々に乗車する人が増えてきたので、数分前にベンチを立って入線を待ちました。

15時07分、上野原駅発
127 上野原駅ホーム
乗車した電車は数少ない立川止まりの電車で、座席はほとんど空席でした。

今日の夕食は近くのレストランに食べに行こうと思っていたので、最寄り駅から自転車に乗って家に帰ってきました。
夕食には時間がまだ早いので、着替えないでザックの後片付けだけして、特養ホームのYumiさんの処に自転車で向かいました。
※夕食は、Yumiさんのところから帰ってきて、入浴で汗を流してから食べに行きました。

【次回の予定】
次回(第7回)は6月28日(日)に「野田尻宿・西光寺前分岐から猿橋駅・R20駒橋旧道入口までの12.38㎞」を旅する予定です。
今回は梅雨の晴れ間という幸運に恵まれましたが、次回はさらに梅雨の真っ只中なかなので実施できるかどうか分かりません。
何とか晴れてくれることを祈るばかりです。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  



【天候】 快晴
【宿場】(08)小仏宿⇒(09)小原宿⇒(10)与瀬宿⇒(11)吉野宿
【行程】歩行距離=11.464㎞ 総距離=67.604㎞  
小仏バス停⇒(2.16㎞)⇒小仏峠⇒(3.10㎞)⇒小原宿本宿⇒(1.48㎞)⇒相模湖駅前⇒(4.724㎞)⇒藤野駅前交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第5回旅の宿場)
第5回宿場
 旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第5回全体ルート
 第5回の旅ルート
 
(小仏バス停
⇒ 藤野駅前交差点)
第5回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
当初の予定は11日だったのですが、朝から雨天模様で旅を急遽取り止め、翌週に順延しました。
旧東海道夫婦二人旅でも箱根越えと鈴鹿峠越えがともに雨の中の旅となり、峠越えというと雨になるジンクスがあるようです。
峠越えの旅は晴れた日にしようと、天気予報で晴れとなっている4月16日(木)に順延しました。
ところが、旅に出る前日の15日夜にYumiさんが階段から転落し、救急車で病院に運ばれ入院してしまい、旅を急遽取り止め29日(水・祝)に2度目の順延をしました。
すると娘から29日に孫(長男)のスイミング記録会があるので、「来ない?」とお誘いがあり、旅をまたまた延期してスイミングの記録会に行き、4度目の正直で今日になりました。
一方、Yumiさんは8日~11日の三泊四日のショートステイで、施設に介護をお願いしました。
《準備》
地図や史跡場所などの地図書き込みは終了しており、前日の山の会ウォーキングのザックをそのまま使用し、ウォーキングの帰りにスーパーに立ち寄り、今日の昼食で食べる「おにぎりとサラダ」を購入し、自分で作ったウインナー炒めをプラスしました。
目覚ましの音楽で目を覚まし、洗面や旅の身支度を整え、靴は小仏峠越えがあるため山歩き用のトレッキングシューズを履くことにしました。
今日の旅は、前回の到着地「小仏宿・小仏バス停」から「吉野宿・藤野駅前交差点」までの11.464㎞の旅となり、難所と云われた小仏峠を越えます。
【旅】
ザックを自転車に乗せ、17℃近い温度に上昇していましたが、朝の澄んだ空気はまだ冷たく薄い長袖をもう一枚着た方がよい感じで、首をすくめながら公園を通り最寄り駅から電車に乗って出発地に向かいました。
07時50分、高尾駅着
今日は快晴の山行日和となり電車から続々とハイク姿の人が降りきます。
高尾駅から小仏バスまで20分程ですが、出来れば座って行きたいと考え、少し早く来ました。
改札を出てバス乗り場に行って、目を丸くしました。
20分前に着いたのですが、並んだのは一列では無理で折り返してから10~15人くらい後ろで、とても座れそうもありませんでした。
※長蛇の列の高尾駅前バス停
001 高尾駅北口バス停
陣馬高原下行きのバスも長蛇の列に増便され、小仏行も増便されました。
最初のバスに乗車するのかと思っていると、私の前で後数人で乗りきれなくなる状態となり、私は増便に乗ることにしたら後ろに並んでいた親子が乗り込み出発し、私は増便の先頭で乗車し席に座って終点の小仏まで行きました。
08時12分、高尾駅北口発
増便されたバスも満員で、途中のバス停で下車する人がいましたが、車内を動くことは大変で、「すいません」の連発で動いていました。
08時36分、小仏バス停着
【旅の紀行】
バス停に着くと先に発車したバスの乗客がまだ沢山おり、バス停近くにいた男性に撮影をお願いし一人での出発式を行いました。
出発式を行ってからトイレを済ませ、ザックを背い、地図などを挟んだバインダーを片手に持って小仏バス停を出発しました。
08時40分、小仏バス停(出発地)=右側

002 小仏バス停(出発式)
バス停から約300m歩くと左側に寶珠寺があり、寺院の入口に「小仏のカゴノキ」石碑が建っていました。
カゴノキは東京都指定の天然記念物で、本堂の手前の崖の中腹に幹周約4mの立派な樹だそうですが、石碑の写真を撮っただけで先に進みました。
08時47分、小仏のカゴノキ(左側)
004 小仏のカゴノキ(天然記念物)
カゴノキは、石碑後方の大きな木です。間違えないようご注意下さい。
快晴の陽射しを浴びながら、ダラダラとした上り坂を歩いていると、小仏川沿いの新緑に輝く木々が目に入り、思わず立ち止まりシャッターを切りました。
 ※新緑に萌ゆる小仏川沿いの木々
005 浅川の源流
08時56分、景信山登山口(右側) 黄色矢印=街道、白色矢印=景信山
003 景信山登山口
今日はハイキング日和になり、大勢の人が景信山に向かっていました。
 ※分岐(直進)
007 分岐(右側)
登山道入口から約200m歩くと分岐があり甲州古道は直進します。
すると駐車場があり、ここは一里塚があった処だそうですが、標示は何もありません。
08時59分、014小仏一里塚(?)付近=現駐車場

008 小仏一里塚付近
小仏一里塚は日本橋から14番目の一里塚ですが、一里塚跡には何も残っていないので、旅人には寂しい限りです。
駐車場から約50m歩くと景信山に向かう分岐があり、道中は真っ直ぐ進みました。
 ※Y字路分岐(左側)
005 Y字分岐(左)
分岐を過ぎて約10m先の右側に水準点の標識が立っており、標石が埋め込まれていました。
09時01分、113号水準点標石(標高369.51m)=右側

010 113号水準点標石
駐車場を過ぎると砂利道となり、標石の先から九十九折の上り道になりました。
 ※峠道(休憩)
011 峠道(休憩)
峠道の途中でひと休みして柵を利用してセルフタイマーで記録に残し、水分補給とスポーツ羊羹でエネルギー補給し出発すると直ぐに水呑み場があり、木製のベンチまで備わっていました。
09時09分、水飲み場(休憩ベンチあり)=右側

007 水飲み場
(H28.07.03の旅)前回の旅の時は水を飲まないで素通りしたので、今回は備え付けられていたコップで1杯飲み、ひと息つきました。
 ※車侵入終点
013 林道終点
ひと息の休息を取ってからは九十九折の道を上ると峠に到着しました。
09時24分、小仏峠着(道標=左側)
009 小仏峠
小仏峠道標の右側に峠の地蔵が祀られていました。
 ※峠の地蔵尊=右側
010 峠の地蔵
地蔵は昔この地に小仏関があった頃、道行く人の安全を願って立てられたそうです。
 
道標(相模湖)=左側
015 相模湖道標
09時29分、小仏峠・頂上(560m)
017 小仏峠標柱
 ※明治天皇小休止跡(左側)
018 明治天皇休憩跡
09時31分、小仏峠発
012 小仏峠分岐
 
※甲州道中歴史案内図(右側)
020 甲州道中歴史案内図
 ※峠道
021 峠道
 ※道標(小仏峠から0.6㎞地点)
013 小仏峠から600m地点
09時49分、道標(小仏峠から1.2㎞地点)=右側
2㎞)
1.2㎞標識の約50m先に送電線鉄塔が建っており、この辺りは江戸期は茶屋が建っていたそうです。
 ※茶屋跡=左側(H28.07.03=追録)
015 送電線鉄塔(茶屋跡)
 ※分岐(小仏峠から1.8㎞地点)・・・歩いてきた方を向いて
8㎞)
少しカーブしながら坂を下ってくるとT字路分岐となり左折します。
分岐点左側に道標が建っていました。
 ※分岐(上の写真と同じ場所)
017 分岐合流(左)
分岐を左折して約80m歩くと林道に合流し、街道は右折Uターンして合流した林道を下ります
10時03分、分岐(右にUターンする曲り)
025 分岐
019 Uターン分岐
分岐合流して右折Uターンすると、曲がった左側に道標が立っていました。
 ※道標=左側
026 分岐道標
右折Uターンしたところから約600m歩くとT字路分岐があり、左折します。
 ※分岐(底沢・美女谷)=左折
027 分岐(左折)
10時14分、分岐・道標(右側)
028 分岐道標
照手姫の水鏡云われている七ツ淵は右折して550m先にあると記されておりましたが、立ち寄らずに照手姫の解説だけ記録に残し、左折して先に進みました
 照手姫・解説
029 照手姫解説
旅をした5月はつづじの時期で、右側の石ブロックの斜面に色とりどりのつづじの花が満開に咲き誇り、私の目を楽しませてくれました。
 ※満開のつつじ(右側)
030 満開のツツジ
分岐(底沢・美女谷)から美女谷橋を渡るなど約270m歩くと中央高速の橋脚があり下り線の高架下の擁壁上に大きな石があり、馬頭観音が祀られていました。
※馬頭観音像(右側)
032
馬頭観音の直ぐ傍に道標(板橋)が建っていました。
10時19分、甲州古道標柱(板橋)=右側
031 道標・板橋
中央高速の高架下を過ぎて約150m歩くと、小仏トンネルを抜けた中央本線が走ってきたので、急いでシャッターを押しました。
※小仏トンネルを出た中央本線(左側)
033 中央線
さらに約100m歩くと右側にコンクリート擁壁、左側に中央本線の線路を保護するガードフェンスの道になりました。
歩いている時、特急あずさ号が走ってきたらいいなと思いながら歩いていると、特急あずさ号ではありませんが、道の終わりころに普通列車が走ってきてくれました。
※線路沿いの甲州道中
034 中央線沿いの甲州古道
※走って来た普通列車

035 走り過ぎる中央線
中央本線沿いの道は右側の民家を過ぎた先で左折して線路下のガード(JR中央線長久保架道橋)を潜ります。
左折してガードに入る右角に、日本橋から15番目の一里塚跡碑が建っていました。

10時27分、赤レンガガードと015小原一里塚碑(右側)
036 JRの赤レンガガード
015 小原(底沢)一里塚跡碑
037 小原一里塚跡
旧道は中央高速効果下の馬頭観音の辺りから中央高速道高架下を抜け、小原宿本陣に通じていたそうで、この道筋に小原の一里塚がありましたが、中央高速道路の敷設でなくなってしまいました。
赤レンガのガード
038 赤レンガのガード
ガードを潜ると、左側に甲州古道標柱(長久保)が建っており、ガードを出たところを右折します。
※甲州古道標柱(長久保)=左側
040 道標・長久保
※T字路分岐(右折)
030 分岐
ガードを潜ったT字路分岐から約300m歩くと、R20と合流し、右折してR20を歩きます。
10時37分、合流分岐(底沢バス停手)=右折

041 分岐(底沢バス停)
左側に底沢橋を見て、R20を右折して約270m歩くと、右側に日本橋から63㎞の距離標が建っていました。
10時40分、63㎞距離標(右側)
042 63㎞距離標
距離標の右側には郷土資料館の小原の里があり、休憩を兼ねて立ち寄りました。
10時41分、小原の里(右側)
043 小原の里
小原の里はゆったりと休憩する場所もあり、綺麗なトイレも完備されているので、休憩に立ち寄るのに良い場所です。
また、朝市が開催されており、地場産の野菜が販売されていました。
※絵はがき(無料配布品)
043-1 小原の里で頂いた絵はがき
※休憩施設
044 小原の里・内部
※丸太のベンチ
045 丸太の椅子
小原の里でトイレ、水分補給、持参したスポーツ羊羹を食べ、英気を養って次に向けて出発しました。
小原の里から約70m歩くと左側に小原宿標柱が建っていました。
※小原宿標柱=左側?(H28.07.03=追録)
035 小原宿標柱
小原宿標柱から約40m歩くと、右側に高札場跡があり復元モニュメントが建っていました。
10時52分、小原宿・高札場跡(右側)
046 高札場(小原)
高札場の隣りに清水本陣跡がありました。
10時53分、小原宿・本陣跡(右側)
047 小原宿本陣屋敷
本陣は後北条の家臣で、代々本陣を勤め、問屋と庄屋を兼ねていたそうで、神奈川県下に26軒あった本陣の中で唯一建物が現存しており県指定重要文化財に指定されています。
本陣・展示物
048 玄関に飾られた輿
本陣・内部①
049 本陣の内部①
本陣・内部②
050 本陣の内部②
本陣の斜め左側に旅籠・菊屋跡があり、玄関脇に「菊屋」と旧屋号が掲げられていました。
※旅籠・菊屋跡(左側)=H28.07.03追録
038 旧旅籠・菊屋跡
白丸印のところに屋号が記されている。
旧菊屋跡の斜め右側に小原バス停があり、バス停の手前右側に小原宿標柱が建っていました。
※小原宿標柱(右側)
039 小原宿標柱
小原バス停の斜め左側、小原交差点の左角先に「ひかえ宿小松勇右衛門」跡があり、本陣、脇本陣の控えだったそうです。
10時59分、旅籠・小松屋跡(左側)

040 旅籠・小松屋跡
11時00分、古民家(右側)
052 古民家
小原交差点から約150m歩くと、右側に文政2(1819)に建立された南無阿弥陀仏名号碑が建っていました。
11時04分、南無阿弥陀仏名号碑(右側)
053

南無阿弥陀仏名号碑から10mくらい先の左側にシャッターがあり、シャッターの脇に甲州古道標柱(小手沢)が建っていました。
※甲州古道標柱(小手沢):左側=(H28.07.03追録)
042 古道分岐(左折)
※白丸印は、古道標柱(小手沢)。
そして、甲州古道は標柱とシャッターの間を通ってスロープを下り、広場を横切り、広場を出たところの道路を右折し、坂を上ってR20に合流し、R20を横断して進行右側に行きます。

※広場を横切る=H28.07.03追録
044 古道(広場を横切り)
※広場を出たところの道路を右に進む=H28.07.03追録
045 分岐(右折)
※坂を上って、R20を渡って進行右側に出る=H28.07.03追録
046 分岐合流(左)
右側を約20m歩くとバス停平野があり、バス停に沿って右折し、坂道を上っていきます。、
11時09分、分岐(右折)
047 分岐(ひらの分岐)右側
坂道を約240m上って行くと、眼下に中央本線の線路が眺めることができました。
眼下に中央本線(左側)
056 眼下の中央本線
さらに約110m歩くと左側に塚本水道店があり、店舗を廻り込むように進むと古道は下り坂となります。
※塚本水道(左側)
048 塚本水道店
塚本水道から約170m歩くと、”何でこんなところに”と思う人家のないところに郵便ポストが設置されていました。

郵便ポスト(人家のないところに?)=右側
057 郵便ポスト
郵便ポストの周りには人家がなく、人家はポストから約50m先から建っています。
何故、人家のあるところに設置しないで、人家のないところに設置したのかよく理解できません。
郵便ポストの先から道は上り坂になり、T字路分岐を左折して進みます。
※T字路分岐(左折)
058 分岐(左折)
T字路分岐から約40m歩くと、右折する道がありますが、曲がらずに直進します。
分岐(直進)
059 分岐(側溝に沿って)
右側の擁壁を過ぎた右側に、階段付きの擁壁があり、階段を上ったところの民家の前に石塔石仏群がありました。
※石塔石仏群=H28.07.03追録
051 石仏石塔群
段上の石塔石仏には、馬頭観音、題目碑、享和3(1803)年建立の大道長安信士墓などがあります。
階段を降り、古道約25m下ると、中央本線の線路が見え、線路の先に相模湖駅が眺められました。
11時24分、眼下に中央本線と相模湖駅
060 相模湖駅
相模湖駅を眺めた後、約40m下ると右側に甲州古道標柱(えんどう坂)が建っており、標柱の数m先を右折してえんどう坂の階段を下ります。
11時25分、甲州古道標柱(えんどう坂)分岐=右折
052 分岐道標(右折)
階段下り
053 えんどう坂
11時26分、エンドウ坂
063 エンドウ坂
エンドウ坂を下ると左にカーブしながら坂を上り、十字路を直進します。
※十字路分岐(直進)
064 分岐(直進)
十字路分岐を直進して約170m歩くと歩道橋のある変則4差路となり、与瀬歩道橋下の右角に古道標柱(与瀬宿)が建っていました。
11時31分、古道標柱(与瀬宿碑)=右側
066 与瀬宿碑
※変則4差路分岐(右折)
065 分岐(右折)
変則4差路分岐から約150m歩くと、相模湖駅前交差点となり、右側を眺めるとJR相模湖駅の駅舎が見えました。
11時33分、相模湖駅前交差点
067 相模湖駅前交差点
相模湖駅・駅舎
068 相模湖駅舎
相模湖駅前交差点から約300m歩くと、相模湖郵便局の先に酒まんじゅうで有名だった光州屋がありましたが、倒産したのか閉店してました。
光州屋(右側)
069 光州屋(酒まんじゅう)
光州屋跡から約60m歩くと、右側に日本橋から65㎞の距離標が建っていました。
11時40分、65㎞距離標(右側)
070 65㎞距離標
距離標から約100m歩くと、右側に坂本本陣跡がありました。
11時42分、与瀬宿坂本本陣跡(右側)
073 与瀬宿本陣跡
坂本本陣跡は往時建坪111坪の規模を誇り、現在は跡地に子孫が生活しており、敷地と築山が残されています。
時計を見ると昼食時になったので、涼しい木蔭の階段に腰掛けて持参したおにぎりとおかず(ウインナー炒めとゆで卵)を食べ、英気を養いました。
昼食(坂本本陣跡)
075 昼食(本陣入口)
本陣跡の直ぐ横に、明治天皇が行幸した時に小休止した「明治天皇興瀬御小休所址」碑が建っていました。
12時00分、明治天皇御小休所址(右側)
071 明治天皇休憩所跡
古道は址碑に沿って右折します。
分岐(右折)
076 分岐(右折)
右折して約60m坂道を上ると、Y字路のようになった分岐となり、左折して進みます。
※Y字路分岐(左折)
077 分岐(左折)
左折して約20m歩くと、右側に石仏石塔群があり、その隣りに与瀬神社の鳥居が建っていました。
※石仏石塔群(右側)=H28.07.03追録
066 石仏石塔群
12時03分、与瀬神社・鳥居(右側)
078 与瀬神社・鳥居
鳥居を過ぎて約270m歩くと、中央高速の高架下を潜って進みます。
※道案内①=中央高速に沿って階段を下る
079 道案内用
※道案内②=ガードフェンスに沿って進む
069 道路案内
※道案内③=ガードフェンスに沿って階段を下りる
070 分岐(左側)
※道案内④=R20を進む(階段は上らない)
071 分岐(左側)
R20を約70m進むと、進行方向右側にラーメン店があり、その手前を右折します。
※ラーメン店分岐(右折)=H28.07.03追録
072 分岐(右折)
右折して約30m歩くと左側に鉄骨で出来た駐車場があり、その横にスチールの階段がありますが、この階段は使いません。
073 通行不可
古道はスチール階段から約50mさらに坂道を上ると、左側に赤線が2本記された木柱(白丸印)が建っており、そこを左折します。
※古道入口(左側)=H28.07.03追録
074 分岐(左折)
※山道を約20m歩く(直進)=H28.07.03追録
075 古道①
※急坂(短い)を下る=H28.07.03追録
076 貝沢橋に下る
※貝沢橋を渡って坂を上る
077 貝沢橋
※踏み跡を確認しながら、草をかき分けて進む=H28.07.03追録
078 古道②
※藪漕ぎに近いところもあり=H28.07.03追録
079 古道③
直進は行き止まりのようで右に上れる階段があり、その階段を上ると進行方向左に側、日本橋から16番目の一里塚址に木柱(白丸印)が建っていました。
※016与瀬一里塚址(左側)
080 与瀬一里塚跡
一里塚址碑の少し先で土道がコンクリート道になり、約250m歩くと石井モーターサービス工場の先で合流します。
第5回(H27.05.10)の時は、舗装路を上ってきましたが、甲州古道は今日歩いた道が正解です。
※分岐合流(直進)=H28.07.03追録
081 分岐合流(直進)
合流したところから約230m歩くと左側に相模湖を眺めることができ、記録に残しました。
※相模湖(左側)
082 相模湖の眺め
相模湖の眺望の良い場所から少し先に、鳥居が竹製の秋葉神社があり、参道入口左側に石仏石塔群がありました。
12時32分、秋葉神社の竹鳥居
084 秋葉神社
※石仏石塔群(右側)
086 秋葉神社の竹鳥居・石像群
石仏石塔群から約110m歩くと、右側に首なし地蔵が祀られていました。
※首なし地蔵(右側)=H28.07.03追録
085 石仏石塔
12時34分、丸一産業工場(左側)
087 繊維工場
首なし地蔵から約70m歩くと、左側に丸一産業・神奈川工場があり、工場の先でUターンするような感じで左に曲がり、Y字路を右に進むと直ぐの右側に石仏石塔群がありました。
※石仏石塔群(右側)=H28.07.03追録
086 石仏石塔群
石仏石塔群から約130m上り坂を歩くと、左側に馬頭観音が建っていました。
※馬頭観音(左側)
087 馬頭観音
馬頭観音から約70m歩くと、右側に古道標柱(橋沢)が建っていました。
※古道標柱(橋沢)=右側
088 道標・橋沢
古道標柱(橋沢)から約180m進むと、山裾を造成して出来た住宅地にモダンな建物が正面に見えてきました。
小仏バス停を出発してから目に入る光景は山か古い家並みだったので、モダンな建物が目の前に見えた時はちょっと異様な感じがしました。

モダンな住宅群(右側)
089 モダンな建物
古道標識(橋沢)から約230m歩くと、モダンな建物が建て並ぶ住宅地に入って行く分岐があり、古道は一番左側の道を進みます。
※分岐(左側)
090 分岐(左沿い)
分岐するところの左側に、古道標柱(子の入)が建っていました。
12時46分、古道標柱(子の入)=左側
091 道標・子の入り
古道標柱(子の入)に沿って一番左側を約230m歩くと、中央高速に架かる陸橋があり、高速道路などの景色を眺めながら渡りました。
12時50分、中央高速陸橋
091 中央高速陸橋
※甲府方面の眺め
092 中央高速陸橋
中央高速陸橋を渡り、約230m歩いてくると、Y字分岐があり、坂を上らないでそのまま右に進みます。
※Y字分岐(右側)
093 分岐(右側)
Y字分岐から約20m進むと、舗装路から右側の進める草地の道があり椚戸旧道江戸口で、分岐の右側に古道標識(赤坂)が建っていました。
12時53分、分岐(右折)=古道標柱(赤坂)

094 分岐(右の土道)
※古道標柱(赤坂)=右側
095 道標・赤坂
※甲州古道
096 甲州古道
分岐(左折)
097 甲州古道
分岐を左折すると直ぐにフェンス越しにJR中央本線が眺められ、中央本線のトンネル部分の上を横切って歩いていました。
※JR中央本線の眺め
095 JRの眺め
古道はこの先で舗装路と合流しますが、合流手前の右側に古道標柱(椚戸)が建っていました。
※古道標柱(椚戸)=右側
099 道標・椚戸
(椚戸)標柱の先で、舗装路と合流し、左折して進みます。
※H27.05.10(第5回)の時は、分岐を右折して進みましたが、甲州古道は左折が正解と分かり古道を歩きます。
12時56分、分岐合流(左折)=H28.07.03追録
097 分岐(左折)
分岐合流から約100m緩やかな坂を上ると、左側の観福寺の前に古道標柱(桜野)=白丸印が建っている右折できる分岐があり、右折します。
※分岐(右折)=古道標柱(桜野)=H28.07.03追録
098 分岐(右折)
分岐を右折して約60m歩くと、右側の石積擁壁の上に古道標柱(矢部)が建っており、標柱に沿って右折して階段を下ります。
※分岐(右折)=古道標柱(矢部)=H28.07.03追録
101 分岐(右折)
※下川橋(下ったところの橋)=H28.07.03追録
102 下川橋
橋を渡って左に曲がりながら上り切った処が、椚戸分岐を右折してきた道と合流します。
※分岐合流(左折)=H28.07.03追録
103 分岐合流
合流地点の右側に、分岐合流地が椚戸旧道下諏訪口で、合流手前左側に古道標柱(椚戸)が建っており、右側にはツアー旅行社が貼りだした古道の案内標識(白丸印)が掲げられていました。
※古道標柱(椚戸)=左側
104 椚戸標柱
古道標柱(椚戸)から約30m進むと、右側に石塔群が建っていました。
13時00分、石塔群(右側)
100 石像群
石塔群から約110m歩くとY字路分岐があり、左側に進みます。
※Y字路分岐(左折)
101 分岐(左)
Y字路分岐から約240m歩くと中央高速相模湖IC入口交差点を眼下に見る場所を通過します。
13時07分、相模湖IC入口・相模湖(左側)
102 相模湖IC入口と相模湖
中央高速相模湖IC入口交差点を眼下に見下ろすところから約100m歩くと、右側に吉野宿高札場跡があり、標柱が建っていました。
13時09分、高札場址(右側)
103 高札場跡(右側)
高札場址から約30m先でR20と合流し、さらに合流分岐を右折して約80m進むと右側に吉野宿本陣址がありました。
13時12分、吉野宿本陣址(右側)
107 吉野宿本陣跡
※吉野宿本陣址(右側)
112 吉野宿本陣跡
※吉野家土蔵(右側)
113 吉野家土蔵
吉野本陣址から約40m先の左側に、藤野町郷土博物館になっている旅籠・ふじや址があり立ち寄りました。
13時13分、旅籠・ふじや址(左側)
104 旅籠・ふじや跡
内部の展示①
105 展示物
内部の展示②

106 展示物
旅籠・ふじや址から約30m先(吉野バス停手前)の左側に、日本橋から68㎞の距離標が建っていました。
13時15分、68㎞距離標(左側)
109 68㎞距離標
距離標から約130m歩くと、右側の吉野郵便局の手前左側に庚申塔が建っていました。
※庚申塔(左側)
116 庚申塔
庚申塔から約130m歩くと、左側に小猿橋址あり、廿三夜塔、百万遍が建っていました。
13時20分、小猿橋址(左側)
110 小猿橋跡と石碑
小猿橋は、大月の猿橋と構造も工法も同じだが、規模が少し小さいところから小猿橋と呼ばれた。
※沢井川に架かる吉野橋
118 吉野橋
吉野橋を渡り約140m歩くと、左側に中華・福龍、右側にサテラ電気がある分岐を右側の側道に進みます。
13時24分、分岐(右折)=中華・福龍の前
112 分岐(右)
分岐から上り坂を歩き、約400m先のエネオスGS(左側)のところでR20に合流し、直進します。
13時32分、分岐・合流=左側にガソリンスタンド
113 合流
R20に合流した左側に、日本橋から69㎞の距離標が建っていました。
※69㎞距離標(左側)
121 69㎞距離標
距離標から約300m歩くと榎が植えられた処があり、日本橋から17番目の藤野一里塚址と云われている場所がありました。
13時37分、017藤野一里塚址?(左側)

114 一里塚跡
※榎の解説
115 一里塚・解説
一里塚址から約220m歩くと藤野総合事務所前交差点で、陣馬街道の出口です。
13時42分、藤野総合事務所前交差点(陣馬街道出口)
123 陣馬街道基点
藤野総合事務所前交差点から約70m歩くと、今日の到着地である藤野駅前交差点に着きました。
13時43分、藤野駅前交差点(到着地)

118 藤野駅前交差点(到着地)
交差点の信号を利用してセルフタイマーを使って到着式(今日の日付と到着地を記した看板を掲げて写真を撮る)を行いました。
私の動作を見ていた信号赤で停まっていた車の女性は、笑顔で見ていました。
また、交差点の処に賑やかな看板を掲げた店があり、楽しんで商売をしているようです。
楽しい看板の店・シーゲル堂(藤野駅前交差点)
120 藤野駅前交差点
13時46分、JR藤野駅
121 藤野駅
※JR藤野駅ホーム
126 藤野駅ホーム
《帰路》
14時08分、JR藤野駅発
今日はYumiさんの部屋の時計を買って行こうと考え、途中で下車して帰ることにしました。

【次回の予定】
次回(第6回)は6月13日(土)に「JR藤野駅駅前交差点から西光寺前分岐までの11.37㎞」を旅する予定です。
梅雨どきなので実施できるかどうか分かりませんが、晴れてくれることを祈るばかりです。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/

【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 晴・曇り
【宿場】(06)八王子宿⇒(07)駒木野宿⇒(08)小仏宿
【行程】歩行距離=12.87㎞ 総距離=56.16㎞  
大和田二丁目バス停⇒(1.64㎞)⇒竹の鼻一里塚跡⇒(3.56㎞)⇒長房団地入口交差点⇒(4.11㎞)⇒小仏関所跡⇒(3.56㎞)⇒小仏バス停
【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第4回旅の宿場)
第4回宿場
 旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第4回全体ルート
 
第4回の旅ルート
 
(大和田二丁目バス停
⇒ 小仏バス停)
第4回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
当初の予定は先週の7日だったのですが、天気予報で雨天模様とのことから翌日の8日に変更すると、8日も雨模様となり一週間順延しました。
何故一週間順延したかと云うと、Yumiさんは土から月までの二泊三日のデイサービス&ショートステイを介護施設にお願いしているからです。
しかし土と日は施設の人員体制の関係から、利用する家族が施設まで送り届けることになっているため、Yumiさんを車に乗せ施設に送り届けました。
施設の方にYumiさんのことをお願いして直ぐに家に引き返し、車椅子を家に戻しザックを背負って自転車で最寄り駅に向かいました。
《旅》
08時25分、日野駅着
日野駅前のバスロータリーで、目的地を通るバスがどの停留場から乗ったらよいのか分からずウロウロしてしまい、他のバスの運転手さんに教えて貰ってバス停に着くと08時28分発のバスが出発してしまいました。
08時36分、日野駅前バス停発
001 日野駅バス停
バスで通る道は40数年前、車で通勤した道で、昔を思い出しながら乗っていると、今日の出発地であるバス停に到着しました。
08時47分、大和田二丁目バス停着
出発する前に出発式を一人で行おうとミニ三脚を使って写真を撮ろうとしたのですが、バス停に男性が一人立っていたので、シャッター押しをお願いし、旧東海道の旅と同じように出発式の看板を掲げ、写真を撮って頂いて出発式を終えました。
「さあ、出発しよう」とザックを背負って出発しようとすると、携帯に介護施設から電話が掛かってきました。
「何かあったのかな」と思いながら話しをすると、Yumiさんの状態確認で、異変でなかったと安心しました。
Yumiさんが施設に行っている時に、施設から電話があると異変が起きたのかと思いヒヤッとします。
電話が終わり、気持ちを切り替えてさあ出発です。
08時55分、大和田二丁目バス停(出発地)

002 出発地・大和田二丁目バス停
出発して約140m歩くと、右側にとうふ懐石料理で有名な「うかい」がありました。
08時58分、とうふ・うかい(右側)
003 とうふ・うかい
私はとうふ料理より高尾の「うかい鳥山」の方が馴染みがあり(昔、何回も食べに行ったことがある)、うかい鳥山の娘と歌手の井沢八郎(故人)が結婚して工藤夕紀が生まれたということを思い出しました。
とうふ・うかいを右に見ながら通り過ぎると石川入口交差点があり、交差点を渡った先に43㎞距離標が建っていました。
08時59分、43㎞距離標
004 43㎞距離標
距離標の先に石川入口バス停があり、道中は下り坂となっています。
距離標から約290m歩くと国道16号バイパスの大和田町四丁目交差点があり、交差点を真っ直ぐ横切ります。

09時03分、大和田町四丁目交差点(16号バイパス)
005 大和田町4丁目交差点
国道16号バイパス交差点を渡り、約60m歩くと甲州道中は左側の松村地所に沿って左折します。
09時05分、分岐(左折)
006 分岐(左折)
分岐した道は、途中で富士見橋を渡るなどして約360m歩くと再び現国道20号に合流し、浅川に架かる大和田橋のたもとに出ます。
09時11分、大和田橋北詰
009 大和田橋
橋のたもとには、昭和20年8月2日に米軍爆撃機180機の空襲を受けた時の焼夷弾の弾痕保存の標示板が建っていました。 
 
↓焼夷弾・弾痕の標示板
010 焼夷弾・解説
空襲では約450名の人が死没、約2,000余名が負傷、市街地の80%が焼失し、この大和田橋の下に避難して多くの人が助かったそうで、歩道には焼夷弾の弾痕跡が17ケ所残っており、透明板や色タイルでその場所が示されています。
  ↓焼夷弾・弾痕跡
011 焼夷弾跡・保存
  ↓大和田橋中央から高尾方面を望む
012 焼夷弾跡からの眺め
大和田橋を渡り、大和田橋南詰の交差点を渡ってから右折して約370m歩くと、市立5中交差点があり旧道は左斜めに進みます。
09時17分、市立5中交差点(左折)
013 分岐(左折)
分岐を左折して約170m歩くと右側に竹の鼻公園があり、入口付近に日本橋から11番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。
09時20分、011竹の鼻一里塚跡(右側)
014 竹の鼻一里塚跡
竹の鼻一里塚は武蔵名所図会に「一里塚 船森の中にあり。近世はその塚の上に稲荷祠を祀りたり。日野の原に一里塚ありて、ここまで一里なり」と記されているそうです。
出発してから30分ぐらいですが、公園内に公衆トイレがあったので、休憩を兼ねてトイレに立ち寄りました。
09時21分~09時24分、休憩
一里塚跡碑が建っている竹の鼻公園の隣りに永福稲荷神社が祀られており、本殿の裏手に芭蕉句碑、境内右側に力士八光山像と解説板、正面左側の石垣に八王子米屋中の碑が埋め込んでありました。
また、周りに人が居なかったので、お賽銭をご奉納し、声を出してYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
09時25分、永福稲荷神社(右側)
019 永福稲荷神社
  ↓芭蕉句碑(本殿裏手)
015 芭蕉句碑(永福稲荷神社)
  ↓八光山像(境内右側)
016 力士八光山像(永福稲荷神社)
  ↓八王子米屋中の碑(石垣左手)
018 八王子米屋中銘板
米屋中は米屋講の前身で、神仏を参詣する同行者の団体ですが、今で言う組合的役割も果たしており、その講社がこの永福稲荷を建てたものと思われます。
神社を出て約70m歩くとT字路路となり左折します。
09時27分、分岐(左折)
020 分岐(左折)
分岐を左折して約250m歩くと国道20号に合流する八王子駅入口東交差点があり、交差点を右折します。
09時31分、八王子駅入口東交差点
021 八王子駅入口東交差点
交差点から約40mで、右側に2つの神社が祀られている市守神社・大鳥神社があり、参拝に立ち寄りました。
赤い鳥居を潜り、本殿まで進み、お賽銭をご奉納してYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
どこの神社に行っても、参拝すると心身ともに清められたような感じがするのは不思議です。
09時32分、市守神社・大鳥神社(右側)
022 市守神社
市守神社・大鳥神社は、八王子市横山町にある神社で、横山宿の四の日の市の繁栄を願って長田作左衛門が天正18年(1590)に創建し、江戸時代中期に大鷲神社(天日鷲命)を配祀したと伝えられています。
09時36分、JR八王子駅入口交差点(白丸=八王子駅)

024 JR八王子駅
八王子駅入口交差点の次の八王子駅入口西交差点で進行方向左側に道路を渡り約80m進むと、左側の丸多屋ビルの手前に料亭・板福があり、入口脇に八王子祭りの時に使われる桟敷席が取り壊されずにそのまま残っていました。
  ↓桟敷席(料亭・板福)=左側
025 料亭坂福の八王子まつり桟敷席
丸福の先に横山町郵便局前交差点があり、交差点の左側に「野猿街道」の起点となる標識が建っていました。
09時46分、野猿街道起点標識(左側)
026 野猿街道起点
野猿街道は、国道20号日野バイパスから多摩川にかかる府中四谷橋を越え、国道16号八王子バイパスまでを結んでいる道路です。
横山町郵便局前交差点から約130m歩くと、八日町交差点の手前左側に八王子道路元標の標識が建っていました。
09時46分、八王子道路元標
027 一般国道・八王子道路元標
道路原標は、大正8年制定の旧道路法において、各市町村に一個設置するとされた石標で、道路の起終点・経過地点として利用されました。八王子市では大正9年に当時の「八幡町三番ノ一」に定められていました。
また、元標の建っている八日町交差点は、浜街道の起点とされていたところで、昭和20年代に絹の道と名付けらていました。
安政6年(1859)横浜港が開港され、輸出が始ると日本の生糸が横浜から大量に欧米へ送られるようになり、八王子は関東周辺、多摩地域の生糸の集積地であったことから、直接八王子から横浜へ生糸が送られるようになり、「遣水峠」を越え、田端、小山を抜け、境川沿いに原町田に出て横浜港へと向ったそうです。
  ↓八日町交差点(浜街道起点)
028 八日町交差点
八日町交差点を右に渡り約40m歩くと、右側に伊勢屋本店があり立ち寄りました。
09時49分~09時53分、伊勢屋本店(右側)
029 伊勢屋
伊勢屋本店は創業80年の老舗の和菓子店で、みたらし団子が一番のお奨めのため、店内で食べさせて頂きました。
  ↓みたらし団子(@60円)
030 伊勢屋・みたらし団子
みたらし団子は出来立てで、柔らかく、たれの味が抜群でした。
伊勢屋本店を出て約140m歩くと、右側に松任谷由美(ユーミン)の実家である荒井呉服店がありました。
  ↓荒井呉服店(右側)
031 荒井呉服店
昔は周りの店が低かったので、もっと大きく見えたのですが、今は高層のマンションが建ったりして小さくなった感じです。
荒井呉服店の直ぐ先の夢美術館東交差点の角に八日市宿跡碑が建っていました。
09時57分、八日市宿跡碑(右側)
033 八日市宿跡
八日市宿碑から約260m歩くと八幡町交差点があり、交差点を過ぎた左側に昔の八王子の商店街を思い出させる店(その1)が残っていました。
10時01分、昔の面影を残す店舗・その1(左側)
034 往時の面影が残る店舗
昔の面影を残す商店・その1から約90m歩くと、またまた昔を思い出させる店がありました。
私とYumiさんが結婚して新居を構えた当時の八王子には、このような専門的な店舗がまだ沢山残っていました。
10時03分、昔の面影を残す店舗・その2(右側)

035 昔はこういう店が沢山ありました
昔の面影を残す商店・その2から約150m歩くと本郷横丁東交差点があり、交差点の手前左側に、これこそ往時のままの店を残している城所荘蔵商店がありました。
10時06分、昔の面影を残す店舗(城所荘蔵商店)=右側
036 往時のままの店舗
店舗の方に話しを聞くと、「このような建物は八王子では我が家ぐらいですね」だそうで、歴史的建造物として長く残してほしいと思いました。
  ↓往時の看板
037 昔の看板
  ↓往時のままの商品飾り
038 店舗の中
本郷横丁東交差点から約50m歩くと、道路沿いに46㎞の距離標が建っていました。
10時08分、46㎞距離標(右側)

039 46㎞距離標
距離標を過ぎ、左右をキョロキョロ眺めながら110m歩くと、左側の防護柵に大勢の人の顔と一緒に「ありがとう さようなら アーケード」と書かれた横断幕が掲げられていました。
  ↓本当?それとも客寄せ?(左側)

040 おわりなのかな?
横断幕が掲げられた店舗の隣りが群馬銀行があり本郷横丁交差点で、ここが秋川街道の起点になっていました。
10時14分、秋川街道起点(本郷横丁交差点)
041 秋川街道起点
秋川街道は古くは「八王子道」と呼ばれ、現在も青梅市・五日市町・八王子市を結ぶ重要な生活道路としての役割を果たしています。
本郷横丁交差点を真っ直ぐ横切り約280mそのまま歩くと、左側に木造の歴史を感じさせる建物に渋柿色の暖簾が架かった蒟蒻「なかのや」がありました。
10時17分、蒟蒻・なかのや(左側)
042 蒟蒻・なかの屋
私は進行方向右側を歩いていたので、左側に建っていた「なかのや」には立ち寄ることはできませんでした。
蒟蒻屋さんには入った記憶がないので、どのような商品が陳列されているのか、ぜひ見てみたいと思います。
さて、なかのやから約170m歩くと追分交差点となり、旧道は交差点を左折します。
10時21分、追分交差点
043 追分跡
追分の交差点に架かっている横断歩道に上って高尾方面を眺めると、一直線に伸びた道路の両側に植樹されたイチョウ並木が綺麗に見えました。
秋の紅葉の頃は、黄色くなったイチョウは素晴らしく綺麗だったことを思い出しました。
交差点の交番の処に追分道標が建っているということなので、歩道橋を歩いて道路の反対側に行きました。
そして、追分道標を見る前に、陣馬街道に面した追分町郵便局の脇に「千人同心屋敷跡」があり、碑が建っているということなので、先に立ち寄ることにしました。
10時23分、千人同心屋敷跡(右側)

044 八王子千人同心屋敷跡
千人同心とは、この付近に住んでいた半農半武の武士集団で、元々は甲斐武田の家臣達で、天正10年(1582)武田家が滅び、織田信長が本能寺で倒れた後、家康が甲斐を治めた時に九人の小人頭を取り立て、甲州の国境九箇所を守る奉行にしました。
天正18年、八王子城落城後は、元八王子に小人頭と小人(同心)250名を落城後の警備に当たらせ、その後北条の浪人を加え500人に膨らみ、大久保長安が代官になると、元八王子からこの千人町に移転し同心も1,000人になり江戸の西の警護に当たるようになりました。また、千人同心と言ってもこの町に千人住んでいたのではなく周辺の村々に散らばっており、その範囲は、現在の三鷹市、川崎市登戸、相模原市、津久井郡、飯能市とかなり広域だったようです。関ヶ原の戦いや、大阪冬の陣、夏の陣と武士集団として出兵しましたが、泰平の世になりその公務は日光火の番といって東照宮の警備を行い、50人が半年交代で216年間に1,030回におよびました。
その後、千人同心は北海道の開拓を行ったり、幕末には横浜を警護したりと活躍し、最後は徳川とともに駿府に移住してゆきましたが、後に暇を乞い故郷の村々に帰り農業に従事していったと伝えられます。
千人同心屋敷跡碑を見た後、追分道標を見ようとしたら、交番の前は工事中で史跡はりません。
交番のおまわりさんに聞くと「工事の間、あそこに移動しました」と云って、史跡の場所を教えて下さいました。
追分道標は、交番から約20m離れた旧道中の右側に建っていました。
10時25分、追分道標
047 追分跡碑
追分道標を見た後、宗格院に行くことにしました。
宗格院は、追分道標から約560m先の山梨中央銀行を右折し、さらに290m旧道中から離れた場所にありますが、浅川の本流と千人町を流れる支流に作られた石見土手が60m残っているというので、折角の機会なので見にいくことにしました。
地図を見ながら場所を探し、宗格院に着きました。
10時37分、宗格院
048 宗格院
石見土手は院の境内にあるというので探しましたが、私には見付けることができませんでした。
※家に帰ってきてから再度調べてみたら、境内の中の花壇の石垣が石見土手と分かりました。
 ↓石見土手(資料を引用)

宗挌院を出て山梨中央銀行のある交差点に戻り、約660m歩くと長房団地入口交差点で、旧道中は交差点を右折します。
ただ、その手前に馬場横丁の標柱があるということで探しながら歩いたのですが、見付けられませんでした。
10時55分、長房団地入口
051 分岐(長房団地入口)
長房団地入口交差点を右折すると、約40m先の左側に2枚の道標が建っていました。
写真の左側の大きい方が高尾山道標、右側の小さい方がイラスト入りの道標です。
  ↓道標(左側)
053 高尾山道標
旧道中は、道標の約10m先を左折します。
  ↓分岐(左折)
052 分岐(左折)
分岐を左折して約100m歩くと、右側にスーパーヤオコーがあり、トイレ休憩することにしました。
11時00分~11時09分、休憩(ヤオコー)
054 スーパー・ヤオコー
ヤオコーでトイレを済ませ、休憩用の椅子に座り、水分補給とスポーツ羊羹でエネルギーを補給して出発しました。
ヤオコーを出て約160m歩くと国道20号に合流し、そのまま道なりに進むのですが、その前に道路の反対側にある長安寺に立ち寄ることにしました。
ところが、ここは合流点なのですが信号がないため、左右を確認して横切って寺院に行ったのですが、寺院の補修工事中で屋根の上に付いている葵の紋は取り外されていて見ることはできませんでした。
11時11分、合流地点(長安寺前)
056 分岐(右折)
11時12分、長安寺(左側)
057 長安寺
長安寺を出てそのまま進行方向左側を約340m歩くと、左側に八王子市横山事務所があり、事務所の建物の前に市の天然記念物の大木が建っていました。
11時18分、八王子市横山事務所(左側)

058 横山事務所の大木
この付近に一里塚があったという文献もあり市指定の天然記念物のオオツクバルガシという大木と一里塚を思わせる盛土がありますが、分間延絵図の解説書に「地元ではこの辺りに一里塚があったという伝承はなく、地蔵堂あたりとなっているので、長房団地入口交差点の西側に地蔵堂が建っていたようです。
  ↓オオツクバネガシ・解説
059 解説
横山事務所を出た処の横山事務所前交差点を道路の右側に渡り約470m歩くと、高尾警察署の前の道路沿いに49㎞の距離標が建っていました。
11時25分、49㎞距離標(右側)
060 49㎞距離標
距離標から340m歩くと武蔵野陵墓地で、多摩御陵(大正天皇)、貞明皇后陵、武蔵野御陵(昭和天皇)、香淳皇后陵の参道入口で、道路の反対側は旧多摩御陵駅舎跡です。
11時30分、武蔵野陵墓地参道入口(右側)
061 多摩御陵参道
  ↓旧多摩御陵駅舎跡(左側)
062 旧多摩御陵駅跡
旧多摩御陵駅は、京王帝都電鉄御陵線の駅で、御陵線の終着駅でした。 1945年に御陵線が不要不急路線として休止された後、長らく「休止」扱いでしたが1964年に正式に廃止となりました。
武蔵野陵墓地参道入口から約150m歩くと多摩御陵西交差点があり、旧道は右に分岐します。
11時32分、分岐(多摩御陵西交差点)=右折
063 分岐(右折)
交差点手前の分岐を右に入ると直ぐの左側に「旧甲州道中」の道標が建っていました。
  ↓道標(旧道に入って直ぐの左側)
064 旧甲州道中道標
この道には旧家と思われる広い土地の家があり、黒塀と白壁の石造りの蔵が建っていました。
  ↓平野家(左側)

065 黒塀の家・平野家
  ↓大貫家(左側)
066 黒塀の家・大貫家
大貫家の右斜め前に、石川家の黒塀と白壁の石造り蔵が建っていました。
石川家から約180m歩くと高尾街道に突き当り、左折すると約40m先に町田街道入口交差点に着きました。
この交差点は国道20号線で、右は高尾街道、左は町田街道の起点になっていました。
  ↓高尾街道起点道標(右側)
067 高尾街道起点
町田街道入れ口交差点を高尾街道側から町田街道側に真っ直ぐ渡り、さらに渡ったところを右側に町田街道を渡たり、約40m進むと左側に熊野神社がありました。
11時46分、熊野神社(左側)
068 熊野神社
熊野神社の本殿の隣りに樫の木と欅の木が根元で合体した大木があり、地元ではこの木を縁結びの木といってこの木の根元に自分の名前と恋しい人の名前を書いた小石を二つ並べておくとその願いがかなうというそうです。
  ↓本殿と縁結びの木(本殿左側)
069 本殿と縁結びの樹
熊野神社は本殿の前で一礼し、先に進みました。
熊野神社から約340m歩くと高尾駅前交差点となり、昼食を食べる場所を探しました。
11時54分、高尾駅前交差点
072 JR高尾駅前交差点
高尾駅前に食堂があったのですが、値段が高いだけで料理は今一という感じがしたので、この場所での食事をパスして駅舎だけ記録に残して先に進みました。
  ↓高尾駅(左側)
073 JR高尾駅舎
高尾駅前交差点を真っ直ぐ渡り昼食を食べる店を探しながら約670m歩くと、中央本線と国道20号線が南浅川を渡る
両界橋
で、国道は大垂水峠へと向かい、旧甲州道中は小仏峠へと向かいます。
888年までは小仏峠が甲州街道だったのですが、車両の通行できる道が望ましいと言うことで廃止になりましたが、現在は中央自動車道が小仏を越え新甲州街道として峠は復活しました。
12時04分、両界橋・獅子淵・草土水房(左側)
075 草土水房
両界橋の下にはこぶちと云って渓谷があり、1950年頃までこの界隈(浅川地区)の子供達が遊んだところです。そして江戸時代に獅子淵
と呼ばれた古淵がありますが、橋から見ることはできません。
そして、対岸の右側の建物(一番左に突き出した家)は草土水房と云って大菩薩峠を著した中山介山が住み、大正12年から14年まで毎週日曜日に隣人学園が開校しました。
中里介山は、村の水車小屋で生まれ、貧しい中を、電話交換手、代用教員、教員、新聞社と進み、大菩薩峠執筆後は新聞社を退社し執筆活動に専念するため、ここ高尾にやって来たそうです。
中央本線と国道20号線が交差している
両界橋を潜り、約150m歩くと西浅川交差点があり、交差点を右折しました。
12時06分、西浅川交差点(右折)
076 分岐(西浅川交差点)
高尾駅から国道20号線を歩きながら昼食を食べる店を見付けながら歩きましたが、ここで食べようと思わせる店がなく、ここま゛て歩いてきてしまいました。
「さあ、困ったな」と考え、これから今日の到着地である小仏バス停までの間になかったら、持参した菓子パン(あんぱん)とスポーツ羊羹が空腹をしのぎ、高尾駅に戻ってきてから食べることにしました。
国道20号から別れて旧道を歩くと、小仏方面から大勢の人が歩いてくるので確かめると、今日14日と明日の15日の二日間は「高尾梅林まつり」でした。
高尾梅林まつりは5年前の今日(3月14日)、山の会で小仏バス停から高尾駅まで歩いて梅林巡りをしたことを思い出しました。
後程通る「湯の花梅林」でH22.03.14に撮影したした写真を掲載します。
西浅川交差点を右折して旧道を約260m歩くと、左側に高尾駒木野庭園がありました。
12時10分、高尾駒木野庭園
077 駒木野庭園・入口
高尾駒木野庭園は、平成24年に開円したもので、建物は現駒木野病院に改組される前身の小林病院が昭和2年にこの地に開設した住居兼医院として利用していたものです。大正年間に築造された平屋の母屋と、昭和初期に増築された二階屋で構成されている本格的な日本建築です。この土地と建物は平成21年3月に八王子市に寄贈され、既存施設を極力残して利用してほしいという持ち主の意向を受け、建物の外観はそのまま残してトイレなどを改修し、周囲は枯山水、露地や池泉回遊式の本格的な日本庭園として整備しました。
ただ、天候が今にも雨が降り出しそうな感じになってきたのと、昼食を梅林祭りの会場で食べようと考えていたので、今回は立ち寄らないで素通りしました。
庭園前から約300m歩くと小仏関跡の手前左側に、駒木野橋碑が建っていました。
12時14分、駒木野橋碑(左側)
079 駒木野橋碑
駒木野橋碑から約30m先の右側に、竹柵で囲まれた小仏関跡があり碑が建っていました。
12時15分、小仏関跡碑(右側)
080 小仏関跡
小仏関所は、江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所で、天正年間(1573から92)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築いたのがはじまりと言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後(1590年)に関東に入った徳川家康によって、現在地に移設され整備されたといわれています。
江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に番所が設けられていました。東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていました。関所周辺には竹矢来が組まれ、川底も深くして通行人の往来を規制していました。
関所の警備は一時3人だったこともありますが、概ね4人体制で専従の関守が置かれていました。関守達は関所付近に屋敷地を貰い、江戸との繋がりも深く、地域の文化を担う文化人でもありました。
全国の関所は、明治2年(1869)の太政官布告により廃止され、小仏関も建物は取り壊されてしまいました。現在は建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っています。
明治21年(1888)に甲州街道は、小仏峠を通る道から現在の大垂水を越える道に路線変更され、その後旧道を保存しようという気運が高まり、関所跡は昭和3年に国の史跡に指定されました。
関所跡隣りの公園で梅林まつりが開催されており、屋台が出ているので、ここで開花した梅の花を見ながら昼食を食べることにしました。
12時16分~12時30分、昼食
082 関所梅林・梅まつり
公園入口のロウバイは満開でしたが、公園内の梅の木は数が少なく梅を堪能することはできませんでした。
また、昼食は公園内に設置されたテーブルと席に座り、焼きそばと持参した菓子パン(アンパン)を食べましたが、ゆっくり食べている状態でなかったので、早々に席を立って旅に出発しました。
公園を出て少し戻ると、公園内の道路沿いに宿碑が建っていました。
12時31分、駒木野宿碑(右側)
084 駒木野宿碑
駒木野宿碑から緩やかな下り坂を約150m歩くと左側に石碑群があり、石碑を過ぎる辺りに念珠坂碑が建っていました。
12時34分、石碑群(白丸:念珠坂碑)=左側
085 念珠坂・石仏群
  ↓念珠坂碑(左側)
086 念珠坂碑
この辺りに駒木野一里塚があったのではないかと云われていますが、史跡を標示するものはなく、写真で記録だけ残しました。
  
↓駒木野一里塚跡?
087 一里塚跡?付近
念珠坂碑から約350m歩くと左側に荒井町会会館があり、会館の約30m先の左に梅郷橋が架かっています。
この橋を渡ったところが天神梅林で、沢山の梅の木が植樹されており、観梅に大勢の人が来ていました。
12時40分、天神梅林(左側)
088 天神梅林
梅郷橋から左側の天神梅林を観梅しながら約240m歩くと小仏方面に行く蛇滝口バス停があり、その先の左側に水場があり勢いよく水が出ていました。
12時44分、水場(左側)
089 水場
水場から約50m歩くと高尾方面行の蛇滝口バス停があり、バス停脇を右に入る道があり、入って直ぐの左側のフェンスに「いのはな慰霊碑」の道案内看板が掲げられていました。
090 いのはな慰霊碑案内図
道案内に沿って高速道路の方に向かって歩いて行くと慰霊碑(白丸印)が建っていました。
091 慰霊碑の道
12時47分、いのはな慰霊碑(右側)
092 慰霊碑
湯の花トンネル列車銃撃事件(いのはなトンネルれっしゃじゅうげきじけん)は、第二次世界戦争末期の昭和20年(1945)8月5日正午過ぎに中央本線の湯の花トンネルで、米軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件です。
いのはな慰霊碑に手を合わせ、慰霊碑に眠る御霊の幸せを願った後、旧道に戻りました。

旧道に戻ると高尾方面行の蛇滝口バス停の真向いに、講の札が掲げられている建物がありました。
12時48分、講の札(左側)
093 講の札
講の札が掲げられた建物の先に、上行講碑が建っていました。
12時50分、上行講碑(左側)
094 上行講碑
上行講の道標は、蛇滝まで八丁の処に建っており、蛇滝で水行を行った人達が講を組んでやってきた記念として建てたのではないかと云われています。
蛇滝口バス停から約150m歩くと、高速道路の高架橋の下に近年新しくできた「高尾梅の郷まちの広場」があり、観梅で訪れた人で賑わっていましたが、立ち寄らずにそのまま通り過ぎました。
12時53分、高尾梅の郷まちの広場(左側)
096 高尾梅の郷まちの広場
広場から約80m歩くと、左側に水行道場に行く入口があり、大きな看板が建っていました。
12時54分、蛇滝水行道場入口(左側)

097 蛇瀧水行道場入口
蛇滝の水行道場は、高尾山薬王院が管轄する水行場で、他に琵琶滝でも行われているようです。
入口の先にある峰尾功商店の前をとおり約40m歩くと、左側に湯の花梅林がありました。
12時55分、湯の花梅林(左側)


098 湯の花梅林
湯の花梅林を左に見ながら約320m歩くと、創業昭和33年の峰尾豆腐店があり行列が出来ていました。
13時00分、峰尾豆腐店(右側)
100 するさし・峰尾豆腐店
ここの豆腐は豊富な高尾山系の良質な地下水の恵みに育まれた「するさしの とうふの味」として有名で、おからドーナツは超人気商品です。
店の前に摺差バス停があるので、バス待ちの間に買っています。
私も買いたかったのですが、ごらんのとおりの行列だったので、横に見て通り過ぎました。
豆腐店から約620m歩くと左側に浅川国際マス釣場があり、数人の人が釣っていました。
13時08分、浅川国際マス釣場(左側)
101 浅川国際ます釣り場
浅川国際マス釣場に入る入口から約180m歩くと木下沢橋(こげさわばし)があり、橋を渡ると上り坂となり、街道はヘアピンカーブを曲がり約130m歩くと、JR中央本線の下を潜る赤レンガ造りのトンネルがありました。
13時14分、赤レンガトンネル
102 赤レンガのトンネル
中央本線の八王子と上野原間が開通したのは明治34年(1901)8月1日なので、このトンネルはきっとそのとき作られたものと考えられます。大小の煉瓦を組み合わせた立派なトンネルで、複線に対応できる幅になって作られており、増設した跡が無いので、開通当時から
複線を見込んで造られたのかも知れませんが、この区間が複線化したのは実に63年後の昭和39年です。
この辺りから左側を浅川、その隣りに中央線が走っており、小仏トンネルに入る場所になりました。
↓小仏トンネル(右側=上り専用、左側=下り専用)
103 小仏トンネル入口
小仏トンネルは、右側の上り専用が明治34年に出来た小仏トンネルで、左側の下り専用が昭和39年開通の新小仏トンネルです。
トンネルはこれから歩く甲州道中の小仏峠の真下を貫き、約2.6㎞先の千木良で潜り抜けます。
道中からではトンネルを明確に見ることができないため、浅川を越えて線路脇に出てトンネルを見ました。
何回も電車に乗って通過していますが、トンネル口を見たのは初めてで、トンネル口はあおき苑(道中の右側)の前あたりになっていました。
小仏トンネルを写真に収め浅川をチラリ、チラリと眺めながら歩いていると一匹の白鷺がいましたが、私に驚くことなくエサを探して動いていました。
  ↓白鷺
104 白鷺
小仏トンネルのトンネル口があるあおき苑から約180m歩くと、今日の到着地である小仏バス停に着きました。
小仏バス停は広場になっているため、ミニ三脚では撮れないので、ザックを置いてから並んでいる方にシャッター押しをお願いし、到着の看板を掲げ到着式を行いました。
13時25分、小仏バス停(到着地)
105 到着地(小仏バス停)
バス停には5~6人並んでおり、13時40分発のバスを待っていました。
ところが今日は梅まつりで臨時便が出ているのと、交通混雑で遅延が出ているのか、30分頃に待っていた人を乗せると直ぐに発車しました。
10数人くらいの乗車で出発しましたが、バス停に着くごとに人が増え、2~3のバス停で満席になりました。
場所によっては乗用車と交差できない狭い道を歩く人が多くいましたが、バスはクラクションを鳴らすことなく走り、途中の交差(道幅が狭く、交互通行が必要なところが多々あり)でも動けるまで停まって見ていました。
私は途中で瞼が合わさって寝てしまい、終点に着いてから目を覚ましました。
14時10分、高尾駅北口着
時計を見ると、通常だと20分で走るところを40分掛かって到着したので、今日は梅まつりでダイヤは目茶苦茶になっているようです。

106 JR高尾駅改札
【次回の予定】
次回は4月11日(土)に第5回の旅を行う予定でおりましたが、雨天のため16日(木)に延期して準備を整えたのですが、前日の15日の夕方、Yumiさんが施設の階段から転落し救急車で病院に搬送され、「外傷性頭蓋内損傷」で入院致しました。
そのため、旅の準備を整えていたのですが、旅を延期しました。
第5回の旅は、5月10日(日)に延期し、
小仏バス停から小仏峠を通りJR藤野駅駅前交差点までの、11.48㎞を旅する予定です。
今までは街場を歩いてきましたが、今回は山の中を歩くので、ウォーキングシューズをハイキングシューズに履き替えて歩きます。
天候やYumiさんの入院などで、春爛漫の4月に旅歩きが出来なかったのは残念ですが、致し方ありません。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 

※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】 快晴
【宿場】(04)府中宿⇒(05)日野宿⇒(06)八王子宿
【行程】歩行距離=12.05㎞ 総距離=43.29㎞  
分倍河原駅入口交差点⇒(3.70㎞)⇒矢川駅入口⇒(3.02㎞)⇒立日橋南詰⇒(3.27㎞)⇒R20多摩平北⇒(2.06㎞)⇒大和田二丁目バス停
【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第3回旅の宿場)
第3回宿場
 旧甲州道中の旅・進捗状況
  (黒線=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
第3回全体ルート
 
第2回の旅ルート
 
(分倍河原
駅入口交差点 ⇒ 大和田二丁目バス停)
第3回ルート
【旧甲州道中の旅】
《序章》
今回の旅は、10月17日にYumiさんが左足首を骨折してから約4ケ月振りの旅です。
Yumiさんは左足首を骨折してから認知症の症状が進行し、旅ができない状態となり私一人で続けることにしました。
また、旅のタイトルを「旧甲州道中夫婦二人旅」から「Eiさんの旧甲州道中一人旅」に変更することにしましたので、ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。
さて、今回の旅は分倍河原駅から私とYumiさんが結婚した時に最初に住んでいた処の近くまで行きますが、住んでいたところは交通の便が悪く、歩くとすると往復1時間近く要するため、車で近くに来た時に立ち寄ることにして、今回は立ち寄らないで帰ることにしました。
《旅》
08時19分、分倍河原駅着
001 分倍河原駅
駅の改札を出てそのまま出発地には向かわないで、駅南口ロータリーの中に建っている「新田義貞像」を見学しました。
08時22分、新田義貞像
002 新田義貞像
写真を撮った後、分倍河原駅に戻り、今日の出発地である分倍河原駅入口交差点に向かいました。
改札口から約180m歩き出発地に立ったのですが、今まではYumiさんが居たので交互に写真を撮ったりしましたが、今回から私一人になるので、歩いている方にお願いしてシャッターを押してもらいました。
08時27分、分倍河原駅入口交差点(出発式)
004 分倍河原駅入口
出発式で使用する看板は、作成するのを忘れていました。
朝の忙しい時なのに快くシャッター押しを引き受けて下さった男性にお礼を云って別れ、さあ、旅の出発です。
交差点の直ぐ先に京王線の踏切があり電車が走ってきた処を写真に撮ろうかと思いましたが、ローカル線でもないので撮るのを止めて、踏切から約40m先の左側のローソンに行き忘れてきた赤ボールペンを買いました。
ローソンを出て道中を約230m歩くと左側に生け花のような花壇がありました。
08時34分、稲垣家生け花花壇(左側)
005 稲垣家門前の生け花
このような生け花の花壇は見たことがなく、とても新鮮に映りました。
稲垣家から約20m歩くと美好町三丁目西交差点で、その角に石阪園芸店があり、綺麗な花が沢山並べられていました。
08時35分、石阪園芸店(右側)
006 石阪園芸のディスプレー
石阪園芸店の隣りの入口を見たら立派な冠木門が立っていました。
この辺りは広い敷地と立派な門構えの家が連なっていました。

08時36分、冠木門の家(右側)
007 冠木門の家
赤色門の家から約110m先の左側に、さらに豪華な冠木門の家がありました。
内藤家の冠木門で、門を潜って中を見学したくなりましたが、不法侵入で捕まったら大変と、写真だけ撮って先に進みました。
08時39分、内藤家の冠木門(左側)
008 内藤家の冠木門
内藤家から約230m歩くと本宿町交差点(府中バイパスと旧甲州街道が合流)となり、合流地点に距離標が建っていました。
08時43分、32㎞距離標(右側)
009 32㎞標識
この地点には資料に「本宿碑」が建っていると記されていたのですが、この辺りには建っていませんでした。
距離標は32㎞標を確認してから、100m標は残っているところが沢山ありましたが、㎞標は盗難されたのか確認出来なくなりました。
本宿町交差点から約250m歩くと本宿交番前交差点があり、交差点を渡った左側に秋葉常夜燈が建っていました。
08時48分、本宿常夜燈(左側)
010 本宿常夜燈
  ↓本宿常夜燈・解説

011 常夜燈・解説
本宿交番前交差点で進行方向右側に渡り、約200m歩くと、右側に熊野神社、神社の裏に古墳がありました。
08時52分、熊野神社(右側)
012 熊野神社・参道
神社の本殿に立ち、お賽銭をご奉納し、東海道の旅の時と同じように周りに人が居なかったので、声を出してYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
参拝の後、神社の裏手に回り古墳を見学しました。
  ↓熊野神社古墳
013 熊野神社古墳
熊野神社古墳は約2年前(H25.03.03)に山の会で来たことがあり、展示室や古墳内の疑似体験もしていたので、今日は古墳だけ見て先に進みました(※時間が早かったので展示室も開館していませんでした)。
熊野神社を出ると西府町二丁目交差点があり、交差点を進行方向左側に渡り約410m歩くと、JR南武線を跨ぐ西府橋がありました。
09時02分、西府橋(JR南武線)
015 JR南武線跨線橋
西府橋から約130m先のレストラン・ガストがあり、その前に府中市と国立市の市境標識が建っていました
09時09分、国立市市境標識(左側)
016 国立市境標識
府中市から国立市に入りました。
市境標識を見ると、旅が進捗していることを感じます。
市境標識から約100m歩くと国立インター入口交差点があり、横断歩道がないため「いっぽんまつほどうきょう」で道路を跨ぎます。
09時12分、いっぽんまつほどうきょう
017 いっぽんまつほどうきょう
歩道橋から富士山が綺麗に見えました。
  ↓歩道橋からの富士山
018 歩道橋から富士山の眺め
歩道橋を渡った処から約330m歩くと左側にオーバックスがあり、その手前の道路反対側に常夜燈が建っていました。
09時17分、谷保常夜燈(右側)
019 谷保常夜燈
常夜燈から約80m先の左側にドリーミーホール国立の前に史跡「関家かなどこ跡」の標板が建っていました。
09時20分、関家かなどこ跡(左側)
020 関家かなどこ跡
関家かなどこ跡から約150m歩くと、菅原道真公を祀っている谷保天満宮があり、参拝に立ち寄りました。
09時23分、谷保天満宮(左側)

021 谷保天満宮・入口
谷保天満宮は、天満宮として東日本で一番古く、湯島天神、亀戸天神と並び関東三大天神と称されています。
私は天満宮の前は数えきれないほど車で通っているのですが、参拝するのは初めてです。
  ↓谷保天満宮・本殿
023 谷保天満宮・拝殿
本殿でお賽銭をご奉納し、参拝しましたが、周りに人がいたので、心の中でYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
天満宮の中に「ときわの清水」があるので、神社の方に場所を聞いて見に行きました。
本殿の裏手に厳島神社があり、さらに厳島神社の裏手に「常盤の清水」がありました。
09時29分、厳島神社
024 厳島神社
09時30分、常盤の清水
025 常盤の清水
  
↓常盤の清水・解説
026 常盤の清水・解説
常盤の清水の裏手に遊歩道が出来ていたので、遊歩道を歩いて谷保天満宮を後にしました。
027 谷保天満宮裏手の遊歩道
谷保天満宮の前の交差点を進行方向右側に渡り、坂道を約140m下ると交通量を監視するカメラが設置されているアングルを過ぎた右側に入る道があり、その道の左側に清水の茶屋跡がありました。
09時36分、清水の茶屋跡(白丸)=右側
 
028 清水の茶屋入口
  
↓清水の茶屋跡・標板
029 清水の茶屋跡
清水の茶屋跡の次は街道の左側にあり、反対側に行くには谷保天満宮前の信号か、国立市役所入口の信号まで行かなくてはなりません。
交差点まで行くのが面倒になり、信号で停まった時を利用して道路を横切って渡ってしまいました。
清水の茶屋跡から約100m進むと、左側に谷保案内の標板が漆畑家の塀の上に建っていました。
09時40分、谷保案内
031 谷保案内
谷保案内とは、江戸時代の文人遠藤由晴が著した上下二巻からなる七五調で綴った寺子屋で重用された教科書で、当時の谷保村の様子や人倫の道などが描かれているそうです。
谷保案内を後にして街道を約920m歩くと、国立みどり農協前信号の先の国立市消防団の建物の脇(南養寺入口の左角)に上谷保常夜燈が建っていました。
09時53分、上谷保常夜燈(左側)

033 上谷保常夜燈
上谷保常夜燈は、「秋葉大権現」「寛政六甲寅年四月 上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」などの文字が刻まれていることから、1794年に建てられたようで、上谷保村の油屋(屋号、今の甲州街道北側の原田幸治氏宅)の東隣に置かれていたものを、道路改修のときに現在地に移されたそうです。
常夜燈が建っているのが南養寺の参道で、南養寺に敷石住居跡の遺跡があるというので、見て行くことにしました。
09時55分、南養寺・山門(左側)

035 南養寺・山門
  
↓遺跡・敷石住居跡
036 敷石住居跡
遺跡は非公開(建物の床下にある)のため、どのようなものか分かりませんが、奈良時代~平安時代に建てた住居跡のようで、出土品は国立市の郷土文化館に展示されているそうです。
南養寺を出て約30m歩くと、JR南武線矢川駅に通じる矢川駅入口交差点があり、真っ直ぐに渡りました。
10時01分、矢川駅入口交差点
038 矢川駅入口交差点
交差点をわたった処から約140m歩くと、矢川が流れていました。
10時01分、矢川(左側)
041 矢川
矢川地区には何回も来ているのですが、矢川そのものを見たのは今回が初めてです。
矢川の処で道路の反対側に祀ってある五智如来像を見るため、道路の反対側に渡るですが、交差点まで戻るのが面倒で、交通安全を無視して車の来ないことを確認して進行方向右側に横切り、矢川の脇に建っている五智如来像を見に行きました。
10時04分、五智如来像(右側)
039 五智如来
如来像はお堂の中に納められており、扉の外から見ました。
五智如来像を見た後、また道路を進行方向左側に横切り260m歩くと、マンションの手前に「小さなお寺 一妙寺」がありました。
10時09分、一妙寺(左側)
042 小さなお寺・一妙寺
外観は普通の住宅で、案内看板がなければまったく寺院とは判断できませんが、内部は見きっと寺院の雰囲気を醸し出しているのでしょう。
一妙寺から約310m歩くと青柳福祉センター前交差点があり、交差点手前左側に祭りの時に使う漆器類を保管しておく「おわんこ倉」がありました。
10時15分、おわんこ倉(左側)
044 おわんこ倉
おわんこ倉の右隣りに「青柳稲荷五社大神」と書かれた提灯が吊り下げられたお堂がありましたが、提灯に記されたお堂かどうか確認できませんでした。
045 地蔵堂
お堂の横の道を過ぎたところが青柳福祉センターで、敷地の隅に常夜燈が建っていました。
10時15分、青柳村常夜燈(左側)
046 青柳村常夜燈
青柳村常夜燈は、東側に「榛名大権現」、北側に「正一位稲荷大明神」、西側に「秋葉大権現」、南側に「寛政11年9月 施主村中」などの文字が刻まれていることから、1799年に青柳村の人々が建てたそうで、古老によると、昭和初期ごろまでは、村の人たちが毎晩当番で、ローソクを1本ずつ点す習慣があったそうです。
青柳福祉センターから約140m歩くと、沢井家の門柱に「災害対策用井戸」と記された看板が掲げられていました。
「どのような井戸だろう」と思い、不法侵入してこっそりと敷地の中に入らせて頂きました。
10時19分、災害対策用井戸のある家(沢井家)
048 災害対策用井戸表示
広い敷地の家で、母屋の近くに井戸がありました。
井戸のポンプは新しいものに取り換えられていましたが、都会ではなかなか目にすることのないので、小さい頃使っていた井戸を思い出しました。
  ↓災害対策用井戸

049 沢井家の災害対策用井戸
沢井家を出て約120m歩くと「みのわ通り入口交差点」があり、右折すると車が走れる道路で、左折すると車が入れない遊歩道になっている面白い交差点がありました。
遊歩道にはベンチが備えられており、出発から2時間経過する頃なので、ここで休憩することにしました。
10時20分~10時29分、休憩
050 休憩ベンチ
ベンチにザックを置き、温度も上昇してきたのでチョッキを脱ぎ、次に朝食を食べてから4時間近く経つので、行動食として持参したスポーツ羊羹を食べ、持参したスポーツドリンクで水分補給し、ひと息つきました。
Yumiさんが居れば、衣類調整でプチ喧嘩をしたり、「はい、これ食べて」とスボーツ羊羹の包み紙を取って渡したり、水分補給でペットボトルの栓を取って渡すなどを行い、ゆっくり休んでいる暇もないのですが、今日は私一人のため、Yumiさんが居ないことは寂しいのですが、一人のんびりと休めました。
ただ、いつも話しをするYumiさんが居ないので、話し相手がいない寂しさはあります。
ひと休みして気持ちも新たにザックを背負い歩き始め、約220m進むと左側に国立市から立川市に入る市境標識が建っていました。
10時31分、立川市市境標識(左側)
051 立川市境標識
市境標識の先の錦町6丁目信号で、進行方向右側に渡りました。
左側には児童養護施設の至誠学園、至誠保育園、至誠福祉施設が立ち並んでいます。
街道の右側を約380m歩くと渋滞情報で良く耳にする日野橋交差点があり、現在の国道20号線は左折して多摩川を渡るのですが、旧道中は交差点を渡り斜め右方向に進みます。
10時38分、日野橋交差点
052 日野橋交差点
交差点を渡っていると娘から「Yumiさんの着るもの(伸縮性のあるズボンやカットソーなど)を注文したよ」とメールが届き、お礼の返信メールを送信してから歩き始めました。
ここで山の会で懇意にしているKYOの会のYさんのお宅が近くにあるので、お庭を通らせて頂くご挨拶の電話を掛けました。
時間があったら家の近くで手でも振ろうかと考えたのですが、丁度出掛ける時でエールの交換はできませんでした。
そして、日野橋交差点から出光ガソリンスタンドに沿って現在の奥多摩街道を約250m歩くと変則4差路があり、左折しました。
10時45分、分岐(左折)
053 分岐(左折)
分岐を左折すると直ぐの右側に「旧甲州街道」の道路標識が建っていました。
  ↓旧甲州街道道標
054 旧甲州街道道標
ここから道は少し下り坂となっており、右側に立川市の柴崎市民体育館を眺めながら約300m歩くと、新奥多摩街道の交差点に出ました。
10時51分、錦町下水処理場前交差点
055 錦町下水処理場前交差点
交差点を渡り左側の下水処理場に沿って約60m歩くと、分岐する左側に日野の渡し跡があり、碑が建っていました。
10時52分、日野の渡し跡
056 日野の渡し跡
道中は渡し跡のところの分岐を右側に進み、道なりに約120m歩くと土手があり、階段を上って土手に出ました。
  ↓分岐(土手を右折)
057 多摩川土手分岐
道中は土手を進みノレールの下に架かる立日橋を渡るので、少しの間ですが、快晴、風なしという最高の天気に恵まれた多摩川土手を味わいながらのんびりと歩きました。
  ↓多摩川土手
058 多摩川土手
多摩モノレール高架下の道路を渡り、進行方向左折して立日橋を渡りました。
10時56分、立日橋分岐(左折)

059 立日橋分岐
立日橋を渡りながら、下を流れる多摩川の先を見ると、富士山が綺麗に眺めることができました。
  ↓立日橋からの眺め(白丸が富士山)
060 立日橋から富士山の眺め
立日橋分岐から約430m歩いて橋を渡り、そのまま約150m真っ直ぐ進みむと立日橋南交差点があり、モノレールから別れて右に進みました。
  ↓立日橋親柱(南側)
061 立日橋・日野側
立日橋南交差点を右側に進み、約170m歩くとスポーツ公園前交差点があり、交差点を渡って直進しました。
11時08分、スポーツ公園前交差点
062 分岐・スポーツ公園前
右側の市民の森スポーツ公園に沿って約350m歩くと、国道20号線の新奥多摩街道入口交差点に突き当りました。
11時12分、新奥多摩街道入口交差点(右折)
063 分岐(右折)
交差点をそのまま渡り、進行方向左側を約60m進むと左側に、明治時代に建てられた有山家住宅が残っていました。
11時14分、有山家住宅(左側)
064 有山家住宅
  
↓明治時代に撮られた有山家住宅
065 有山家付近の写真
蔦か何か分かりませんが、壁面には枝が張り付いており、新緑の頃は葉で壁面が見えなくなるのだろう、と思いながら有山家住宅前を通り過ぎました。
そして、住宅から約180m歩くと川崎街道入口交差点があり、交差点を渡った角に高幡不動尊の道標が建っていました。
  
↓川崎街道(起点)の道標(左側)
066 川崎街道・基点標識
11時16分、高幡不動尊道標(左側)
067 高幡不動尊道標
川崎街道入口交差点を過ぎて約50m行くと右側に日野宿交流館があり、交差点まで戻るのが面倒で、車の有無を確認して道路を横切ってしまいました。
11時18分、日野宿交流館(右側)
068 日野宿交流館
館内に入ると入場している人が居なかったのか、係の人が「こちらのエレベータを利用して下さい」と云われ、係の人は階段を上がって2階の展示室の照明を点けて下さいました。
  ↓2階の展示室
069 二階展示室
  
↓甲州道中の変遷
071 甲州道中の変遷
甲州道中は青柳(現国立市)から万願寺渡船場で多摩川を渡り日野宿に入っていた(点線部分)のですが、貞享元年(1,684年)に日野渡船場を渡るよう改められ、日野宿の西で南西に向きを変え、日野台地を上る道筋に改められたそうです。
館内には道中に関するもの以外に、新撰組に関するものも展示されていました。
日野交流館の展示物をひと通り見学し、次に交流館の斜め向かいの日野宿本陣を見に行きましたが、ここでも交差点まで50m戻るのが面倒で、車の有無を確認して道路を横切ってしまいました。
11時24分、日野宿本陣(左側)
072 日野宿本陣・入口
本陣の冠木門手前の右側に天然理心流の佐藤道場跡碑と、日野宿脇本陣跡を記す標板がそれぞれ建っていました。
  
↓天然理心流佐藤道場跡
073 天然理心流佐藤道場跡
  ↓日野宿脇本陣跡
074 日野宿脇本陣跡
  
↓日野宿本陣建物
076 本陣建物
  
↓本陣の内部
077 本陣内部
甲州道中の日野宿の名主佐藤彦右衛門家の屋敷跡で、始めは上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣として定められ、幕末の頃は下佐藤家が本陣を務めるようになっていたそうです。
敷地内には、幕末に竣工した建物が現存し、屋敷地の主要な部分も大きな改変を受けずに良好に保たれており、都内の本陣・脇本陣跡で敷地と屋敷が現存するのは日野宿が唯一だそうです。
折角の機会なので、本陣内部を見学していこうと思い入口で入館料200円を支払い、靴を脱いで室内に入りました。
内部は畳が敷いてあるだけで特に再現するようなことはなされておらず、東海道の本陣跡みたいに人形などを使って再現していないので、何か寂しい感じがしました。
本陣を見学し道中に戻り約50m歩くと、道路反対側に日野図書館があり、図書館入口脇に高札場跡・問屋場跡の石碑が建っていました。
石碑は進行方向右側のため、今度は道路を横切らず道路の反対側から望遠で撮影しました。
11時40分、高札場跡・問屋場跡(右側)
080 日野宿高札場跡・問屋場跡

問屋場は人馬継立等の宿場業務を執る役所で、上および下の両佐藤家が問屋を務め、高札場は幕府の法度や掟等を掲示する場所として用いられました。
図書館から約70m先に日野本町二丁目交差点があり、さらに90m歩くと右側に日野駅前郵便局があり、その先隣りに史跡となっている渡辺家の建物がありました。
11時43分、渡辺家史跡建物(右側)
081 渡辺家・史跡建物
渡辺家も道路の反対側に建っていたため、道路を横切らずに望遠で撮りました。
渡辺家から約90m歩くと日野市役所入口交差点の処に昭和シェル石油のガソリンスタンドがあり、敷地の隅に「かねこ橋の親柱」が建っていました。
11時46分、かねこ橋親柱(右側)
082 かねこばし親柱
親柱は江戸時代、用水(日野用水の前身)に架かっていたかねこ橋がここにあったことを、後世まで伝えようと平成9年に建てられたものです。
ガソリンスタンドの前の日野市役所入口交差点を進行方向左側に渡り、約70m進むと左側に八坂神社がありました。
11時48分、八坂神社(左側)
083 八坂神社・鳥居
八坂神社には下佐藤家を継ぎ、近藤勇の養父近藤周助の天然理心流に入門した佐藤彦五郎他門人が安政5年(1858)に奉納した額が残っているとのことでしたが、見ることはできませんでした。
084 神社奉納額
八坂神社は本殿の前で、拝礼だけして失礼しました。
八坂神社を出て交通違反をして道路を横切り進行方向右側に移りました。
旧甲州道中は花輪病院の前辺りで右に進み(矢印方向)、約60m先を左折、約20m先の交差点を渡ります。
  ↓分岐(右側)

086 分岐(右側)
  ↓分岐(左折)

087 分岐(左折)
私は国道20号の信号を渡り、真っ直ぐ行くところを右折してJR日野駅の駅舎の写真を撮りに立ち寄りました。
11時54分、JR日野駅
088 日野駅・駅舎
さて、時間も昼時のため、になりお腹が空いてきたので、この辺りで食べようとキョロキョロしながら歩くと、旧甲州道中沿いにそば「中清」の看板が目に入り、「ここで食べよう」と入店しました。
11時56分~12時21分、昼食

089 そば・中清
店内に入って直ぐにトイレを使わせて頂こうとトイレの場所を聞くと、「ここの奥です」と云われ調理場を通ってトイレに行きました。
店の奥にトイレがある時もありますが、調理場を通ることはあまりないので、印象に残りました。
トイレを済ませメニューから「カツ丼とそば」の定食を注文したのですが、出されてきたものを見た近くの人が、「あれにすれば良かった」と云う声が聞こえてきました。
食べているうちに店内は満席となりましたが、蕎麦を食べた後に蕎麦湯を飲むのが好きなので、蕎麦湯を頂いてから店の外にでました。
店を出て約80m進むと日野駅東交差点があり、道中は右折するのですが、坂下地蔵を見に交差点をそのまま真っ直ぐに渡りました。
そして約130m歩くと右側に地蔵とお堂が建っていました。
12時25分、坂下地蔵(右側)
090 坂下地蔵
坂下地蔵の前の道はこの先で行き止まりとなっており、日野駅東交差点まで戻ることになりました。
昔はこのまま真っ直ぐに続いていたのでしょうが、現在はJRが走っていて通り抜けできません。
坂下地蔵に立ち寄った時は日野駅東交差点を左折するのですが、立ち寄らない正規のルートはみずほ銀行に沿って右折します。
12時28分、日野駅東交差点(右折)

092 分岐(右折)
交差点から約60m歩くとJRの高架があり、その下を潜って出た処の交差点を左折します。
  
↓JRの高架下
093 JR高架下
12時30分、日野駅南交差点
094 分岐(左折)
日野駅南交差点を渡り上り坂を約150m歩くと左に行ける道がありますが、道中は真っ直ぐに進みます。
  ↓分岐(左折しない)
095 分岐(直進)
左折出来る分岐から中央高速道路の高架下を潜り、大坂上三丁目交差点を過ぎるなど、坂道を約710m上ると国道20号と合流する日野大坂上交差点に着きました。
12時43分、日野大坂上交差点
096 分岐(合流)
交差点を進行方向右側に渡り約260m歩くと日野自動車正門があります。
《上人塚》
日野自動車の敷地内に「上人塚」があるというので、旅の時に立ち寄る予定にして日野自動車のお客様相談室に電話して見学予約をしました。
しかし、相方のYumiさんが左足首を骨折したため見学の日取りを日延べしたのですが、日が経つうちに認知症と慢性硬膜下血腫が悪化し、旅の継続が難しくなりました。
そのため2度目の日延べした1月25日(日)に、Yumiさんを車に乗せて上人塚だけ見に行くことにしました。
日野自動車の正門守衛所に行き予約していることを伝えると、守衛所の方が上人塚まで案内して下さいました。
上人塚には解説標板も何もなく、ただ塚があるだけで、何か殺風景な感じがしました。
また、守衛所の方は、「最近見に来られる方が増えています」と話されていました。
 上人塚(右側)・・・平成27年1月25日見学
001 上人塚
 
↓上人塚を見に行った時のYumiさんの状態
02 上人塚
上人塚は、元禄年間の文書に「請人塚」という記述があることから、江戸時代には存在していたと考えられている。由来は、美濃(現在の岐阜県)から移り住み、日野用水を開削するなど日野発展の基礎を作った佐藤隼人を称えるため、隼人の業績を記した書を埋納したものという説がある。
また、かつてこの一帯が荒れ野であった時に、狸や狐が上人に化けて甲州道中を行く人をたぶらかしたため、「上人塚」の名が付いたという説もある。
日野自動車の敷地内に残っている上人塚は1月25日に見たので、今日は予約もしていないため、日野自動車の前を通り過ぎました。
日野自動車の正門前から約580m歩くと、日野自動車の敷地を区切るフェンスが終わる数メートル手前のフェンスに一里塚跡の標板が掲げられていました。
12時55分、日野台一里塚跡(右側)
097 日野台一里塚跡
  ↓日野台一里塚・解説
098 日野台一里塚・解説
一里塚跡を過ぎると進行方向左側に浜寿司本店がありました。
この店は昔から美味しい店として知っており、Yumiさんと結婚した当時は住まいの近くに支店があり、お客様が来ると良く出前を注文していました。
また、本店は何回も食べに来たことがあり、店舗を見て懐かしく思い出しました。
12時58分、浜寿司本店(左側)
100 浜寿司本店
浜寿司本店から約20m歩くと日野台交差点があり、進行方向左側に渡って前に進みました。
13時00分、日野台交差点
101 日野台交差点
日野台交差点から約290m歩くとコニカミノルタの工場があり、敷地内にある「富士塚」のがあります。
日野自動車の上人塚は見学を許可して下さいましたが、コニカミノルタは門前払いの扱いで拒否されました。
折角工場の目の前を通るので、ダメ元で守衛所に立ち寄り「富士塚」の見学を申し出ると、「今日は休日で案内に対応できる人が居ないので、平日に総務課に電話して予約して下さい」と云って電話番号を教えて下さいました。
電話予約した時に門前払いされた時とは違い、見学に可能性が出てきたように感じました。
13時07分、コニカミノルタ前(左側)
102 コニカミノルタ
コニカミノルタを出て日野台五丁目西交差点を約50m過ぎた左側に日野市から八王子市に入る市境標識が建っていました。
13時08分、八王子市市境標識(左側)

103 八王子市境標識
八王子市に入り約560m歩くと国道20号と日野バイパスが合流する高倉町西交差点に着き、クランク形に交差点を渡りました。
13時18分、高倉町西交差点
104 分岐(右折)
高倉町西交差点から約350m歩くと、八高線が走る跨線橋があり、今日の到着地が目の前になりました。
  ↓八高線跨線橋
106 八高線
跨線橋から約140m歩くと大和田町交差点の先に、今日の到着地である「大和田二丁目」バス停があり、無事到着しました。
13時25分、大和田二丁目バス停(左側)
108 大和田二丁目バス停(到着地)
Yumiさんが居ればYumiさんにモデルになってもらうのですが、今日から一人での旅になるため、持参したミニ三脚にデジカメを取り付けセルフタイマーで到着式を行い、第3回の旅を終了しました。
帰りは、道路反対側のバス停からバスに乗り、日野駅を経由して家に帰りました。

【次回の予定】

第4回旧甲州道中夫婦二人旅は、3月14日(土)に大和田バス停から小仏バス停までの12.85㎞を旅する予定です。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


昨年10月11日に第2回旧甲州道中夫婦二人旅を実施した翌週の17日に、相方のYumiさんが山行の途中で左足首を骨折し旅が中断しました。
【骨折後の状態】
その後、Yumiさんの骨折は3カ月掛かって1月末に完治したのですが、骨折してから急速に認知症状が進行し、要介護区分変更の認定調査(1月13日)を受けると、1月28日に開催された判定会議において介護度が2段階進み「要介護2」から「要介護4」になりました。
さすがにこの状態になると歩行は、私が介添えしないと転倒するリスクが高くなり街道旅をすることは困難で、私が一人で旅を続けることになりました。
何時かはこのような時が来ると覚悟はしてましたが、旧東海道に続いて完歩を目指していたので、一緒に歩くことが出来なくなり残念です。
これからは私一人で旅を続け下諏訪のゴールを目指したいと思いますので、変わらぬご声援をお願いします。
【旅の再開】
さて、旅ですが、天気の良い日に再開したいと考え天気予報をみたら「2月11日(水・祝)」はほとんど雨天の心配のない「☀」なので、この日に再開したいと思います。
なお、当日はYumiさんを介護施設にショートステイで介護をお願いすることにしました。
【旅の名称】
Yumiさんと二人で歩くので「旧甲州道中夫婦二人旅」としました。
しかし、相方のYumiさんが不測の事態から旅を続けることが困難となり、私が一人で歩くことになりました。
そのため、旅のタイトルをどのようにしようか考え、旅は一人で続けるにしても、いつもYumiさんと一緒ということで、タイトルは変えないでそのまま「旧甲州道中夫婦二人旅」にすることにしました。
これからも変わらぬご声援をお願いします。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-1》 旧東海道夫婦二人旅
H24.03.11に日本橋を出発し、H26.01.17に京都・三条大橋に到着するまでの37回のEiさんと認知症のYumiさん(要介護2)夫婦の旧東海道の旅ブログです。
ブログには、旅の途中で楽しんだ番外編(京都嵐山の紅葉、安土城址、神戸ルミナリエなど)や七里の渡し、佐屋街道の旅紀行も掲載しています。
街道ウォーカーの皆さんのお役に立てたら幸いです。
今回の旅は、出発日が東日本大震災と同じ日(1年目)、到着日が阪神淡路大震災と同じ日(19年目)と同じ日と、ともに大震災が発生した日になっていますが、これは意識して震災日に合せたわけではなく到着してから友人に教えられ気が付きました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮宿の日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旧奥州街道の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道をあるくため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って歩き、五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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